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    rokuta456

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    rokuta456

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    夜行列車に乗るふたり。
    イベントで頒布した本「春の隅」の書き下ろし部分です。

    #风虚
    windVoid

    夜行列車ふと気がつくと、揺れる列車の中にいた。
    そもそもそこから妙だった。


    近頃の私の生活は、いたってごく静かなものであった。館の謹慎期間が明けても与えられた部屋から外に出ることは殆どなく、一日の大概をその部屋で過ごしていたからだ。
    インドアと言えばいくらか聞こえが良いが、ようは単なる引きこもりだ。自覚している。
    だが、別段閉じこもろうという強い意思があったわけでもない。元より兄弟分と違ってあちらこちら動き回るのは向かないたちで、おまけに、思ったより今の部屋は居心地が悪くなかったのだ。
    半ば厄介払いのように妖精会館管轄の牢を追い出されたのは二年前。しばらく監視下での生活を送った後に紆余曲折を経て選んだのが、今のワンルーム。窓が広く、光をよく集める、がらんどうの部屋。そこで日がな一日、特に何をするでもなく静かに過ごす。たまに仲間に呼ばれたら外に出て、買い物なんかをして、人間の店で、あるいは日当たりの良い公園で話をして、また家に戻る。私の暮らしぶりは、どこにいても変わらなかった。かつてはその場所が故郷の森で、今より少し賑やかで、そして少しだけ、暖かかった。違いといえば、そのくらいだと思っていた。私が一日中家にいようが外にいようが、誰と何をしていようが関係ない。
    時間は同じように過ぎていく。

    そう、なんにせよつまり私は出不精だった。だから、まかり間違っても、思い立って電車の旅などに出たりなどしないのだ。そのはずだ。

    ――ならばこれはなんだろう。

    車窓を見れば、いつか森で見たような眩い星が、四角く切り取られた闇夜にいくつも散っていた。一車両はそれなりに広いが、私の座席以外に乗客は見当たらず、橙のあわい照明が虚しく車内を照らしている。何かの夢だろうか、とまずは思った。でも実のところ、私は夢というものをあまりちゃんと見たことがなかった。あれは人間が記憶を整理するために見るもので、少なくとも自分には必要のないものだ。妖精は、忘れない生き物だ。
    ではなぜ夢だとわかったかと言えば、どう考えてもこの場にいないはずの男が、そこにいたからである。そう、いたのだ。まず私が電車にいるのも十分おかしいのだが、彼がいるのはもっとおかしい。
    電車など、あれは乗ったことがあったのだろかとふとそんなことをふいに思った。いや、件の逃走中に無賃乗車くらいならしたこともあるかもしれないけど。
    目の前の見知った男は、私の目の前で気持ちよさそうに居眠りをしていた。すくすくと育った身体を背もたれに預けて、いっそ呑気とも言うべきあどけない表情で。ふわふわと広がる濃紫の髪が、好き放題にはねた毛先が、呼吸をするたびに微かに揺れる。私は目を瞠った。それは、その男は、紛れもなく風息の形をしていたのだ。最後に別れた時のまま、けれど戦闘による傷もなければ、顔色もすこぶる良い。いつもうっすら眦に浮かべていた疲労の痕跡すら見当たらなくて、彼がこんなに穏やかに眠るところなど、ここ数年ぶりに見たような気がした。あまりに気持ち良さそうに寝ているので、起こすのすら忍びなくなる。
    列車は緩やかに揺れながら、嘘のように静かに進んでいく。外の景色はずっと夜の色なので、ともすれば進んでいるのかも分からない。様子を見に立ち上がろうかと少し考えたが、結局やめた。目覚めた時にひとりきりでは、彼が心細い思いをするかもしれないとふと思い至ったのだ。おかしなものだった。一体何を気にすることがあるのだろう。これは夢で、彼もきっと幻で、私がよく知る風息は、ここにはもういないはずなのに。だけど、昔からそうなのだ。起きた時にひとりぼっちだと、あれはひどく寂しがるから。
    呑気に寝ている風息を見ているうちに、段々と気持ちが緩んできた。心地よい静けさと、代わり映えない退屈さを持て余すように、私は目を閉じる。
    夢の中で眠るとどうなるのだろうと、そんなことを考えて。

