同じ空の下 ネットの端をくぐってあらわれたひとに、月島はボードに書き込む手を止めた。
「福田さん」
そう呼べば、おうと短い返事がある。
「どうしたんだい?」
尋ねたのは、普段よりも憔悴したさまが目についたからだった。
ああ、と肩をすくめ、福田はぶらぶらと近づいてくる。
練習場には子どもたちの掛け声が響いていた。福田率いるAチームは今後の試合日程が密ということもあり、きょうは軽いリカバリのあと早々に解散していた。そのぶんBチームのメンバーは張り切っているようで、ボール回しをするグループがあちらこちらに、伊達がしっかりとそれらに目を配っている。月島は記録係として、選手それぞれの気になるところをメモしているところだった。
福田が隣に立ち、あいつら元気だな、と言った。およそユース監督にあるまじき発言、なにやら疲れきった様子に月島は小首を傾げてみせる。
「ほんとにどうしたんだい」
「さっきアシトと立ち話しててな。あいつとはじめて会ったときの話になったんだよ。愛媛のな、浜辺であいつにはじめて会って、あいつは俺が与えた課題に夢中になって夜じゅうボール蹴ってた。そんな話をしてたところに堀田が通りかかってな、それでアシトが、俺がボール蹴ってるあいだオッチャンはベンチで寝てたな! なんて笑顔で言いやがって」
いかにもいやそうに顔をしかめる福田に、月島ははあと相槌を打つ。
「それが?」
「夜露がどれだけ膝に悪いか、自分の体を自分で大事にしないでどうするとかってとっつかまって懇々と説教された」
アシトのやつ堀田にびびって俺を置いて途中で逃げやがった、と福田は恨めしげに半眼となる。その仕草はそれこそ青井とおないどしの子どものようで、月島としてははあと返すよりほかなかった。
「もう何ヶ月も前の話だってのに、トレーナー室に引っ張り込まれてめちゃくちゃマッサージされたわ。マッサージつってもリハビリのよ? あいつ容赦なく膝の皿まわしてくんの、気絶するかと思った」
口元に手をあてて唸るさまもまた名監督の誉れにはまったくそぐわない。トレーナー室での光景を想像し、月島はつい笑ってしまった。
「堀田さんも福田さんのこと心配してるんだよ」
福田がちらりとこちらを見やる。も、というところに気づいたのか、そうだなという声からは茶番じみた気配は消えていた。
伊達が笛を吹き、あちらこちらへと指示を飛ばす。ゴール側では弁禅が、GKたちにぽんぽんとリズミカルにボールを出している。
空は晴れていた。
フェンスの向こうには子どもたちを見守る保護者やサポーターの姿がちらほらと、平日というのに熱心なことだと月島は思う。
福田はそれきりなにを言うでもなく、ぼんやりとフィールドを眺めている。ポロシャツにジャージを羽織っただけのラフな姿、これから過酷なスケジュールが待っているというのにその姿はふしぎと穏やかだった。
その横顔に目をやってから、月島もボードへの書きこみを再開する。
青空にこどもたちの声とボールを蹴る音が響きわたる。日差しがじりじりとジャージ越しに肩や首筋をあぶってゆく。
しばらくして、かたわらでぽつりと低い声がした。
「怪我したとき、さんざんマスコミにあれこれ書かれたんだよな。福田達也はもうだめだとか終わりだとか、そういうこと書かれて、雑誌とかだけじゃなくてまわりからもそんなこと言われたりして、まあ俺自身はまだいけるとかひとの言うことなんか知ったことかとか、そう思ってたけどさ、それはそれとしてネガティブなこと言われ続けると世界中の人間がそういうこと思ってんのかなとかはときどき、まあ、なったりもしたわけよ」
世間話でもするような、その口元にはやわらかな笑みがある。ならこちらも世間話を聞くようにするべきなのだろうと、月島はふうんとちいさく相槌を打った。
福田はジャージのポケットに両手を突っ込み、ひょいと顎をしゃくってみせた。それがさししめすさきにはフィールドがあり、サッカーボールを追って駆けまわる子どもたちがいる。
「あいつらは俺の選手だった頃をたぶん知らない。あいつらにとって俺は監督で、膝がどうとか関係ない。それでさ、俺の膝も、べつに選手生命なんていまは全然かかってなくて、単に夜露に濡らすとか痛めるようなことしたら患者として怒られる。十年経つとそんなもんなんだって、まあ、そういうな」
そうだねと月島は答える。それが福田自身の感慨なのか、それとも別の意味をふくむのか、つきつめるのはやめておくことにする。おそらくは福田自身にもはっきりとしてはいないだろうことを、あえてとらえなおす気はなかった。
「福田さん、意外とときどき自己評価低いからね」
「なんだそれ」
不服げにする福田に、言葉どおりの意味だよと月島は返す。
と、練習が一段落したらしい、弁禅と伊達が揃ってこちらにやってくる。弁禅のうしろには秋山がいた。怪我明けのため所属チームとは別メニューを組んでいて、その顔に疲労の色はなかった。
「何の話をしとるんじゃ」
弁禅がドリンクを秋山に放りつつたずねてくる。
「堀田さんが福田さんを心配してたって話」
あっさりとまとめてみれば、福田はむむと渋面をつくる。納得はしていないがさりとて間違いでもないというような、そのさまを伊達が訝しげにみつめている。弁禅もそうかと言ってそれっきり、なんとはなしつながらない大人たちの会話に、秋山があっけらかんと割って入った。
「堀田さん、福田さんのことよく心配してますもんね。俺、高円宮杯出たいって言ったら堀田さんに叱られましたよ。怪我ですべてを失った福田さんの気持ちも考えろって」
「いや、すべては失ってませんけど」
快活に笑う青少年に、福田が真顔でつっこみを入れる。
「え、あいつ俺のことそう思ってんの? ざっくりすぎない? 俺さっきあいつに心配されて感動した風なこと言ったの取り消したい」
拳を口元にあて、福田はなにやらぶつぶつと呟き続ける。
「堀田さんってわりとそういうところあるよね」
月島が呑気に感想を述べれば、なぜだか伊達は無言を貫き、弁禅もまたううむと考えこむようにする。秋山が気まずそうに、それは月島さんも、と言いかけたのをあとからやってきた二階堂が羽交い締めにしてとどまらせた。
福田はしばらく唸り続けていたが、伊達に肩をたたかれてようやくのこと機嫌を直したらしい、まあいっかと笑ってみせた。
「ほんと、十年経つとこんなもんだな」
さきほどの会話を聞いてはいないだろうに、そうだなと伊達がうなずく。その表情は穏やかで、かたわらにある福田のそれとどこか似かよっていた。
並ぶふたりの姿を、こどものころフェンス越しによく見かけた。そんなことを月島は思いだす。いまもまたふたりは並んでいて、けれど昔とはどこかが違っている。
ほんとだねと呟いた、声はわれながらちいさく、あたりのひとには届かないまま青空にまぎれていった。