リライト ピッチにいくつもの声が響いている。
空は晴れていた。青あおとしたそこに、ときおりちらりと鳥の影が落ちた。
市営陸上競技場の観客席最前列に月島はいる。かたわらには伊達がいて、さきほどからずっと無言でピッチを見据えている。
土曜日の昼だった。
ユースの遠征帰り、近場でかつての同僚と教え子の試合があると聞いて月島は伊達とふたり、チームと分かれてこの地まできた。福田は用事があるとかで、あいつらによろしくなーという言葉のみを餞別に寄越してきた。
スタンドの観客収容率はざっと見たところ二百人ほど、指定席はないからあちこちに立ち見が出ている。人気なんだねと言えば伊達がちいさく頷いた。五部リーグの上位を争う両クラブには、かつての日本代表やスター選手の姿もちらほらとある。
入場口でもらった選手一覧には、裏面に年間スケジュールが記されている。タオルマフラーやマスコットキャラクターのグッズの宣伝もあって、そのうちのひとつが教え子の番号であることに月島はすこし嬉しくなる。予算の都合もあるのか、タオルマフラーは選手五人分しかなかった。あとで買おうとひとりごちれば、伊達もちらりとこちらの手元に目をくれる。
むきだしの地面のうえ、黄色と赤と、それぞれのユニフォームが入り乱れる。石灰でひかれた陸上用のトラックが、選手たちのスパイクで踏み消されてゆく。
スタンドはグラウンドの片面にしかないから、応援席は綱一本で仕切られていた。左側には黄色、右側には赤のレプリカユニフォームを着た人々がいる。選手個人の応援も多いらしい、往年の代表ユニフォームや一部時代のユニフォーム姿など、スタンドは賑やかだった。中学生らしいジャージ姿の一団が最上段で立ち見をしている。選手の一挙手一投足にわーわーとはしゃいでいるのがほほえましい。
教え子は黄色のユニフォームを、昔の同僚は赤色のユニフォームを着ている。
クリーム色に塗られた手すりに両ひじを預け、月島はどちらに肩入れするともなく試合を眺める。後半十五分0対0、事前にネットで調べたところによると順位は黄色のクラブのほうがひとつ上だった。
教え子はたしか今年で二十一になる。ユースからトップにあがることなく三部リーグの選手となり、今年から五部リーグに入ってクラブの優勝争いに貢献している。
スタンドの隅のあたりにいま月島たちはいた。観客席の最前列中央あたりには太鼓と笛を掲げたサポーターが数人どんどんぱふぱふと試合を賑やかしている。コールリーダーらしい男性が拡声器で叫び、しきりと観客席に手拍子を要求する。とはいえさほどコアなサポーターもいないらしい、応えるものはまばらで、男性もまた気が向いたら一緒にやりましょーなどと呑気に声を張りあげている。
穏やかな昼下がりだった。ピッチ上では選手たちが威勢よく言葉や体をぶつけあっている。往年の名選手にボールが渡るたび、かつてのチャントが歌われる。
「いいね」
月島が言えば、伊達は小首を傾げた。試合に集中していただろうにいちいち付き合いがいいものだと、月島はこっそり感心する。
「どこに行っても応援し続けてくれるってありがたいことだよね」
観客席には以前自分が所属していたクラブのユニフォームもあった。何年かまえのそのデザインは、いつか自分も身につけていたものだった。
「そうだな」
伊達が短く相槌を打つ。やっぱり律儀だなあと、そんなことを思いつつ月島はピッチに目をやった。
赤いユニフォーム側でわあと歓声があがり、ぱちぱちと拍手が起こる。とはいえ結局ゴールは割られずに、シュートを受け止めたキーパーの敏捷な投擲におおっとどよめきが湧く。
「福田さんがさ、義経くんたちのトップ昇格会見のとき言っただろう。我々は絶対的な才能を育てたいって。十六、七で世界に出るくらいのすごい才能をさ」
あの子も、とピッチ上で駆ける黄色いユニフォームのひとつを月島は指でしめす。