    どのくらい経っただろうか。
    ふいに、虚淮、と呼ぶ声が聞こえた。こんなに長く彼の声を聞かなかったのは思えば初めてだったが、いざ聞けば、まるで昨日の晩に挨拶したかのようにすぐに馴染んだ。眠りと覚醒の合間がひどくきっぱりしている私は、すぐに意識を戻して瞳を開いた。
    いつのまにか、起きた風息がじいとこちらを見ていた。艶めいたその瑠璃色を久しぶりに目にしたような気がして、ふと胸に懐かしさのようなものが浮かびあがった。起きたのか、と私は呟く。他に言うことはいくらでもあったのに、そんなことしか言えなかった。
    「おはよう」
    「うん、おはよう。虚淮」
     森で朝を迎えていた頃のように、朗らかに風息は応じた。ここがどこだか、気にしているふうはまるでなかった。ただ、にこにこと温和な笑みを浮かべてこちらを見ているばかりだ。私がいるだけで、嬉しいとでもいわんばかりに。

    列車が徐々に速度を落としていった。外の景色は変わらない。聞いたことのない男の声が、妙な抑揚で、聞いたこともない駅名を告げた。
    「虚淮、みかん食べる?」
     唐突な言葉に顔を上げれば、いつのまにかテーブルには橙の実がふたつ乗っていた。
    どこから出したのだと思ったが、まあ夢なのだから、みかんでもりんごでも何だって出てくるのだろう。思えば風息は昔も、村で貰った饅頭だの、森で見つけた桃だのと、よく私にも持ってきた。かつての私は食べることに興味がまったくなかったが、このようにいじらしく渡されたものを断れるはずもまた、なかった。
    ああ、そうだ風息。もうおまえは知らないかもしれないけれど、今の私はおまえよりずっとずっと、人間の食べ物を知っている。しかもけっこうよく食べる。この前洛竹に連れて行ってもらったラーメン屋、あれは、そう、とても美味しかった。
    そんなことを胸の内で思いながら、
    「食べる」
    そわそわとこちらの様子を伺う風息に、私はそのように答えた。風息はぱぁ、と表情を明るくし、それからいそいそとみかんを剥き、きれい房に添って皮を剥いたものをこちらに渡した。几帳面さが見てとれるような剥き方だ。二房ほどとって口に放ると、頬に水が溢れるような甘い瑞々しさが広がった。
    まるで、本当に旅にでも来たみたいだった。旅になど出たことがないので、これは想像だけれども。風息とふたりきりで行動することは幾度もあったが、こんなふうにどこかへ行くことなど、二百年間終ぞ一度たりともなかった。私も風息も、龍游で生まれ龍游で育った。だが、たとえば風息がもし消えずに私と一緒にいたら――いつかそういう日があっただろうか。
    「それで。どこに行くんだ、この電車」
     みかんを食べ終えて、漸く私は気になっていたことを聞いてみた。
    「どこにでも行くよ」
     それこそ旅先を告げるように、穏やかな笑みを私に向けて、風息はそう言った。窓の外は、ちらりとも見ずに。
    そうか、どこにでも行くのか。独り言のように言いながら、まあ、どこでもいいか、と思った。夢なのだから、別にどこに行ったって構いやしない。そもそも、夢ではなくても、どこでもいいのだ私は。風息がいる。たぶん幻だが、目の前にいる。そのことの方が、私にとってよほど大事だった。
    やがて、列車が妙な音を立てて完全に止まった。風息を伺ったが、降りる気配がないので私も動かなかった。だが、何気なく窓の外を見て、私は目を丸くしたのである。
    いつの間にか、夜が完全に明けていたのだ。
    銀の星はもうどこにもなく、代わりに眩しい光がさしこんでいた。嘘のように濃い色彩の世界だ。見知った光景。迸るような青が広がり、晒したような白い雲が浮かんでいる。葉脈が伸びる大きな葉に、朝露だろうか、きらきらとしずくが光っている。その伸びた茎から、夏を思わせる色濃い桃色の花が、そこにいくつも開いている。

