傘ひとつ灰色の空から、しめやかな牡丹雪が花びらのように落ちていた。
すでに降り落ちた雪で地面はどこも白く覆われて、建物から出てきた无限はその景色の白さにまず目を瞠った。よもや雪を見たことがないわけでは勿論ないが、枯木の赤茶色や植込みの緑、ビルの灰色や色とりどりの看板で埋められた世界が、白一色になるのは中々に壮観なものがある。
ひゅうと木枯らしが吹き、思わず肩をすくめた。
確かに降るとは言っていたが、ここまでとは。
鈍色の雲から落ちる雪は、当然人にも等しく降り注ぐ。このまま歩いて帰ったら、それなりに雪まみれになるのはまず間違いがなかった。まあ、雨でずぶ濡れよりはマシである。寒さにおいては、そこまで大きな違いもあるまい。そう思いながら、无限はまだ柔らかな雪を踏む。用意がいいのか、傘をさして歩いている人たちはそれなりにいるようだった。女子高生ふたりが、さむいーいと身を寄せてはしゃぐような悲鳴をあげて横を通り過ぎて行く。なんかあったかいもの飲もうよ、とどちらともない声に、无限も内心で頷く。
ああ、温かいものが食べたい、と思った。
やはり鍋だろうか。うどんでもいい。装い分けた器がふたつ分、それぞれにゆらめく二筋の湯気と、漂う出汁の匂いを思い出して、余計に空腹を思い出してしまった。
今日は授業な早く終わると言っていたから、風息は帰って何か作ってくれているだろうか。いや、でも最近レポートが忙しいと言っていたから、もしかしたら彼も図書館などにいるかもしれない。そしたら、自分が何か買っていった方がいいだろうか。
雪が酷くなる前に帰れていたらいいけど、と思う。いくら風邪はひかないとはいえ、どちらかといえば寒さむがりの妖精だった。こたつで文字通り丸くなり、外に出る時もしっかりしたダウンコートを着込んでいるのが常だった。元からもこもこした印象が強い彼だったが、それが冬はさらに質量を増す。思い出した瞬間、あの温かな身体に触れたくなった。
抱きたいな、と思った。不純な意味ではなく(不純な意味であっても構わないが)あの、どこもかしこも優しいぬくもりでできたような身体を、自分の腕に納めたかった。きっと、寒いと怒られるだろう。以前、ちょっとしたお茶目のつもりで帰宅したての冷たい手で彼の首に触れたら、文字通り飛び上がって驚かれ、半日機嫌を損ねられたことは記憶にまだ新しい。
雪は止む気配もない。
とりあえず駅まで歩いて、電車に乗り、最寄り駅までたどり着くいた。何時に着く、と連絡を入れて、何か買っていくものは? と聞いたが、返事がなかった。大丈夫だろうと判断して、駅についたらまっすぐ帰路につくことを選ぶ。雪はますます強まっているようだった。さすがに吹雪いてまではいないが、空から落ちてくる量が明らかに増している。今朝がた風息になかば強制的に巻かれたマフラーに首を埋めて、无限は黙々と足をすすめた。日はすっかり暮れていたが、外灯の灯りが落ちる場所だけ、ぼんやりと明るく光りをともしていたを。しんしんと降る雪は音を吸い、さみしいくらい静かな夜の銀世界を作り上げる。
その時だった。
進行方向に、見知った影がぼんやりと浮かびあがったのだ。見慣れたシルエット。足音を殆ど立てない歩き方。待ち望んだ気配が、そこに現れたことに、无限は目を瞠った。
「風息……?」
思わず声にすれば、吐いた息と同じ分だけの白い靄が暗闇に生まれた。息をしているのだと、今更のように思う。呟いたその声は、届いたのだろうか。彼は歩みを早めることも止まることもせず、ずんずんまっすぐとこちらへ向かい、漸く自分の前で歩みを止めた。暗い中でもよく利くという、猫目が爛々とこちらを見つめる。
「どうしたの。何か買い忘れたものでも」
言いさした言葉を遮るように、ぱっと目の前で黒い花が開いた。俄に突き出されたそれは傘だった。ずいぶんとまた、大きい。
「迎えにきた」
ぽかんとする无限に、風息はひとことそう言った。こちらに傘をさしかけながら。
「夜になったら随分降るって言ってたからさ。絶対傘なんて持ってなさそうだし」
その気になればコンビニに入れば傘などいくらでも売っていたが、わざわざ買う気質ではないことを、彼はどうやらよく知っていたらしい。いや、もしかしたらコンビニで傘が買えることなど知らないかもしれないが。
ほら、と急かされて傘の柄を受け取った時、ふと指が触れた。冷たかった。ああ寒い、と彼は言って、見分するようにこちらを見て、呆れたように少し笑った。
「雪、積もってるよ」
「うん、さむい」
「な。だから襟巻き巻いて正解だろ」
勝ち誇った顔で笑う風息に、
「もしかして、迎えに?」
どこか遠慮がちに尋ねれば、他になにがあるんだよ、と少し心外そうに眉を潜めた。
「人間は寒いだけで風邪ひくって、あんたが言ったんじゃん」
「いや。まあ、そうなんだけど雪くらいで風邪は」
「でも寒いだろ」
こともなげに言い首を傾げたその瞬間、ぱさりとコートの肩から雪が落ちた。ほら帰るぞ、ちゃんとご飯も作ってるから。鍋焼きうどんにしたんだ。シチューと迷ったんだけどさ。
そんなふうなことを言いながら、風息はひょこりとこちらに身を寄せて、あたりまえのようにこちらがさす傘の下に納まった。まるで、冬の明け方するりと毛布に潜り込んでくるような自然さで。
べつに。ふと発された声が、白い息と共に夜に吸い込まれた。
俺が迎えに行きたかっただけだし。
「……」
相合い傘などいうものを――彼が知っているとも思えないが。けれど、こちらを思い傘を持ってきたことには違いない。
寒いから、雪が降られているかもしれないから――たったそれだの理由で、この男は傘を差し掛けるのだと思った。じわりと頬が熱を持つ。
差し伸べられた暖かさが嬉しくて、けれど同じくらい、その傘に、彼が何の迷いもためらいもなく入ってくれたことが、信じられないほど嬉しかった。
嬉しかったのだ。
ひらひらと揺れる風息の手を、无限の方からそろりと握った。同じように冷たい手は、けれど重ね合った分だけ、同じだけのぬくもりを与えあう。掌を包むように、指が重なった。
いつのまにか顔を出した月が、ふたり分の足跡を、ひっそりと照らしていた。
雪は、まだ振り続いている。