L'amour est bleu 甘美なる恋は水色に揺蕩う
あなたにいだかれるとき
僕のいのちは歓喜にふるえる
甘美なる恋は水色に揺蕩う
あなたに添うとき
僕のたましいは甘くせつなくうちふるえる
ベンガーナの王立機関からのモンスター討伐を何件かこなすうちに、ノヴァは新しい工房の増築改修費用のほとんどを貯める事ができていた。
目標額まであと一歩だ。ノヴァは計画当初から達成額を決めており、達成次第何処かへ普請を借りて、改修工事に当たってもらおうと考えていた。
建築家や大工はベンガーナにいるので、賃貸も同じ街で借り受けることにした。
増築と改修には二ヶ月から三ヶ月程かかるとの事で、それだけの期間があれば残りの費用も貯められる上に、家賃も支払うことが可能だ。
ノヴァはさっそくベンガーナに普請を見つけに行き、さっさと契約をして間借りの準備を始めた。
ロンにその事を伝えると、自分は森の奥深くへ移り住むと言い始めた。人里があまり好きではないのは解っているが、何ヵ月もロンを一人で野宿させるのは忍びなかった。
「先生、ボク、未来の工房の為に努力を重ねてきました。先生からきちんと教えを受ける為です。ボクの努力を少しでも認めて下さるなら、お願いですから一緒に街へ行って下さい」
そう言われるとさすがのロンも無下には断れない。不承不承ではあるが、街へ移り住む事を承諾した。
ノヴァは鍛冶の道具や師曰くナマクラの幾振りかを納戸に入れて丁寧に仕舞い込むと、彼を連れて最小限の荷物と共にベンガーナへと飛んだ。
街外れに到着すると、ロンは外套のフードを目深に被った。薄い勿忘草色の肌も見えないように外套の胸元をピンで留めるようにノヴァに促す。
ロンは自らの種族や出自をどうとも思っていないが、人間の方がそうはいかないことを十分に理解していた。この若い弟子のような人間が珍しいのだ。魔族と人間が共に暮らせるようになるには、長い年月が必要なのかも知れない。
ロンの外套の胸元を合わせながら、ノヴァは言葉にできないやるせなさを感じていた。
仮の住まいは大通りを避けた路地裏に位置していた。番所や市場やデリからはやや離れていたが、喧騒も届かず静かで、それなりに陽当たりも良い。
三階建ての仮住まいの一階の扉を開けると通路があった。奥へ進むと大家の部屋があり、手前の階段を上ると二階の住民のフロア、三階に上るとノヴァが借り受けた部屋があった。
ノヴァはすでに受け取っていた鍵を使い扉を開ける。廊下を進むと二つのドアがあり、不浄と湯浴み場がそれぞれ独立してついていた。
そこを通り過ぎると二十畳ほどのキッチンつきのリビングがあり、さらにドアを開けると、その先には十畳ほどの部屋が二つついていた。
これからもしばらくはモンスターの討伐を受けていくことになるので、湯浴み場は外せなかった。水は風車の力で、地下水をポンプで屋上のタンクへ吸い上げ、各戸に流していると大家の説明を受けていた。
ノヴァはロンの外套を脱がせると、テーブルを挟んで椅子に座り、これからの計画を詳しく説明した。
あのくちづけの後、二人の仲が変わったかというと、ほとんど何も変化がなかった。むしろお互いが意識しすぎて何もできない、という方が正しいのかも知れなかった。
忘れないでとお願いした割には、何をどうすべきなのかノヴァには皆目見当もつかなかったし、ロンはロンで目標に向かってひた走る弟子にちょっかいを出すいとまも無かった。というより、出してはならぬ気さえしていた。真面目や頑固すぎるのも考えものだな、などとお互いがお互いをそう感じていた。
ノヴァは自分の中で芽生えたあの感情について考えてみる。ふと気づくとロンの事ばかり考えている自分に思い至り、彼を誰にも渡したくない気持ちは、もう間違いないと理解するようになってきていた。
男女の恋愛とは違うのかも知れないが、自分のロンに対する想いも紛れもなく恋なのだろう、と次第に受け止める事ができるようになってきていた。
ロンもくちづけを交わすくらいだから、ノヴァの事を憎からず想っているはずだ。しかしロンの表情からは何も読み取れなかったし、あのくちづけはひとときの気の迷いか、ただの衝動だったのではないかと、ノヴァを大いに不安にさせていた。
自分ばかりがロンを想っていて、相手の気持ちはとっくに醒めていたら一体どうすれば良いのだろう、と胸が塞がれるような気持ちがした。
これが恋というものだとしたら、なんという度し難い病にかかったのだろう、とノヴァは真剣に悩んでいた。寝ても覚めても浮かぶのはロンのことばかり。自分から想いを伝えれば良いだけの話なのだろうが、彼の気持ちがとっくに醒めていたら……と堂々巡りの悩みしか生まれてこない。
その苦しい恋の悩みを忘れるかのように討伐依頼をこなすものだから、資金は次から次へと貯まっていった。もういっそのこと、預貯金額だけを見つめて生きていこうかなどと、詮ない考えが頭をよぎった。
