夜はお静かに
アビスに想いを伝え気持ちを通じ合わせてから、夜を共にすることが増えた。体を繋げることもあるし、共に眠るだけの日も多くある。
理由は違えど幼少期に充分な親からの愛を受けられなかった僕らはきっと互いに愛情に飢えているのだと思う。元は僕が彼を使役する間柄ではあったが一連の事件を経てその関係が変化しても心の空虚を埋めるように寄り添い合うのは必然だったのだろう。
夜を共にするときアビスは僕にできる限り身を寄せ小さく体を縮こませてくっついて眠る。
はじめの頃は緊張と遠慮があったようだけど、共に眠ることが増えてからは必ず体が触れるようにそして縋るように眠りにつくようになった。
そんなアビスをそっと抱きしめてやれば少し恥じらいつつも安心した顔を見せるので僕としては満更でもないけれど。
ある時アビスにその理由と問うとこわいのだと言う。
目が覚めたらまた独りぼっちになってるんじゃないか、と。だから離れればわかるようにそして離れないでほしいと祈り縋るように、触れ合って眠りたがるようだった。
いつものように夜を共にしたある晩、ふと意識が覚醒した。部屋は夜の冷えた空気に満たされ、あたりはまだ暗く朝は遠いようだ。
もう一度眠りにつこうと思うさなか非対称の双眸がこちらを見ていることに気づいた。
「アベル様……」
静まり返った夜の空気を僅かに震わせて、小さく僕を呼んだ声はたしかにこの耳に届いた。
「アビス? 起きていたのか……どうした?」
暗がりの中でどこか様子がおかしいアビスに目を凝らす。その瞳には薄く涙の膜が張っていて頬は薄っすらと濡れているようだった。
「どうして泣いている」
「え、」
頬に触れ、濡れた目尻をなぞってやるとアビスははじめて自分が泣いてることに気づいたようで小さく驚きの声をあげた。
「怖い夢でも見たのか?」
そう問い掛けるとアビスは数度瞬きをし、少し困ったように眉尻を下げそうですね、と遠慮がちに切り出した。
「……子供の頃の夢を見ました。まだ家にいた頃です」
ぽろぽろと溢れ落ちるアビスの言葉を拾うと幼少期に監禁されていた頃の夢を見たようだった。それは夢であって夢ではない。彼の過去に実際に起きたまぎれもない現実である。
「この夢がまた現実になるのではと、いつかまたあの日々が戻ってくるのではないかと……それがなにより、怖いのです」
実の両親に監禁されていた過去を呼び起こす夢を見るたびにまたいつか大切だと思う人が離れていくのではないか、また独りになるのではないかという不安に駆られ、自分に向けられた好意をも信じることができなくなるのだと言う。
その対象は僕も例外ではなく、互いに大切に想い合う存在になった今、アビスにとってある種何よりもその心を揺らす不安材料となっているようだった。
そう思われるほどアビスが僕を特別に想ってくれていることは嬉しいけれど、どんなに愛を伝えてもそれを受け取る瞳の奥には常に不安が揺れている。それに気づかない素振りをしていてもときたまこうして不安定になるアビスに僕はなす術もなく空虚な気持ちをいだくしかなかった。それでも、と思う。
「僕の言葉も信じられないかい?」
愛する者に信じてもらえないというのはその理由がわかっていても悲しいものだ。
僕の怪訝な様子に気づいたのかアビスは躊躇うように口を開いた。
「アベル様のおっしゃることを信じられないわけじゃないんです……アベル様のことはちゃんと、信じています。でも、それでも恐くて……いまの、こちらのほうが全部都合の良い夢なんじゃないかって」
ごめんなさい、最後に声を潤ませそう加えたアビスの口調は幼く、親に縋る子供のようだった。
イヴル・アイは物心ついた頃に発現したと以前アビスは言った。
まだ彼の世界の多くを家族が占めていただろう頃にアビスはその最愛の両親から監禁され長く外に出ることも許されず、愛情を受けることもなく、しまいにはその手で殺されかけている。
自分を無条件で愛してくれるはずの両親にすら恐れられ、忌み嫌われ生きてきたアビスにとって愛情受け取ることや他者の自分への気持ちを信じ抜くことは容易ではないのだ。
僕が思っていた以上にアビスに植え付けられたトラウマは彼のなかに深く深く根を這っているのだと改めて気づかされた。それと共にアビスを取り巻いていた環境には憤りを禁じ得ない。
「アビス」
ぐるぐると怒気の渦巻く胸中に語気が強くならないよう気を払って名を呼ぶ。
それでも顔を伏せたままのアビスの頬に触れ、親指で溢れる涙を拭ってやるとようやくその双眸がこちらを向いた。
しかし目が合いそうになるとまたすぐ伏せてしまう。イヴル・アイを持つアビスは包帯でその紅い瞳を隠してる時ならともかく他者と目を合わせることを本人が誰よりも厭い避けている。僕であっても反射的に逸らされてしまうことはある、ただ分かっていても胸は痛むものだ。
「アビス、僕を見て」
もう一度その名前を呼ぶ。戸惑いつつもゆっくりだが涙を湛え震えるその美しい色とようやく目が合った。
「君が他者からの愛を信じられないことは僕も理解しているつもりだと思っていた。でも、上辺だけで本当の理解ではきっとなかったんだろうね。
君のこれまでの境遇や受けてきた仕打ちを考えれば当たり前のことなのに……すまない、アビス」
「……ア、アベル様が謝ることは何もありません!私の、至らぬところです……それでアベル様を傷つけてしまったのは紛うことなき私ですから」
そう言ってまた顔を伏せてしまいそうなアビスの頬をひと撫でして続ける。
「いや、アビスは悪くない。なんでも自分が悪いと思わないでくれ。
そうだな、こう言うとまたアビスを困らせてしまうかもしれないけれど、アビスは僕の大切なものだから、僕の所有物がそうやって自分を悪く言うのは僕が嫌だ」
「そうおっしゃられるのはずるいです……」
「ふふ、そうかもね。ねえアビス、君のこれまでの境遇は変えることはできないし、つらくともその過去があっての君だ。僕はそんな君を愛している。
だからこれからの君を僕が側で作らせてくれ。アビスが僕や他者からの愛をちゃんと信じられるようになるまで僕は絶対に君を裏切らないと誓うよ。だから今は信じられなくても僕の言葉をただ受け取ってほしい」
きっとすぐにこの想いの全てがアビスに届くのは難しいと理解している。それでも、今伝えなければならないと強く思ったのだ。
頬を撫でていた手を背中に回し、ぎゅっと抱き締める。アビスがいつも僕にするように僕からも君を手離さないと示そう。
「君の悪夢は僕が現実にはさせない。
君が不安になったならばその度に僕は君に愛していると伝えよう」
はい、と小さく口にしたアビスの瞳からはまた涙が溢れているようだった。
抱き締めたまま頬が触れ合う距離に顔を寄せアビスの左瞼にそっとくちづける。
「おやすみ、アビス」
せめて今晩はアビスがもう悪夢を見ないで眠れるようにおまじないを。
魔法ではないけれど、魔法ではないからこそ君のその目があってもこの想いが届くはずだと信じて。