    一面に広がる、それは蓮池だった。

    「……」
    唖然としてそれを見ていると、やがて葉陰から小さな生き物がぱっと視界を過った。
     幼い笑い声が聞こえて、記憶の深い場所に眠るそれと緩やかに結びつく。幼い子どもが――というか幼い頃の風息が、池に向かって手を伸ばしている。一歩下がった場所でその子供を見ているのは、かつての自分だ。
    ああそうだ、あれは確か、蓮の実を取ろうとしていたのだ。短い手を蓮池に懸命に伸ばして、だけど届かないことは明らかで、そうしてとうとう我慢できなくなったのか、彼は両手で蓮をつかみに行ったのだ。
    記憶の再現のようなその光景を眺めながら、いまに落ちるな、と思ったのと、盛大に水飛沫があがったのは殆ど同時だった。かつての私が、水飛沫に被弾している。せっかく濡れないようにと衣類を預かったというのに、あれでは台無しだった。一方幼い風息は濡れたことも気にせず、取れた、ねえ取れたよ、虚淮見て、と満足そうに水の中から蓮の茎をかかげてきゃらきゃらと笑っていた。まだ短い紫紺の髪が、蓮池の水に濡れていた。まるで泥遊びをしたような様相になっている。蓮池は、決して澄んだ湖ではない。
    「元気だな……」
     思わず口にして呟けば、珍しかったんだよ、と私の目の前にいる方の風息が照れたような苦笑を浮かべた。
    「……虚淮が喜ぶと思って」
    風息は頭の後ろに手をあてて、はにかみながらそのように言う。自分が綺麗だと思ったものは、私も気に入ると思っている、そういうところがある子だった。価値観に疑いがないのだろう。そういう傲慢さと、純粋さがあった。自身にとって大切なものに対する自信だ。そうやってなんでも大事そうに持ってきたから、受け取った私もまた、彼の大切なものを何でも愛おしく思うようになったのだ。買った植木鉢には当然水をやるように、彼に貰ったものもまた、当然そうして然るべきだと思った。花も、団栗も、きれいな石も、抜け殻も何かの化石も。
    貰ったものはすべて覚えている。だけどその何一つ、もう私の手元に残っているものはない。貰ったというその記憶だけ残して、もう、どこにいったかも分からない。
    私はとうとう、彼に何もあげられなかった。

    車窓の向こうにいる私は、幼い風息の身体がすっかり乾くと、蓮の葉をひとつ手折って、風息に持たせた。それが傘の代わりになることを教えているようだった。強すぎる陽はこれで防ぐこと。蓮の葉は雨を防ぐこと。聞いているのか聞いてないのか、幼い風息は、まるでなにかとても特別なものを貰ったように目を輝かせ、小さな手の中でくるくると蓮の茎をまわして、軽い足取りで走っていった。その後ろをゆっくりと、かつての私がついていく。
    太陽の光が、いつまでもずっと眩しかった。

