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商談用の資料をまとめ上げ、急いで会社を飛び出した月島は、その足で二つ隣の駅へと向かった。駅を降り、脇目も振らずある神社を目指す。
風もない蒸し暑い夜だった。
そんな不快な夜でも、広い神社の周囲は明るく、人で溢れ返っている。今夜は年に一度の祭事らしい。
真っ赤な鳥居の下、目を見張る程の美男子が肩に少女を乗せて激しく手を振っていた。
「月島ぁ!こっちだ、こっち!」
「月島ニシパ!残業長いよぉ!」
祭りに相応しく、ぴしりと浴衣で決め込んだ鯉登とエノノカが、牛串とクレープを各々手に持ち月島を迎えた。
「す、すみません!これでも急いで来たんですが」
二人の前で止まり、膝に手を置き乱れた呼吸を整える。涼しげに着飾った二人とは違い、月島はYシャツに革靴という少し場違いな出で立ちだ。
ひとまず袖を捲り上げ、月島はネクタイを緩めた。
「ふふ、お疲れだな月島」
「月島ニシパ、今日も一日頑張ったね。偉いよ」
鯉登は牛肉を、エノノカは生クリームを頬張りながら、月島に労いの言葉をかける。
「おい月島、私達二人に対し何か言うことはないのか?」
鯉登がふふんっと鼻を鳴らし、肩にエノノカを乗せたまま、くるりと回ってみせた。
「は?え、あ……あぁ、お待たせしてすみませんでした?」
「違うっ!」
「月島ニシパ、ほら!ちゃんと見て」
鯉登の頭上で、髪に花飾りをつけたエノノカが浴衣の袖をひらひらと揺らす。
「あ!あぁ、はい。二人共凄く似合ってますよ。綺麗です」
「……それだけか?」
鯉登が眉間を寄せて目を細める。
「え?あ、えー、いつもと違う雰囲気で大人っぽいですね」
「月島ニシパ、もう一声!」
「え、えー……美しいを通り越して、えっと……こ、神々しいです!」
「よし及第点だ!」
月島の返答に頷き、声を張り上げた鯉登に肩をばしりと叩かれる。
衆人環視の中、一体何を言わされているのだろうか。
鳥居をくぐる通行人達が騒ぐ三人へと視線を注いでいることに気付き、月島は鯉登の背中を押した。
「ここは目立ちます。とりあえず中へ進みましょうか」
「おぉ、月島も楽しみにしていたのだな!いいぞ、何でも好きな物を買ってやる。たくさん食べろ!」
「月島ニシパ、冷えたビールも売ってるよ」
「はいはい。エノノカ、落っこちるなよ。鯉登さんはしっかりと前見て」
真っ赤な提灯がずらりと並ぶ参道を、人の流れに乗って三人は歩き出した。
月島にとって、季節の行事を楽しむことも、こうして三人揃って外出することも、随分久しい気がする。新しい企画が立ち上がったり、部下のフォローを頼まれたり、幾つもの商談に駆り出されたりと、最近の月島は寝ても覚めても仕事三昧の日々を送っていた。
「エノノカ、次は何を攻める?」
「輪投げと金魚すくい!」
「いいな!勝負しよう!」
「負けても奇声あげないでね」
少し浮かれた二人の会話と、参道の奥から聞こえる太鼓と笛の音。じわじわと蒸す夜の空気の中、月島は充足感を覚え、無意識のうちに口元を緩めていた。
広い境内に辿り着くと、鯉登とエノノカが揃って歓喜の声をあげる。
「おぉ!活気があるな!」
「見て!獅子舞がいるよ!」
ずらりと並ぶ屋台に、境内のちょうど真ん中辺りで豪快に踊り狂う派手な獅子舞。展示された豪華絢爛な山車と、その上で祭囃子を奏でる奏者達。
参道よりも一層賑わいをみせる祭りの熱気に、二人の表情も煌々と色めきたつ。
「よし、まずは腹ごしらえか?お前達は何が食べたい?」
巾着袋から財布を取り出して鯉登が言う。
「え、二人で先に屋台まわっていたんじゃないんですか?」
「鳥居に着くまでに少し買い食いしただけだ。月島、お前はまずはビールだな?」
「あ、いえ、自分で買いに行くので二人は待っていてもらえれば」
「行くぞエノノカ!屋台攻めだ!」
「わたし、焼きそば食べたい」
エノノカを片腕に抱き、鯉登が走り出す。
「あ、こら待ちなさい!」
鯉登の首根っこを咄嗟に掴もうとした月島の手は虚しくも空を切り、たちまちのうちに人集りの中へと消えていく背中を、ただ呆然と見届ける。
「……マジか」
合流を果たしわずか数分。月島の口から落ちた溜め息は、最早諦観に満ちていた。
とはいえ、放っておいても死にはしないだろうと結論づけ、月島はゆっくりと屋台を散策することにした。
座席のある手頃な屋台に入り、冷えたビールと海鮮焼きを数品買う。夏の夜は蒸し暑く息苦しいが、祭囃子を聴きながらの晩酌も偶には良いものだ。
念の為、鯉登のスマートフォンに連絡は入れておいた。何かあればあちらから助けを求めてくるだろう。
三十分程、一人の時間を楽しみ、月島は席を立った。
そろそろ二人を探しにいこうと屋台を出たところで、参道の方から独特な奇声が聞こえてくる。
騒ぐ雑踏を掻き分け、ひょいと頭を出して様子を窺うと、案の定、鯉登だ。
