ひみつとつみひとつ◆02◆02 Tenma side
目が覚めたら、気分は結構悪くなかった。
天元のマンションに遊びに来た時はだいたいそうだし、今回だってオレはそれを期待してたんだけど。大事なこと以外はどうでもいいじゃんっていう、いつもの感覚が戻ってきた気がして、ベッドの上で大きく伸びをした。
天元はとっくに起き出しているみたいで、ベッドに残る体温は自分のものだけだ。裸の身体は不快な場所がどこにもなくて、たぶん、昨夜天元が身体を拭いてくれたんじゃないかと思う。これまでもそんなことはあったけど、それを尋ねたことはないし、気付いてたってオレは礼を言ったこともない。天元も何も言わない。それは、終わったことはどうでもいいこと、忘れていいことだっていう天元からのメッセージなんだとオレは勝手に思ってる。
床に脱ぎ散らかしたはずの服はサイドボードの上にあった。パンツまできれいに畳んで重ねてある。天元のこういうところはちょっとヤダ。だって自分が履いてたパンツを勝手に畳まれる気分って……、どう?
寝室を出ると天元はリビングにいた。ソファに座ってスマホを見ている。
「おはよ」
「おはよう、天満。ちょうど今、杏寿郎からメッセージ来てたんだけどさ、」
「出掛けるの? いいよ、行ってくれば」
オレの返事に天元は一瞬ポカンとしてから、笑い出す。
「お前もせっかちだねぇ」
も、って。誰と一緒くたにされているんだろうと、ちょっと苛立つ。
「お前がウチに来てるなら、杏寿郎が桃寿郎を連れてウチへ遊びに来たいって言ってんだけど、どう?」
「は? そんなの最高に決まってんじゃん。何時に来るの?」
「大歓迎って今返事するとこだから、時間決めるのはこれからな。せっかち君」
またスマホと向き合った天元は親指でタタタタと迷いのないレスをして、スマホを置いた。立ち上がると、朝食は何がいいかと訊かれる。
「普段食べないやつがいいな。パンケーキとか」
「いいね。小さいやつをたくさん焼いて食べ放題にしようか」
天元はちょっとした特別をさっと用意してくれる。だから遠慮せずに、少し面倒なオーダーだってしやすい。
「オラディって知ってる? ヨーグルトを使ったロシアの小さいパンケーキ」
混ぜるだけですぐできて焼き上がるのも早いらしい。小さいパンケーキを焼き立てでたくさん食べられるぞと言って、天元は楽しげにキッチンへ立った。
その時、天元のスマホがリビングのローテーブルの上でぶるりと鳴動し、明るくなった画面に杏寿郎さんからのメッセージがバナーで表示された。十二時にという文字を読み取って、思わず笑顔になる。
「天元、杏寿郎さんからレス来てる」
スマホを取り上げてキッチンへ持ってゆくと、受け取った天元がメッセージアプリに目を通す。
「十二時頃来るってよ。あと、何か欲しいものあるかって」
「欲しいものは別に何もない。けど、あー……、桃が来るなら何か用意しておけば良かった」
何しろ桃とメッセージのやりとりはしょっちゅうだが、会えるのはかなり久しぶりだ。けれど何の土産もプレゼントもない。会えるだけで嬉しいから何も要らないって桃はいつも言ってくれるけど、オレは桃に何かしたいっていつも思ってる。
「じゃ、昼飯でも一緒に作ろっか。ちょっと派手目なの作って驚かしてやろうぜ」
「天元ってマメだよね」
「そう?」
どうせ何か食うんだしついでだろと、こともなげに言う。頭の中にはもう昼食メニューのプランがありそうだけど、手元ではレシピノートを開いて朝食を手際よく作っている。これをマメと言わないなら、なんて言うんだろう。
ヨーグルトと卵、砂糖はほんの少し。全粒粉を使っているのは、もしかしたらオレに気を使ってくれているのかもしれない。材料を混ぜ合わせる軽やかなリズムがちょっと特別な一日の始まりみたいで嬉しくなる。
「これ、しょっぱいのと甘いのどっちで食べたい?」
コーヒーメーカーの準備をしながらの天元の質問に、オレはううんと考える。朝から甘いものよりしょっぱい方が良いが、今日は普段やらないことをしてみたい気もする。そもそもしょっぱいのと甘いメニューの両方知りたくて、決めきれない。
「両方食べる。しょっぱいのが先で、甘いのはデザートみたいに」
「オーケー」
フライパンを火にかけて温め始めた天元は、冷蔵庫を開けるとぽいぽいと色々取り出して、パタンと閉めた。クリームチーズとスモークサーモン、葉物が入った袋と、それにジャム。
