だっておまえの匂いと言うから「風息、街でお前の匂いが入った瓶が売っていた」
「……なんて??」
虚淮の言葉にはいつも丁寧に耳を傾け、できるだけ咀嚼してから丁寧に受け答えをする風息も、この時ばかりは率直にそう返した。
聞こえなかったわけではないが、意味がよくわからなかったのだ。だが、繰り返された説明が先ほどと一言一句変わらず同じものだったので、風息は読みかけの文庫を閉じて、しっかりと相手に向きなおった。
「もう少し詳しく」
たぶん、どこかに出かけていたのだろう。現代服に身をつけた虚淮は、見覚えのあるロゴの紙袋を持っている。お茶飲むか、と一応問えば、虚淮はひとこと「飲む」と頷いて、風息が座っていたソファの隣にすとんと腰掛けた。
果たして、かいつまんで聞いた話はおおよそ以下の通りである。
正確には、売られていたのは風息の匂いではなく風息をイメージして作ったものらしかった。街中のショーウィンドウ越しに見つけて、店に入ったのだという。
俺のイメージってなんだと風息は思ったが、人間や人間の街で商売する妖精の考えることなど預かり知らぬところである。
香水という存在自体は、風息も知っていた。昔からあった、ようは乳香みたいなものだろう。今はそれが使われているか知らないが、街を歩いているとたまに強い匂いを感じ取ることがある。おそらくあの人工的な匂いが香水だ。
土産に買ってきたという焼き菓子を自ら食べつつ、虚淮は言った。
「試してみるか? 買ってきたから」
「いや、俺は別に――なんで??」
本日二度目の聞き返しをした風息は、そこで漸く、彼の横に置かれたもうひとつの紙袋に気づいたのである。
もしかしなくてもその、菓子ではない方のやけにおしゃれなその袋、それか。それ香水だったのか。
「……なんでそんなものを」
「興味本位だ」
かろうじて問うた風息に、虚淮はこれ以上ないほど潔くそう言った。結構いい値段がしたから、いいものなんじゃないか、とも。
興味本位で結構いい値段のする、特にまったく生活に必要ないものを後々請求される会館はたまったものじゃないだろうなと思ったが、それもまた風息のあずかり知らぬところだ。反応に困って黙り込む風息に、おまえの名前が書いてあったからつい、と虚淮はバツの悪そうな小声で言った。
彼は虚淮。普段何事にも動じないし常に冷静な判断を下せるが、こと風息に関してその判定がザルになる――というのは本人が言っていたことだが。そんなことないだろうと思っていたが、そうなのかもしれないと、この時はじめて風息は思った。
でも、そんなふうに言われてしまえば、責める気にもなれない。いや、そもそも、虚淮のしたことで風息が責めることなんて何もないのだ。
「それで、俺の匂いはした?」
いろいろ諦めて笑い混じりに聞けば、さあ、と虚淮は首を傾げた。それから、がさごそと紙袋から一枚の紙を取り出して、使われているらしい香りの名前を読み上げる。殆ど自然界にあるものだった。耳慣れない言葉もあったが、いくつかの花の名前は知っていた。
「わたしの知ってる風息とは少し違う匂いだった」
「虚淮の知ってる風息はたぶん俺しかいないと思うけど」
そうか、と虚淮は何も言わずにじっとこちらを見て、ややあってから身を乗り出すように顔をこちらに近づける。俄にかかった体重を受け止めて、風息はされるがままにのしかかられた。時々自分が戯れてそうするように、顔を埋めてスンと鼻を鳴らす。
「……陽の匂いがする」
ああ、と息を吐くように風息は笑った。
「さっき布団を干したから」
「おまえはもっと、いろんな匂いがするよ。今朝の朝食の匂いの時もあるし、森の匂いがする時もあるし、土の匂いがする時もある」
「……自分じゃあまりわからないな」
「でも、きっとぜんぶお前の匂いだ」
わたしは自分には匂いがないから分からないけど、と虚淮は付け足す。そうだろうか、と風息は考えて、そうかもしれないな、と思った。たしかに虚淮は虚淮だ。湖のように、ただ透明だった。匂いはしないけど、虚淮の傍にいる時、風息はどこか澄んだ空を思い出す。空を写し風にさざめく水を思い、そうして同時に、風の匂いを思い出す。
「でもわたしと一番一緒にいるのはおまえだから、わたしからはきっとおまえの匂いがするよ」
「……そうか、そうだったらいいな」
そんなことを言うものだから、単純にも風息は少し、嬉しくなった。生まれ持った本性故か、匂いをつけるという行為はどこか所有欲めいたものを満たされるのかもしれない。
件の香水は、一度だけ嗅いでみた。ちょっとだけ懐かしいような花の匂いがして、けれどそれはやっぱり、風息が知っているものではなかった。
まあこれは、きっとそういうものなのだろう。