鯉登と、不審な酔っ払いが二人。二人は鯉登に殴られたのか、蹴られたのか、両方か、片方が地に蹲って口から血を流している。もう一方は完全にノックダウンの状態で、灯籠の下で伸びていた。
何か不快な絡まれ方でもしたのだろう。人が集まるところでは、揉め事だって起きやすい。
「こらこら鯉登さん、どうしました?」
騒ぎがより大きくなる前に、月島は鯉登へと近付いた。
「月島ぁ!どこに行っていたんだ?勝手に迷子になりおって!」
月島を見るなり、鯉登は見当違いな台詞を吐く。
「何事ですか?いらん揉め事は起こさないで下さいよ」
「……この酔っぱらい共がエノノカに悪戯しようとしたのだ」
「それで咄嗟に手が出たんですね」
「こんなクズ共、私が再起不能にしてやる」
目尻を吊り上げ、憤る鯉登は珍しい。月島が常日頃見る鯉登は、身内に揶揄われ、気性が荒ぶることこそあれど、最近は随分大人しいものだった。
「……月島ニシパ、わたしは大丈夫。鯉登ニシパがすぐ助けに来てくれた」
鯉登の腰元にくっついていたエノノカが、焼きとうもろこしを齧りながら、ひょっこりと顔を出す。飄々としているところを見るに、怪我はないようだ。
「鯉登さん、もう放っておきましょう。一人のしたんだから、彼等も充分懲りたでしょう」
未だ相手を睨み付け、今にも投げ飛ばしてしまいそうな鯉登の首根っこを、今度はしっかりと鷲掴む。もう片方の手でエノノカの手を取り、月島は鳥居の方へと歩き始めた。
後方で、「ガキが!覚えてろよ!」というテンプレートのような悪あがきが聞こえてくる。ずるずると月島に引き摺られながら、「月島ぁ!あいつ等懲りとらんぞ!」と鯉登が言った。
鳥居まで戻り、一息つくと、鯉登は一段と騒がしくエノノカを抱き上げた。
「怖い思いをさせて済まなかったなぁエノノカぁ!私が少しでも目を離してしまったばかりに!」
「大丈夫。鯉登ニシパ、格好良かったよ。助走つけての飛び蹴り痺れた」
乱れた鯉登の髪を手櫛で整えて、少女が大きな成人男性を宥めている。
「あぁ、だから裾が捲れてるんですね。お転婆も大概にしておかないといつか停学食らいますよ」
失礼、と付け加えて、鯉登の上質な浴衣の裾を、月島はぴしりと整える。
こうなっては仕方がない。消化不良となってしまったが、祭りはここで終いだろう。きっと、ここからが一番の見どころだろうに。
「……月島にも悪いことをしたな。せっかくの祭りを楽しむ時間もなかっただろう」
「え?いえ、俺は充分ですよ。貴方達の方が楽しみにしていたのに……どこに行っても品のない人間はいるもんですね」
「……うん、そうだな」
先程までの苛烈な言動が嘘のようだ。今度は借りてきた猫のように、遠慮がちな態度で、鯉登は月島を見下ろす。
光の差すところで見ると、少し紫がかる瞳は、今はしおらしく水気を帯びていた。
「また祭りはありますよ。今度は三人、しっかりと手を繋いでおきましょう。はぐれないように」
月島がそう提案すると、鯉登の表情は、ぱっと明かりが点くように晴れ晴れしいものになる。その勢いのまま、激しく抱き付いてくるものだから、月島はいつも理性と闘うことになるのだ。
「うん!うん!また来ような!」
「鯉登さん、ちょっと、外ですよ」
「今度は月島も浴衣だ!」
「わかりましたから離れて下さい」
「仏頂面のくせにそういうところが可愛いなぁ!」
「あの、まだ人がたくさんいますので」
「ねぇ、どうしてそれで付き合ってないの?」
鯉登の腕に抱かれたままのエノノカが、二人の隙間で疑問符を浮かべた。
「今日はチュウくらいするのかと思ってた」
いたいけな少女の開けっ広げな言葉に、鯉登の頬が朱色に染まる。火照った顔はそのままに、いち早く月島から離れ、エノノカを降ろした後くるりと回り、不自然にも性急に歩き始めた。
「よし、鰻でも食べに行くか!あれぐらいの屋台じゃ二人共物足りんだろう!」
威勢よく発しただろう声は、震えてひっくり返っている。
早足で道を進む鯉登に取り残され、二人は思わず顔を見合わせた。
「……あのね、月島ニシパ、あの酔っぱらいに絡まれる前に、鯉登ニシパ、知らないおじさんにお尻掴まれてたよ。本人は気付いてないみたいだったけど、わたし見てた。痴漢ってやつかな?」
「はぁ?!」
ひそひそと、小声で飛び切りのニュースを告げるエノノカに、月島の口から大きな声が出た。
「……俺だってまだまともに触ったことないのに」
連勤疲れが尾を引き、つい本音も零れ落ちる。
「うん。だから、早くあのお尻、月島ニシパのものにしちゃわないと」
「え、……うん。そうかもしれんな」
「ほら、行こう。鯉登ニシパが鰻奢ってくれるって」
先を行く鯉登が何やらひとりで叫んでいる。側溝に足を滑らせたようだ。
鰻を頬張りながら、今夜くらいは好きだとひとこと告げてみようか。喜怒哀楽の他に、鯉登はどんな表情を見せてくれるだろうか。
年に一度の祭りなのだから、想いを伝えるぐらいは、きっと許される。