    どれだけ停車していたのだろうか。ふいに思い出したように、また電車は走り出した。車窓は、さまざまな景色を映していく。その殆どが、知っているものだった。満天の星、一面の桔梗畑、夏の濃い緑、葉を濡らす雨、水のように澄んだ秋晴れ、何年かに一度の真っ白な雪。たとえば、命が生まれる瞬間。あるいは、終わる時。
    ふたりきりだった世界は、やがて一人増え、また一人増えた。私たちは、いつも一緒にいるようになった。夏が秋になり、秋が冬になった。春をさらう桜流しの雨のように、すべての光景が、濁流のように押し寄せる。
    列車の向こうは、どうやらかつての龍游らしい。風息が何よりも愛して、かえりたいと望んだ故郷が、そこにあったのだ。
    スピーカーから先程の車掌の声がして、また電車が止まった。
    窓の景色を私は見る。今度は蓮池ではなく、大きな池のほとりだった。水面はその青さを増し、太陽はより強く光を放っている。目がくらむような強い青に、いかにも質量のありそうな入道雲が描いたように浮かんでいた。夏の景色だ。
    風息、と呼ぶ声がして、それが洛竹のものだとすぐにわかった。今より幼く、けれど変わらず溌剌とした声だ。洛竹。どうかしたか。しなやかに伸びた足でとすんと着地して、風息が木から降りてくる。
    「ねえ風息、見て見て。水の中になんかいる! 魚かな?」
    「洛竹。あまり大声を出すと、びっくりさせちゃうだろう」
    苦笑混じりにやんわりと嗜めながらも、その眦は愛おしいものを見る目だった。蓮池で聞いた時よりもいくらか大人びた声で、あまり近づいて落ちても知らないぞ、と笑い含みに言っている。
    「……ほう、言うようになったじゃないか」
    私が呟くと、目の前の風息は困ったように眉を下げて、照れたように笑った。俺だって成長したんだよ、と。ああ、たしかにそうだ。おまえは本当にあっという間に、大きくなった。背丈もすぐに私を追い抜いたし、私が教えたことは全部覚えた。それどころか私よりよほど気遣いができたので、年下の面倒をよく見るようになった。たとえば、末弟の頭に日除けの葉をかぶせた。今日は日差しが強いから、これを被っておくといい。蓮の葉は水を弾くから、雨にも強い、と。
    私達の中で誰よりも、風息はこの末の弟を可愛がっていた。洛竹は弟分といっても、どちらかというと少し年の離れた友という感覚だったのかもしれない。何かと甘やかしたがった。
    彼らは時折顔を近付かせて、何かを話し、笑った。車窓の向こうの風息は、よく笑っていた。あの悲しいほど静かな声ではなく、若葉が芽吹くような、この森の生命をそのまま漲らせたような明るい声で、笑った。
    湖は空いっぱいを映して青く、空もまた、その湖をしきつめたように澄んでいる。夏の景色だった。溢れる光は、瑞々しい果実のように光っている。
    ふと、これは私の記憶なのだろうかと考えた。見たことある景色ばかり、見えていたから。ならばこの風景は、私が望んだ世界なのだろうか。それは少し違うような気がしたが、けれどたとえば今目の前にいる風息がそうだと言えば、そうなのかとも思いそうな気がする曖昧さだ。
    この夢は、なんのために見ているのだろうか。
    ちらりと向かいに座る風息を伺ってみたが、彼はただひっそりと、このしずかでやわらかな風景を眺めているだけだった。
    「……風息。少し降りてみないか」
    唐突に私はそう言った。別に降りなくてもいいと思ったが、なに、気が変わったのだ。生来の出不精も、たまには自ら動こうということもある。
    風息は私を見て、少し驚いた顔をして、それから「うん」と微笑んだ。
    それで、私たちは列車を降りた。
    電車を降りると、今度は夜になっていた。
    星明かりが、頭上を静かに照らしている。窓越しに見た時よりも、ずっと光が眩い。懐かしい水の匂いがした。流れる川が夜を映し、水底は星を沈めたような様相だ。
    やがて、揺らめく灯りが鮮やかな橙に変わった。それが自然にはない光だとすぐにわかった。都会のネオンとも違う。これは、提灯だ。
