「きみは31日まで高校生だから」~高校生×教師~ それは、一昨年の始業式のこと。気怠い春の温みのなか、美しく背筋を伸ばしたファウストと、渡り廊下ですれ違った。まるで夜明けの空みたいに、静謐で鮮やかな紫の瞳。眼差しがかち合った瞬間に、あっ、いいなと思った。それが始まりだった。
フィガロのクラスへ副担任として配属されたファウストは、大人らしい思慮深さを持ちながら、思春期の青少年よりももっと無垢で高潔で綺麗だった。眼差しを合わせるたび、言葉を交わすたび、その心に触れるたびに。
些細な興味は、切なる何かへと塗り替えられてゆく。だから、
「――俺と恋をしてみませんか」
軽薄に笑んで予防線を張った。夕日の差し込む社会科準備室で、ファウストの顎先を掴んで顔を寄せた。そうして突っぱねられることを期待していたのに、ファウストは丁寧に一歩後退ると、フィガロとの距離を正して告げた。
「きみはまだ高校生だ。大切に恋をしなさい」
ああきっと、もう戻ることはできないのだとそのときに悟った。ファウストの温度の残る指先を握り込んで、「本気の恋なら?」と呆然と問うた。嘘みたいに、声が掠れていた。
「僕は教師だ。きみたちを導く責務がある。今は、そうとしか言えない」
フィガロから決して眼差しを逸らさず、ファウストはそう答えた。
「分かりました」
フィガロは静かに応じて、社会科準備室を後にした。踵を返す寸前、ファウストの頬に覗いた朱を、夕やけのせいということにして。
夕やけのあの日から一年半。教材や資料で雑然とした社会科準備室へ、窓から差し込むのは春の柔らかな陽光。それを透かして、ファウストの灰茶色の髪が繊細にきらめく。フィガロは目をわずかに細めて、ファウストとの距離を一歩詰めた。
「卒業しましたよ」
制服の胸元に花の飾りをつけたフィガロは余裕げに笑うと、あの日のように、ファウストの顎を戯れみたいに掴んだ。真面目で、案外頑固な先生はきっとまだキスを許さないだろうなと思ったら案の定、
「……きみは31日まで高校生だから」
ファウストは難しい顔でそう答える。だからフィガロは予定通り肩をすくめて、ファウストを手離そうとしたのに。
「……だから、今日の僕を4月まで忘れていなさい」
ひそやかな囁きとともにファウストが目を瞑るから、え、とフィガロは面食らう。
見下ろす先の白い頬を、染める夕日は今はない。ぎゅっと寄せられた眉根から緊張が伝わる。顎を掴む指先が、まるで壊れ物を扱っているみたいに強張る。
たかがキスに、うるさいくらい心臓が高鳴って、これが本気の恋なのだとあらためて思い知りながら、フィガロは嘘みたいにぎこちなくくちびるを重ねた。