証拠隠滅は迅速に 可愛らしい小箱を前に、私は悩んでいた。これをあの人に、渡すべきか渡すまいか。用意してはみたものの、いざ今日となると渡すのが気恥ずかしくなってしまったのだ。変に勘違いされても困るし。
「やっぱりこれは、自分で食べよう」
その方が、みんなが幸せになれる。そもそも、自分用のチョコレートを買いに行ったのに、店を出る時に持っていたのは自分用とゾルフ用。一応、という要らない気遣いのせいで、私は今、こんなにも困っている。だったら、このチョコレートそのものをなくしてしまえばいい。
仕事終わりに渡そうと思っていたが、ゾルフは急に会議とやらが入ったそうで、暫く執務室へ帰ってこないらしい。長引けば定時に間に合いそうにもないとのことなので、今のうちに食べてしまおう。こっちも美味しそうだったし。家に持って帰るまで、我慢できない。
白地に可愛らしい花の模様があしらわれた、気取らないデザインのパッケージ。彼が気に入るようにと選んだわけではないが、最終的にはそのようなものを選んだ形になってしまっている。それに勘付かれると面倒だ。
蓋を開ければ、五粒ほどのチョコレート。中身までよく確認していなかったが、ハートのチョコレートは曲者だ。これは一番に食べてしまおう。ルビーショコラのピンクが鮮やかなハートのチョコレートの中にはガナッシュクリームが入っていて、とろける口どけがたまらない。有名店で選んで、本当に良かった。
次は、ホワイトチョコで作られている。こちらもハート形だ。全くもって危険極まりない。ぱくりと一口で、惜し気もなく食べてしまっても平気だ。何せこれは本来ゾルフのもの。自分用が別に買ってあるので、そちらは家でゆっくり食べればいい。予想通り、こちらも素晴らしい味だ。ビスケットが中に入っているのか、サクサクとした食感も楽しめる。
真ん中には、チョコレートトリュフらしい。ミルクチョコレートにラズベリーのパウダーが塗してある。中にもきっとラズベリーのピューレが入っているのだろう。一口齧って中を覗くと、予想通り。とろりとしたピューレは甘酸っぱくて、チョコレートの甘さが際立つ。
残すは二つ。何だかんだでじっくり味わってしまったが、ゾルフが帰って来ないとも限らない。さっさと食べなければ。
その時、執務室のドアが開いた。机の上には食べかけのチョコレートの箱。私はというと、さっきの三個目のチョコレートをまだもぐもぐしている。
「戻りました。……おや?お楽しみ中でしたか、これは失礼」
私の顔を見るなり、ゾルフはクスッと笑う。ごっくん、とチョコレートを飲み込んでから、私はどうにかゾルフに応える。
「あ、あの、お疲れ様でした。私のことはお気になさらず」
「口の端にチョコレートを付けて。気にしない方が不親切でしょう」
「えっ!?」
「嘘ですよ。それにしても、美味しそうなチョコレートですね」
「え、あ、はあ……はは……」
今更これを、あなたに元々あげるものでしたとは言い辛い。
「今日はバレンタインでしたね。あなたも、誰かからもらったんですか?」
「えっと……あ、はい、そうです、ターナー中尉から、そうそうターナー中尉ですそうそうそう!いらないって言ったんですけど、どうしてもって言われて押し付けられたっていうか、なんか本当は男性の方からプレゼントする日みたいなこと言われて、まああんまり断るのも悪いですし、悪い気はしないので美味しそうですし受け取っておこうかなと……いうわけでして……」
思いつくままに、ぺらぺらと嘘八百を捲し立てる自分に思うところがないではない。勝手な捏造話で責任を擦りつけたターナー中尉には、申し訳なさしかない。しかしこれで、私がゾルフに買ったチョコレートを自分で食べているという事実は隠蔽された。内心ほっとする私は、ゾルフの表情に気づかなかった。
「ほう……ターナー中尉から……」
幾分かいつもより低いその声に、私は我に帰る。
「へらへらしながら、そのチョコレートを受け取ったと?彼がそれを、どう考えたかについては思い至りませんでしたか?」
「どう、って……」
「彼はあなたが、好意を以ってそれを受け取ったと思ったでしょう。今後あなたに、そのように感情を向けてくることは明白です」
「そ、そんな、大袈裟な、ただのイベントでしょう?」
「イベントに託けて想いを伝える人が多いのも事実です。彼がそうでないと、何故あなたが言えるのですか?」
それは、ターナー中尉がこれをくれたという話自体が全くの嘘っぱちだから、と私は知っている。しかし、何故ゾルフはそんなに怖い顔をしているのか。
「あなたが誰のものであるのか、彼に教えて差し上げた方が良いでしょうか?」
「私が誰のものって、私は誰のものでもありません!ゾルフに関係ないでしょう?」
「ありますよ。あなたは私の」
ゾルフは私に近付くと、私の頤に手をかけ、彼の長い指で私の唇をゆっくりとなぞる。
「私の、…………でしょう?」
耳許で、私だけに聞こえる声で囁いた。それを言われた途端、かあっと頬が熱くなる。
「それとも先に、ここであなたに分らせた方がいいでしょうか?」
するりと手が、私の軍服の襟元にかけられた。ぷつ、とボタンを一つ外され、思わずごくんと喉が鳴る。
「ああ、そういえばドアの鍵をかけていませんね」
「えっ、や、だめです、……ひっ!」
首筋を擽るようになぞられ、思わず変な声が出た。
「だめ、とは?見られて困ることでも?」
大いに困る。そもそも誰かに何かを思い知らせる必要なんてないのだから、ここでそんなリスクを背負ってことに及ぶ必要もない。私は観念して叫んだ。
「……っ、嘘ですよ、嘘!ターナー中尉から貰ったなんて嘘です!本当はゾルフに買ったけど、食べちゃったんです!」
「……?」
ゾルフは怪訝な顔をする。当然だ、部下がそんなにも愚かだと思いたくない気持ちもあるに違いない。
「私にチョコレートを用意したものの、我慢できずに食べた……と。そういうことですか?」
「そうっ、そうです、だから、ターナー中尉は関係ないし、今こんなことする必要なんてないんです!」
ふむ、とゾルフは黙り込む。少し考えてから、ため息をついた。
「まったく……子供ではないんですから、せめて家まで我慢なさい」
「は、はい……」
呆れられているのがありありと分かるが、これで解放してもらえるだろう。
「……あの、ゾルフ」
「どうしました?」
「そろそろ離していただけないでしょうか」
私はそう訴えたが、ゾルフは笑みを返すばかりで動く様子はない。ゾルフがこういう笑みを浮かべる時は、決して私にとっていいことにはならないと、私は経験則から悟ってしまった。
「あなたの方が、離して欲しくないという顔をしていますよ」
たったあれだけのスキンシップが、どうして引き金になってしまうのか。きっとさっき食べたチョコレートに何か細工があるのに違いない。チョコレートには古くから、媚薬効果があると言うし。
「……あなたのせいです」
「そういうことで構いませんよ」
初めは軽く、次第に深くなっていく口づけに、身体が熱くなっていくのを感じる。
「甘いですね」
「チョコ、食べたので」
まだ残る甘味を舐め取るように、ゾルフはその舌で私の口内を蹂躙する。そういえばこの人は甘いものが好きだったなと、キスでとろけてゆく頭でぼんやりと思い出した。
終