「僕もね、ちいさいころからずっとユースでやってて、残念ながらトップにはあがれなかった。僕は大学から一部にいって、ひとつのクラブっきりで数年で引退していま古巣に戻ってる。あの子は三部から五部にいって頑張ってる。代表経験があるひとたちに揉まれたら、また強くなるかもしれない。選手を続けるってことは可能性が増えていくこと、目減りしていくこと、どっちもなんだろうね」
風が土の匂いを運んでくる。スパイクに掘り返された地面が妙に生なましく目に残った。だれがあれ整地するのかなあと、そんなことをちらりと考えた。
「福田さんの発言で、ユースの子たちが色めきたってたよね。僕もたぶんあの年頃に、しかも福田さんにあんなこと言われたらわくわくして、自分も絶対高校生のうちにプロになるんだ世界に出るんだって意気込んでたと思う。でもいまの僕は、あの言葉があるぶん、一年後、二年後によけいにつらくなる子もいるんじゃないかなって思ってるところもある」
まあちょっとだけだけどね、とおまけにひとつつけくわえてみる。
観客席が湧き立って、見やるそのさき黄色いユニフォームをきた選手がゴールに果敢に迫ってゆく。ボールは守備陣に阻まれて、あえなくラインの外に転がった。ああと落胆の声があたりを領したけれど、すぐにどんどんと賑やかな太鼓の音がそれを塗りつぶしていく。
「阿久津くんの家のことも、たぶん僕には何もわからない。ちいさいころから十年近くユースに通わせてもらってるような人間がわかったようなことを言うべきじゃないと思う。でも、福田さんの言うこともちょっと現実的じゃないっていうか、まるで阿久津くんを映画のヒーローか何かに奉るみたいだなって思う。彼だって生身の人間なのに」
伊達は普段と変わらず静かにピッチを見つめている。しばらくして、ぽつりと低い声がした。
「生きるために物語を必要とする人間は多い」
え、と月島はまたたく。ふりかえる、そのさき伊達は淡々と言葉を重ねていく。
「私もおまえと同じだ、月島。阿久津のことは何もわからない。わかってやれない。私は阿久津の生い立ちを聞いたとき、かわいそうだと思ってしまった。そんな親がいるのか、そんな境遇の人間は私のまわりにはいなかったと口に出してしまった。それこそが暴力だとその場で気づくこともできなかった。それは本人がいないところだからいいというものでもない。私はどうしても、自分の情を物差しにして他人をはかってしまう」
ごっとボールを蹴る音が近くでした。白と赤の入り混じった色をしたボールが、青空に高い放物線を描く。すぐ目のまえを選手たちが一団になって駆けていく。かっこいい、と黄色い声があちらこちらで上がった。
「福田は選手たちそれぞれに合った物語を渡してやれる。それはときに彼らにとって生命線に等しいものだ。ただオーダーメイドだからな、他人が聞いたときには違和感もあるだろう」
ピッチを自在に駆ける、黄色いユニフォームを月島は眺める。自分よりもずいぶんと背の高い相手に競り合っている、その姿に観客席のサポーターたちが歓声を上げる。
ベンチの座面に両手をつき、月島はうんとのびをする。
「結局福田さんはすごいってことかな」
冗談まじりにそう言えば、けれど伊達はきまじめにかぶりをふった。
「私は長年あいつの近くにいすぎて目がくらまされているところがある。おまえのほうがきちんとものを見て、あいつとは違うやり方で選手たちを育てられる。そう思うことはときどきある」
「へえ?」
ぱちぱちと瞬いて、それから月島はにっこりとした。
「望のくれる物語は優しいね」
応えがないことはわかっていたから、月島もまたピッチ上に目を戻す。
赤いユニフォームの選手が、ボールを持った黄色いユニフォームの選手のゆくてを阻む。どちらも月島にとっては見知った、その姿をそれぞれに応援するものがいる。
ごっと鈍い音がして、ボールが空高くあがった。太陽の光に溶けて、白と赤のまだらの球が一瞬見えなくなる。
手びさしをして見あげる、そこには雲ひとつない青空が広がっていた。