    虚淮、と風息が呼ぶ。
    「一緒に祭りを見にいかないか?」
     僅かに目を開いた矢先、ふたつの声が、重なるように響いた。今私の目の前にいる風息と、今よりほんの少しだけ青臭い、若い風息の声だ。
    揺らめく湖に映る灯りは、いつのまにか祭りの灯りに変わっていた。私達は並んで、その光に向かって歩く。地を鳴らすような太鼓の音が、闇に重々しく響いていた。櫓に吊るされたいくつもの灯と、その炎で照らし出された舞台があった。なにかの演劇をやっているようだ。いわゆる古典なのだと、隣にいる風息が言った。歴史上の偉人の人生を、華々しく描いたもの。今やっているそれは、どこかの国の帝が主人公らしい。他人の生き方をなぞらえて一体何がおもしろいのだろうかと私は思ったが、風息いわく、人はそういうものを好むらしい。英雄譚。悲劇。喜劇――何を学ぶでも得るでもなく、ただ物語として、人はそれらを愛でるという。
    「見るのか?」
    「ああ、見る」
    私たちは、しばらくの間黙って祭りの光景を眺めていた。かつての風息の姿はそこになかったが、きっとどこかで見ているのだろう。
    そこまで思って、ふいに気づくことがあった。
    風息に祭りに誘われたことは何度かあったが、私がそこに顔を出したことは、なかったはずだと。浮かんだ思考を打ち消すように、わっと拍手が聞こえてきた。演劇の大詰めなのだろうか、楽器が華々しく鳴らされる。
    「……こんなものを、おまえは毎回楽しみにしていたのか」
    隣の風息は一瞬の間を置いてから、ああ、と素直に頷いて、
    「人間は面白かったよ」
     ぽつりと、息を吐くように呟いた。
    「……面白いなって、思っていたんだ。あんなに弱い生き物なのに、俺たちじゃ思いもつかない、いろんなことを考えだすからさ」
    彼は祭の方へ目をやった。つられるように同じ方向に視線を向けて、私は気づく。舞台の後ろに大きな櫓のような建物があり、その屋根の上に、暗がりに紛れるように影がふたつ。その影が、あの頃の風息と天虎であることは遠目にもはっきりとわかった。
    (ああなんだ、そこにいたのか)
    彼らも、これを見ていたのだろうか。
    風息の言うおもしろい人間とは、たった百年も生きられない、弱い生き物だ。何でもないただの妖精を神と慕い、祠をたて、文字を残し、本や劇を書いて、伝承を試みる、そういう生き物だった。
    「そうやってたくさんのことを知ろうとしても、結局はすぐに忘れる」
    私の言葉に、困ったみたいに風息は眉を下げた。
    「うん、そうだな。……本当に、すぐに忘れる」
    言葉のどこにも怒りはない。ただ、本当に純粋に、昔を懐かしむような声だった。
    「……俺ばかり、ずっと覚えていた」
    闇の中でさみしく笑う気配がして、漸くすべて、腑に落ちた気がした。
    やはりこれらは、私の記憶ではなかったのだ。
    これらは全て、風息がかつて見た、在りし日の光景だった。
    なぜこのような夢を見るのか分からないが、不思議とすとんと何かが落ちた。
    ずっと、考えていたのだ。あの時ひとりでいってしまったおまえの目は、最後に何を映しただろうと。何を思って、何を見て、何を願っていたのだろうと。
    知ったところで、どうにもできない。私は、そこに行けなかった。見届けることも、できなかった。本当のことを言うと、私は風息について殆ど何も知らないのだ。誰よりも知ったつもりだったが、私は彼が二百年、どんな世界を見ているのか少しもわからなかった。
    けれど彼の目に映っていた世界は、なんてことない。私も全て知っているものだったのだ。故郷の木漏れ日。夏の濃い緑、葉を濡らす雨、水のように澄んだ秋晴れ、何年かに一度の真っ白な雪。命が生まれる瞬間。あるいは終わる時。それらの景色の中には私がいて、洛竹がいて、天虎がいた。そしてその記憶に、幸福な景色の一片に、人間がいた。たったそれだけだ。けれど、それがどうしようもないくらい全てだった。