ロンはロンでノヴァの最近の様子を訝しんでいた。以前のように笑わなくなったし、話しかけてもすぐに視線を逸らしてしまうし、ため息をつくことが多い。
そうかと思うと鬼神の如く討伐依頼をこなして預金高を増やしていく。いつだったか、夜中に預金額の台帳を見ながら低い声で笑うノヴァの姿を見て、鬼気迫るものを感じたことがあった。
声をかけあぐねて後ろ姿を眺めていたら、ぎらりと振り返り、見たな、とつぶやかれた時には心底肝が冷えた。はじめてくちづけを交わした時に見たあの艶冶な表情は一体どこへ行ってしまったのか。
忘れないで、と言われたからには絶対にあの月下の出来事を忘れてやるものかと思っていたが、果たしてノヴァ本人はどこまで覚えているのやら。
忘れられているのだろうか。それともただ単に放って置かれているのだろうか。このわけの分からない気持ちを弄ばれているのだろうか。二百六十年近くも年の離れた若木に。そう考えるとロンは気が滅入りそうだった。
討伐依頼も立たず、平和な日々が続いた。やることがないと考えるのはお互いの事ばかりだ。座学として鍛冶の基本を師から学んでいたが、双方ともいまいち身が入らない。工房ではない場所にいる事の座りの悪さが、二人の間に醸成されていた。
仮住まいに越してきて一ヶ月も経った頃、身体を思い切り動かしていないせいなのか、ノヴァは明け方にふと目が覚めてしまった。茶でも飲もうとベッドから降りてリビングへ行くと、ロンも眠れないのか、ぽつねんと椅子に座り考え事をしていた。
「お前もか?」
「先生も?」
同時に声を掛け合ってしまい、二人で苦笑する。外はしとしとと春の静かな雨が降っている。ノヴァはケトルで湯を沸かすと甘い香りのする茶葉をポットに入れた。
「……ボク……考えてみたんです」
「うん?」
しばらく言葉を濁したノヴァが息を吸い込むと、思いきったように話し出した。
「先生、運命の赤い糸って知ってますか?」
「……知らないな。なんだそれは」
「男女には運命で結ばれた相手がいて、互いに赤い縄で足が括られているそうです」
「なんだ……糸じゃないのか?」
「時を経ていつしか結ばれる運命にある男女の小指どうしには赤い糸が結ばれて、お互いに惹きあうという伝説になったたそうです」
「なるほど。男女、な」
ノヴァはそっと息を吐くと、もう一度勇気を奮うように息を継いだ。
「はい。結ばれる運命にある男女です」
「………そうか」
「でも、他にも糸があるそうなんです」
「……………」
「男どうしには青い糸が結ばれているそうです。若い男どうしは、水色の糸」
「………そうか」
「見たこと、ありますか?」
「………ないな」
「ボクも、ないです」
それきり、ノヴァは黙り込んでしまった。蒸気が立つ音がして、ノヴァは火を消すとポットに湯を注いだ。しばし蒸らしてから二つのマグカップに、ヴァニラの香りのする茶を注いでいく。
酒の方がいい、などとロンは言わなかった。
テーブルに芳しい茶を置くと、ふわりとした甘い湯気が立ち上る 。雨の音が静かに室内に響いている。ノヴァはロンに近づくと、足許に跪いた。
「先生、こゆび、かして」
ノヴァは言うが早いかロンの左手の包帯をするりとほどくと、薄い勿忘草色の肌を露出させた。怪我を負っているので、その肌は少しくすんで見える。
ノヴァは自分の白藍の髪をひとすじぷつり、と抜き去ると、ロンの左の小指に巻き付け、反対側を自分の左の小指に絡みつけた。
「………水色の糸、見えました?」
ロンはノヴァの動きを、奇跡を見るような想いで見つめていた。
「ボクたち……きっと、こういう事なんです」
「……………」
「貴男を刺した時に識ったはずなのに……やっと気づきました」
ノヴァが祈るようにロンの手に自分の額を乗せた。
「貴男とボクの、心臓に一番近い指だ」
祈りの姿勢からふとおもてを上げると、真摯な眼差しでロンの瞳を覗き込む。
「貴男の心はボクのものだ。そして、ボクの心は貴男のもの。ボクは貴男を愛しているし、貴男もボクを愛しているんだ」
ふと立ち上がると、上体を屈めて、ノヴァはロンをぎゅっと抱きしめた。
「先生………貴男の事が………大好き」
「…………」
「こうしているだけで、ボクの胸の奥は甘い痛みを感じるんです………取り出して、貴男に見てもらいたい」
「…………」
「貴男はボクのものです……」
「…………」
「ボクは、貴男の、もの………」
言葉と感情の洪水だった。これほど思考が停止したのは、魔界から初めて人界に来たとき以来だった。
「………先生?………なんか言って………?」
「……………」
「ふふ……いいです。ボク、そんな貴男が、大好きです」
ロンも痛む腕を上げてノヴァを包み込む。抱きしめていたのが、いつの間にかノヴァが抱きしめられる格好になる。
「ボク、いつか………貴男と雨の話がしたい………」
ロンの頬に自分の頬を寄せて囁く。
窓の外には明けきらぬ空。優しい花時の雨が降り注ぎ、世界をゆっくりと水色に染め上げていった。
―おわり―