一人暮らしのくせに冷蔵庫の中身がいつも充実してるのは、ツマミを作って酒を飲むのが愉しみだからだと天元が言ってたことがある。きっとそれらも酒の肴だったのだろう。
「天満、ハーブとか平気だよな?」
「あー、うん、大丈夫じゃないかな」
オレは特別嫌いなものはない。けれどそれより、男の一人暮らしで妙に小洒落たものが出てくるところがウケるなと思いながら、天元がテーブルへ置いたハーブの小瓶を取り上げる。ラベルに書いてあるディルという名前に心当たりはなかったが、蓋を開けて香りを嗅いでみると覚えのある匂いがした。どこかで食べたことはありそうだ。
「こういうの、杏寿郎さんが好きなの?」
「こういうのって?」
直径五センチ足らずの小さなパンケーキをフライパンに幾つか焼き始めた天元が首を傾げて見せる。
「こういうオシャレ草」
「あいつも好き嫌いないから何でも食うけど、好きかどうかで言うなら……和食派じゃないかな」
「じゃ、天元の趣味なんだ」
そうかもなと微笑って、天元は白いプレートにスモークサーモンを数枚くるくると筒状に丸めて立てた。その隣にクリームチーズを一盛り。さらに小瓶のディルと、何やら粒が大きめの塩をぱらりと振った。
「なんだろ、すごい女口説き慣れてそうなイヤラシイ感じ……」
呆れと感心の半々くらいの笑いが出たと同時に、コーヒーメーカーの沸騰音が静かになった。良い香りもしているから、コーヒーができたようだ。オレは勝手が分かっている食器棚からいつものマグカップをふたつ取り出した。揃いの柄のそれをダイニングテーブルへ並べて、朝食の出来上がりを待つ。
パンケーキ——いや、オラディだっけ——は、すぐに火が通ってしまうらしく、天元がさっとコンロの方を向いてぱたぱたとひっくり返してゆく。また白いプレートに向き直ると、ベビーリーフを一掴み添えた。
「別に口説く時じゃなくたって、相手が喜びそうだと思えば俺は何でもしちゃう方だけどね。——あ、そうだ」
思い出したようにスパイスラックの前に立ち、迷わずひとつを取り上げる。皿の上へぱらりと数粒置いたのはピンク色の胡椒だ。
「ねぇ、そんなん家でやる人いる?」
「さぁね。やる人はやるんじゃないの。ウチは『特別』が好きな客がよく来るからね。気分がアガるじゃん?」
やべぇ焼けた焼けたとまたコンロへ向かった天元は、プレートへ小さなオラディをきれいに並べてゆく。パンケーキのように一面均一な焼き色にするのではなく、縁に丸く焼き色が付いている方がオラディらしい焼き上がりなんだけど……と、天元は言う。皿へ盛られた分は個体差でどちらの焼き加減も混ざっている。
「でもなんかすごいいい感じじゃん。店で食うやつみたい」
ベビーリーフの濃淡ある緑とサーモンのオレンジ、クリームチーズの白、ピンクのスパイス、ドライハーブの濃い緑。きれいに並ぶ黄金色のパンケーキ。突然来たオレのためにこういうことができる天元ってほんとにすごいなと思う。もしオレにもこんなことができたとしたら、桃へいつも『特別』を魔法みたいに用意してやることができるのだろうか。桃も食べることが好きだし、喜びそうだなと思う。桃の笑顔をちょっと思い出すだけで、自分も笑顔になっちゃうのが不思議だ。
「さぁ、あったかいうちに食え。次もすぐに焼けるから。——甘くして食べるなら、クリームチーズとジャムか、蜂蜜かな」
ふたつのマグカップにコーヒーを注ぐ。天元の分はコンロの脇に置いてやると、サンキュと言って味見のようにひとくち飲んだ。
「オレも料理覚えようかな。自分の身体作りにも役に立つだろうし」
「あぁ、そりゃいいね。料理は達成感の後にちゃんとご褒美があるからな」
「どういうこと?」
カトラリーを用意してダイニングテーブルにつく。天元はもう次のプレートに取り掛かっている。
「ご褒美として美味しいものが食えたり、誰かに出したら美味しいって言われたりする」
「最高のご褒美だな」
そうして喜ばれることを天元はちゃんとご褒美だと感じられているから、こんなことができるんだろう。今日一緒に昼食を作ったら、その感性に少しは感化されるだろうか。天元は杏寿郎さんの、オレは桃の、それぞれの美味しいって表情を想像しながら作るのは楽しそうだ。それに、目の前に出てきた一皿で、言葉にせずとも歓迎されていると感じられるのはとてもとても幸せなことだ。
音を立ててパンッと手を合わせる。
「いただきます」
「どーぞ召し上がれ」
さぁ、今日からまた最高の日々がスタートする。きっとね。