    きっとそれらを皆まとめて、彼は故郷と言ったのだ。

    「これは、おまえの記憶だったんだな」
     ぽつりと呟けば、私の前に座った風息は少しだけ笑ってみせた。寂しそうに、愛おしそうに。なんともいえない表情で。
    愛したものを、愛した形のまま最後まで抱えて、この男は生きたのだ。 

         **

    気がつくと、私達はまたもとの列車の中にいた。祭りの景色はもうどこにもなかったが、それでも余韻のように、私達のまわりの空気は、夜のしっとりとしたあたたかな重みが残っている。
    車窓の向こうに、また森が現れた。梢の音が聞こえてきそうなその青々した緑の群れは、静かな嘘のようだった。きっとこの景色は、いつまでも続くのだろうと私は思った。だからこそ、そろそろ終わりにしなくてはいけないとも。この場所は心地よくて、きっといくらでもいれてしまうから。
    「風息」
    「うん?」
    「この電車は、どこにでも行くと言ったな」
    「……ああ、行けるよ。ずっと、一緒に行こう」
    風息は、いつもの温和な、優しい声でそう言った。そうか、と、私は目を伏せた。彼とこのまま、ずっとこの列車で、変わりゆく四季を、終わらない夜を、ただずっと眺め続けることを想像してみる。それも悪くないだろう。だって私は、おまえが見る景色を、もっとずっと、見ていたかった。でも、だからこそ。
    「そうか、なら次で降りる」
     ぱちりと、つややかな瑠璃色の瞳が瞬いた。夜に瞬く星のような目。傷ついたというよりは驚いたその顔を、私はしっかりと見返しす。
    どこにでも行けるなら、どこにも行かなくていい。
    この列車の終点は、きっと未来ではないだろう。そして私の戻りたい場所もまた、過去ではない。私の帰りたい場所は、在りし日の故郷じゃないのだ。
    「私は、おまえのいる場所に帰りたいんだ」
    おまえがいつまでも故郷を愛したように、私はいつまでも、おまえの傍にいたかった。私は私の意思で、居たいと思った。
    確かにそこに、風息の形をしたものはもういないかもしれない。なんなら、この都合がよいほど穏やかに微笑む彼と列車の旅を続ける方が、よほど幸福かもしれなかった。
    けれど、それでも私は、帰らなくてはいけない。
    だって、わたしは自分で思っている以上に、おまえに会いたいよ、風息。
    思ってもいない返事だったのか、風息は私の返答にひとしきり表情を変え、やがてしゅんと目を伏せた。意図せずとも誰かを傷つけたことを知った時の顔だ。あるいは、相手を困らせたと知った時の。
    「……虚淮、あの俺」
    「それは何に対する謝罪だ」
    おずおずと発した声がみなまで言わぬうち、遮るように言葉を投げた。まだ何も言っていないぞ、という顔を、風息はする。さすがにちょっと困ったようだ。いじわるをしたかもしれない。でも、このくらいはいいだろう。結局文句ひとつすら言いそびれてしまったのだから。そしてもう、この先も言えそうにない。
    だから、これで手打ちだ。
    万が一にも己の無力を謝るなら今度こそ殴る機会も訪れたろうが、そんなことはきっとないだろう。事実、風息は一言、真面目な声でこういったのだ。
    ごめん、虚淮。
    「勝手に置いていって、ごめんな」
    「……いいよ。お前に置いていかれるのは慣れている」
    そう、今更だ。だっておまえは、いつも私より先に行ってしまうのだから。珍しい蝶を追いかけて。きれいな花を見つけたと言って。村の子供に誘われたと言って。楽しそうに駆けていく。
    それを迎えに行くのが、私の役目だった。
    私の背中ばかり追いかけるくせに、すぐに先にいってしまうやつだった。好奇心旺盛で、傷つくことなど考えもせず、面白そうなものには迷わず手をのばす。そうして触れたものは、ずっとずっと大切にしてしまうのだ。
    だいたい私は、風息の決めたことを何一つ恨んだことはない。間違っていると思ったことも、止めようと思ったことすらも、実はないのだ。最後だってそうだった。確かに何を思ったかは考えたし、傍にいれなかったことは心底悔しかった。けれど、風息が願ったことだ。風息が決めた道だ。
    そこに、たまたま私がいなかっただけだ。
    だけど。もしおまえが私を置いていったことを悔いているなら、
    「なあ風息。それなら、降りる前にひとつ頼んでもいいか」
    「え? ああ、うん。なあに虚淮」
    頼みと聞いて、ほんの少し、彼の表情が明るくなった気がした。この男は根本的に、頼られるのがとても好きなのだ。性分なのだろう。その姿を、私は目に焼き付ける。これは幻だとわかっていても、もうここに居ないと分かっても、ただ覚えておきたいのだと思いながら。
    大切な記憶。愛した人。そしてこの先もう一生、思い出にはならない相手。
    私には、風息に出会う前の時間と、風息に出会ってからの時間しかなかった。
    でもこれからは違う。いない時間が続いていく。
    だからこそ、彼がかつて愛した場所に在り続けたいと、そう思うのだ。
    そうして、いつか私が私の形を失う時は、今度こそ彼と同じ場所にいきたい。
    「私が消える時が来たら、今度はおまえが迎えに来い」
    え、と驚いた顔をする風息に、一度くらいはいいだろう、とぞんざいに私は言う。
    「何年先か分からないけど、そうだな。きっとすごくすごく先だ。でも、お前は気が長いから、別に問題ないだろう」
    「……虚淮」
    風息の声が、輪郭を崩したようにふにゃりと震えた。ついでに、顔も。短い眉が下ると、これがどうしようもなく幼く見える。座席から立ち上がり、座ったままの風息を抱きしめた。ちょうどいい場所にある頭に顔を埋めると、懐かしい森の匂いがした。そろりと宙を彷徨ってから抱き返してくる腕は、私のそれよりもずっと長く、太い。最初は簡単に腕に収まったはずだった。いつのまにか、両手を使っても足りないほど、大きくなってしまった。
    なあ風息。二百年、私はおまえの傍にいた。たったの二百年だ。妖精の一生からすれば、それはほんの僅かな時間に過ぎないだろう。けれど、私はその二百年があったことを、心から嬉しく思う。おまえを抱いた時の温かさを、抱きしめられた時の幸福を、笑う声を、知ることができてよかったとそう思う。
    決して声には出さない胸の内が、彼に伝わったかは分からない。けれど、
    「わかった。約束する」
    しばらくの沈黙を置いて、風息はしっかりとそう頷いた。声はもう震えていなかった。全てを打ちあけてくれたあの夜、それならおまえについて行くと答えた時よりも、それはずっと明瞭な音で耳に届く。
    ややあってから、彼は言った。
    「……あのさ、俺が生まれた時から、虚淮はあの森にいただろう」
    「まあな。私はおまえより百年以上、長く生きているから」
    「うん。だから俺の世界には、最初からずっと、虚淮がいたんだ」
    ずっとだよ、と風息は笑う。
    「……ずっと、俺と一緒にいてくれて、ありがとう」
    顔をあげた風息は、初めてはっきりとした笑顔を見せた。今までの穏やかな笑みではなく、まなうらの、いつか見たひだまりのような笑い顔だ。
    風息の大きなてのひらが私の髪に触れる。抱く腕にぎゅうと力を込めると、痛い、と少しも痛くなさそうに笑った。
    列車の景色は、いつの間にかゆっくりと、見慣れた景色に戻っていく。
    風花が舞うような、柔らかな風が吹き抜けた。
     

