困った人 総ての決着をつけ、現代へ還って来てしばらく。平穏無事な日々が続いていた。
ゆきは、日本の高校に通い始め、江戸から現代へ連れたってやってきたリンドウも、龍神の加護か配慮か、何らかの職を得て生活は安泰のようである。
だが、そのリンドウについてゆきは気になることがあった。
晴れて恋人同士となってからは、彼の度を過ぎた愛情もそれ程苦になることもなく、週に二、三度の逢瀬を楽しんでいた。
ところが最近のこと。リンドウの部屋を訪ねたゆきは、和紙の長い紙束……手紙だろうか、を眺めて苦笑する彼の姿を見つけた。
その顔は、眉根を下げて困ったようにしているのに優しい微笑みを浮かべているのだ。
ゆきは、その顔に覚えがあった。
母が贈ってくれた真珠のネックレス。これを見ながら現代の生活を思い出していたときの自分。懐かしくて嬉しいような、悲しいような。きっと、今のリンドウのように苦笑ともつかない複雑な微笑みを浮かべていたに違いない。
ということは、である。
(リンドウさん、元の世界が恋しいのかな)
いくら乞われたとはいえ、生まれ育った世界とはまるで違う異世界へ連れて来てしまったことを、ゆきは多少なりとも気にかけていた。
不便がないように、不安にならないように心を砕いていたつもりだったが、それだけでは拭えない思いもあろうことは容易に想像できた。八葉たちに支えられていたはずの自分がそうであったように。
(手紙か……)
公家の名家中の名家の生まれでありながら、現代へ行くと決めたリンドウの身辺整理は非常にあっさりしていた。
ゆきの挨拶回りに付き合いながら、江戸の邸は、二、三ばかり古参の家人に言付けをした位で、一度だけ京の本家に出かけたかと思ったら、すぐに戻って来た。
おそらく今生では二度と会えないであろう家族と一日くらい過ごさなくて良いのかと聞けば、後は書状のやり取りだけで十分だと言う。
気にはなったが、それ以上は何も言えないでいたのだ。
(でも、気になることはちゃんと聞いた方がいいよね)
ゆきは、素直に尋ねることにした。
「リンドウさん。何を読んでいるの?」
「ああ、兄弟からの手紙だよ」
「それ、こちらの世界に来る時に持ってきたんですね」
「慰めにはなるかと思ってね」
「元の世界が懐かしいですか?」
「全く」
問えば、間髪入れずに返答された。
だから、ゆきは心に疑問が残るのを感じつつも、その時はそれ以上問うことをしなかった。
それから、さらに数週間が経った。
相変わらず、時々だが手紙を眺めるリンドウの姿を見かけた。
表情も変わらずだが、時折楽しそうに笑ったりする。
本人が望郷の念とは違うと言うのだからと重ねて問うことをゆきは躊躇っていた。
(でも、やっぱり気になる)
こうなると、気になるのは手紙の内容である。
慰めにはなるかもとリンドウは言っていた。もしかして、何か彼の心を慰めるヒントが、ゆきの知らないリンドウのことが書かれているのかもしれない。
そう決めつけて、ゆきは勇気を出して再び手紙について尋ねることにした。
「リンドウさん」
「なぁに、ゆき」
「そのお手紙、お兄さんからですか?」
「うん。こっちの強い筆跡が兄、こちらの長いのが姉からだよ」
これも後から知ったのだが、リンドウには母を同じくする兄と姉が居る。二人とも星の一族だ。
兄は二条家の当主で、あの世界の関白を務めていた。歳も随分離れているし、あまりに位の高いひとだから、実弟である自身も気安く会うことはかなわないと言っていたことを思い出した。
「確か、江戸のお庭はお兄さんが整えてくださったんですよね。素敵なお庭だったから、私、お礼を言いたかったです」
「必要ないよ。あれは兄上の使命みたいなもので、整えさせられたのは僕だから」
リンドウは、あからさまに不機嫌な顔をして言う。さり気なく自己主張も忘れない。
「使命……ですか?」
「そう。一応、星の一族の当主でもあるわけだし、信心深い方だから、神子の為にあらゆることを惜しまぬ覚悟でいらっしゃったよ。でも、ゆき。さっきの会話で拾うところ、そこじゃないよね?」
不満そうにブツブツと呟くリンドウを横目にゆきは思案を巡らせる。
「お姉さんは、どんな方なんですか?」
「君、相変わらずひとの話を聞いてくれないね」
「ごめんなさい。でも知りたくて。リンドウさんのこと、いろいろ知りたいの」
そう伝えれば、またそんな言い方をして、と頬を染めてリンドウが怯んだ。その隙を逃さずゆきは本題に切り込む。
「お手紙、なんて書いてあるの?」
「え、ああ。不肖の弟が神子について異世界へ行くなんて許されないことだと書かれているよ」
ゆきは驚きのあまり、思考が一瞬停止した。
「私がリンドウさんと一緒に帰ってしまったから?お兄さんは、リンドウさんがこちらの世界に来るのを反対していたの?」
「それはそうだろうね」
「……そうですよね」
あっさりと頷かれてゆきは気落ちしたように俯いた。
末弟とは言え、名家の御曹司で、才気煥発な次期将軍とも上手くつきあっていた有能な人材である。血も繋がっていれば、尚更可愛いことだろう。
それを、突然やってきた自分が二度と手の届かぬ場所に連れ去ってしまったのだ。
ましてや、神子を辞めた今となっては、星の一族とも関係は無いのに。
やっぱり聞かなければよかったかも。でも、聞いてしまったからには、私はリンドウさんに何て言えばいい?
いよいよ落ち込んだ風に表情が曇ったゆきを見て、リンドウが口を開いた。
「もしかして君、何か勘違いしてない?」
「え?」
「兄上が、君に怒っているとでも?」
「違うんですか?」
「さっき言っただろう?不肖の弟が神子殿についていったのを嘆いておられるだけだよ。」
「だから、それは私がリンドウさんを連れて行っちゃったから……。私が……。」
「違うって。兄上は僕よりずっと星の一族の使命に忠実で信心深い方だと言ったじゃないか。本当は、自分が神子殿を助けたかったし、今だってご自分がついていきたかったとおっしゃっているだけだよ。」
「え?」
「姉上も同じ。星の一族として生まれたからには、神子殿に仕えるのは至上の喜びなんだよ。それを、出来の悪い弟に役目を掻っ攫われたあげく、逃げられたんだから、そりゃ気分も害するよね。」
「はあ。」
「実際、神子殿……ゆきは僕のものだし、それが悔しくてしょうがないから長々と手紙を寄越して厭味を言っているわけ。本家に居たらキリが無いからね。早々に退散したわけはそういうこと。」
何やら、ゆきの想像を絶する展開に困惑しながらも、ゆきはもう一度確認した。
「その、お手紙。前に心慰められるって。」
リンドウは、ゆきの問いかけに一瞬目を見開いた後、意図を理解して満足そうに笑顔で答えた。
「悔しそうな兄上達を想像すると、ゆきが僕だけの神子殿だって実感できるじゃない。それが最高に愉しいし癒されるね。」
二度、三度、瞬きしたゆきは、何か言葉を継ごうとしたが上手くいかない。
まさか、そんな話をされようとは。
「ゆき、どうしたの?」
ソファの隣で愉しそうに呼びかけるリンドウには答えないまま、抱きしめたクッションに顔を埋める。
——ああ、本当にどうしよう。
にこにこと、ゆきの反応を待つリンドウの気配を感じながら、ゆきは苦悩したのであった。