nightmare母が刺された時のことは今でも夢に見る。
もう乗り越えたことだと思ってはいてもその悪夢が訪れるたびに鮮明な映像で繰り返し見せつけられる凄惨な過去の光景。子供だった頃ほどは動揺しなくなったものの現実と見紛う悪夢はそれでも良いものではない。
また今日も。ああ、この後母は殺される。二度と見たくない光景がまた繰り返される。頭にこびりついて離れないこの先の光景から目を逸らしたくても自分の意思で止める術のない夢の中では目の前の事象をただ眺めいることしかできない。母から食べ物を受け取った男が懐に忍ばせていたナイフ、それが母の身を切り裂く、その場に倒れ噴き出す赤い血でみるみる染まってゆく美しく優しかった母……夢に見なくとも忘れることのできないのにそれでいて何度も見た悪夢だ。そう思った矢先、血に染まる母の姿はみるみるうちにアビスに変わった。母の返り血を浴びた男の立っていた場所には鮮血の赤に染まる自分がいた。え、と思わず溢れた声は夢が現実が分からない。心臓がどくどくと音を立てて鼓動を早める。違う、アビスは助かったはず。そう自分に言い聞かせるも血溜まりなかのアビスはびくともしない。「お前を庇ってそいつは死んだ」どこからともなく声がした。違う、アビスは死んでない。「お前を庇ったせいで」「アビスは死んだ」違う、違う、そんなこと命じてない、望んでない。アビスは今でも……責め立てる声はアベル自身の声に似ていた。うるさい。耳を塞いでもその声は止まない。アビスの体から流れでた血が立ち尽くすアベルの足元にまで広がっていた。うまく息ができない。は、は、と自らの乱れる呼吸音が耳に響く。酸素が足りなくなっていく感覚に視界が暗くなった。
纏わりつく暗闇から逃げ出すように目を開けた。自分の荒い呼吸がうるさい。じっとりかいた汗にシャツが張り付き至極不快だった。目を開けても薄暗いその場に先程見た鮮明な光景がリンクする。アビス……辺りを探ると傍に横たわったアビスが見えた。どくどくと鼓動がまた早くなり、血が引いていく感覚がする。恐る恐る、そして祈るようにアビスに手を伸ばした。
触れたアビスの体は温かく、僅かに上下している。唇に触れ息があることに安堵する。詰めていた息をようやく吐き出した。それでも目の裏に焼きついた先ほどの光景が離れない。あれが全て本当に夢だったわけでないから。思い出すたびにまた喉が震え息がしづらくなった。ふいに手に何かが触れた。視線を落とすとアビスが僅かに目を開け手を伸ばしていた。
「アベルさま……?」
「……アビス」
「どう、されました」
覚醒しきってないのかたどたどしい口調で尋ねながらもアビスは体を起こした。アベルの顔を覗き込むとぎょっとした様子で身を正し、優しく頬を包まれる。
「ひどい顔ですよ」
「アビス」
そのままアビスを思わず抱き寄せた。アビスは何かを察したのか何も言わずにアベルを抱き返す。
「生きてる……」
「はい、私はここに。ちゃんと生きてますよ。今も、あなたのおかげで」
「ぼくのせいで、アビスが」
「いいえ、あなたのおかげで『生きてる』んです」
背に回ったアビスの手がとん、とん、とアベルを優しく叩く。いつかの眠れぬ夜に母がしてくれたように。それを思い出しまた少し怖くなる。ぎゅうと腕に力を込めるとアビスはアベルに顔を寄せた。
「アベル様。私の声を聞いて、私の体温を感じて、私はちゃんとここにいます」
耳元で響くアビスの声がアベルの中に静かに落ちていく。抱き締めたアビスの体温を感じながらアビスの声を反芻していくうちに少しずつ呼吸が落ち着いていく。ゆっくりと体を離すと目の前には穏やかな顔をしたアビスがいた。
「すまない……驚かせて」
「いえ……私も、似たような経験はありますから」
アビスは少しだけ目を伏せてそう告げた。
「アベル様、」
アビスはシャツのボタンを外し上体をはだけさせるとアベルの手を取り自身の肌に触れさせる。
「ほら、もうどこにも穴は空いてないでしょう」
アビスを庇って倒れた時のアビスは傷口から内部が見えるほどに大きな穴が体に空いていた。魔力による応急処置と治療を経て傷口は全て塞がりアビスの体にはその治療痕だけが残された。ひたりとアビスの胸に触れその痕をなぞる。皮膚が引き攣り痕になっているのが指先を伝ってわかったが、もうどこにも穴はない。直接触れ改めて少しだけ安心してほう、と息を吐くと治療痕に触れるアベルの手にアビスの手が重なった。アビスは重ねた手に視線を落とすと静かに口を開く。
「この痕を私は誇らしく思っているんです」
アベルにとってはアビスの綺麗な体に残してしまった一生残らぬ懺悔の痕だ。アビスが好まないから謝ることはもうやめたがそれでも自分のせいで傷を残してしまったことは間違いない。
「あの時に間に合ったおかげで私はあなたを失わなくて済んだ。あなたを守ることができた勲章ですよ」
綺麗事だ、と思う。しかし何と言葉を紡いでいいか分からずアベルはアビスの言葉の続きを静かに待つ。
「アベル様、あなたが私を失うことを恐れてくださるように私もあなたを失うことが何よりもこわかった。だから私が助かったことが結果論だとしてもあの時のことは後悔していません」
あの頃のアベルはアビスのことをまだ今ほどは知らないでいた。『道具』として契約し、アビスがなぜそこまで自分に尽くすのかも分からないままでいた。ただ目的のためだけに突き進み、今思えば愚かだったとすら言える。
「でも、あなたが私を大切だと言ってくださったから、私はそれが私自身だとしてももう二度とあなたが大切な人を失って悲しむことがないようにこの身を大切にしますから。だから心配しないで、私を信じてください」
自己肯定感が低く、すぐにその身を差し出すアビスに恋人となってからのアベルは一人の人間として大切に思っていることを繰り返し伝えた。アベルが与えてしまった道具としての価値でアビスがその身を安く扱ってしまうのはアベルにも責任がある。だから何度も何度も繰り返し言葉を尽くした。アビスがアベルに対してそう思っていたように、いまのアベルにとってアビスを失うことが何よりも恐ろしいと。それでもきっとアビスはいつか自分の命を差し出してしまうと思っていたから、アビスが口にした誓いにアベルは目を丸くする。
「ふふ、大丈夫です。アベル様の想いはちゃんと受け取ってます」
だから私はあなたの前から消えたりはない。
そう言って重ねていた手を取るとアビスはそっとその手の甲に口づけを落とした。
アビスの提案で手を繋いだまま横になる。幼子のようだと形だけの抵抗をしたけれど押し切って手を離さないでいてくれたアビスにアベルは内心安堵していた。固く繋がれた手にやっとまた眠れる気がした。
「おやすみなさいアベル様。今度は良い夢を」