    気がつくと、私は風息公園にいた。あの星空はもうどこにもなく、藍色はゆっくりと光を含んだ紫に変わっていく。朝と夜のあわい。この光は、やがて夜明けを告げる光だ。まるで押し寄せる波のように、鮮やかに空の色を塗り替える光。
    先程まで夜を見ていた目にそれはあまりに眩しくて、ほんの少し、涙が浮かんだ。

    「……ただいま」

    思わず口にしてから、そういえば初めて言った言葉かもしれないと今更気づく。

    なるほど、そんなに悪くないな。
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    rokuta456

    DONE夜行列車に乗るふたり。
    イベントで頒布した本「春の隅」の書き下ろし部分です。
    夜行列車ふと気がつくと、揺れる列車の中にいた。
    そもそもそこから妙だった。


    近頃の私の生活は、いたってごく静かなものであった。館の謹慎期間が明けても与えられた部屋から外に出ることは殆どなく、一日の大概をその部屋で過ごしていたからだ。
    インドアと言えばいくらか聞こえが良いが、ようは単なる引きこもりだ。自覚している。
    だが、別段閉じこもろうという強い意思があったわけでもない。元より兄弟分と違ってあちらこちら動き回るのは向かないたちで、おまけに、思ったより今の部屋は居心地が悪くなかったのだ。
    半ば厄介払いのように妖精会館管轄の牢を追い出されたのは二年前。しばらく監視下での生活を送った後に紆余曲折を経て選んだのが、今のワンルーム。窓が広く、光をよく集める、がらんどうの部屋。そこで日がな一日、特に何をするでもなく静かに過ごす。たまに仲間に呼ばれたら外に出て、買い物なんかをして、人間の店で、あるいは日当たりの良い公園で話をして、また家に戻る。私の暮らしぶりは、どこにいても変わらなかった。かつてはその場所が故郷の森で、今より少し賑やかで、そして少しだけ、暖かかった。違いといえば、そのくらいだと思っていた。私が一日中家にいようが外にいようが、誰と何をしていようが関係ない。
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