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士官学校では、粋がる無法者も少なくはなかった。
容姿端麗、文武両道、勇猛精進、品行方正。そんな四拍子をぴったりと揃え持った鯉登を、良くは思わない人間だっている。
正々堂々と、真っ向から喧嘩を売る者はまだわかりやすかった。向かってくるのなら叩くまで。血気盛んな男子らしい発想だと、鯉登は笑って相手を叩きのめした。
一方で、陰湿な嫌がらせには少々手を焼いた。私物が失くなったと思いきや、翌日には汚れて返ってくる。根も葉もない噂を流されては、それを信じた阿呆がすり寄ってくる。顔も見せず、罵声も発さず、直接的ではない攻撃の方が始末に終えないものだと、鯉登は月島のなだらかな鼻をつつきながら言う。
「まぁ、貴方みたいなのが閉鎖的な空間にいたら、いやでも目につくでしょうな」
「妬みは見苦しいが仕方がない。にしても、だ。やり方が気に食わんのだ」
「例えば?」
「私物に精液をぶっかけられたり、男色趣味のあばずれだと噂を流されたり、誰にでも股を開く淫乱だと指をさされたり、挙句、噂話好きの俗物共にご奉仕しろと汚いイチモツを眼前に晒されたり……下品で低俗な方法でつっかかってくる者もいた。そういうやり方は対処に困る」
「その場合、どういったふうに?」
「言って聞かん者は殴る」
鯉登がふふんっと鼻を鳴らして、大きく胸を張る。
「はぁ……ところでそのお話、今じゃないといけませんかね?」
小樽の旅籠の一室で、変装用の衣装を持ち込み、油屋問屋の張り込みをしている最中だった。今回は賭場に入り込む客に変装しなければならない。そんな折に、何故だか鯉登がやって来た。部屋に入るなり、胡座をかいた月島の膝上に正面からどしりと座り込み、どうでもいい話をぺらぺらと話し始めたのだ。
「鯉登少尉、とりあえず退きなさい」
「何故だ」
「着替えたいので。今から賭場に潜入するのが私の任務です」
「知っている」
そう言っておきながら、鯉登は月島の首に手を回し、長い脚をぎゅうっと胴に巻き付け、より密着しようとする。
「……少尉、話を聞いていましたか?私はこれから」
「なぁ、月島ぁ。今の話を聞いてお前はどう思う?」
月島の声を遮って、鯉登が場にそぐわない問い掛けをする。
「と、言いますと?」
「えぇい!鈍い男だな!……この見目のせいか出身地のせいかは知らんが、私はどうやらそういう目でみられてしまうようだ。この件について貴様は何とも思わんのか?」
「はぁ?」
今はそれどころではない。囚人を釣る為、贋作の刺青人皮を賭場に仕掛けてこなければならないのだ。鯉登の無駄話に付き合っている程暇ではない。
徐々に苛立ちを覚えた月島の口から、つい悪意が零れた。
「今の体勢を見るに、男色趣味の淫乱というのはあながち間違ってはいない、ということでしょうか」
「あぁ?」
鯉登の低い声と共に、ばちんっと、強烈な平手が月島の頬にぶつかった。月島の膝上から飛び退いた鯉登は、当然ながら怒り心頭に発している。
「月島、貴様も俗物共と同じことを言うのか?」
「失礼致しました。決してそのようなことは……こうでもしないと貴方が膝からおりてくださらないと思いましたので」
気を取り直して、淡々と準備を始める月島に、鯉登が大きく舌打ちをする。何やら顔を真っ赤にして、ふるふると震えているようだが、任務最優先の月島には、関係のないことだった。
「……い、言っておくが、私に男色趣味は断じてないからな」
「はいはい。知っておりますとも」
「膝の上に乗るのも、抱き締めるのも、全部貴様だけだ月島軍曹!」
「そうですか」
「だ、だから!だからな月島ぁ!」
「はぁ……」
この若い上官が何をしたいのかは定かではないが、概ね鶴見の役に立ちたいが為の嫌がらせだろうと月島は思う。私も賭場に潜入させろとでも言う気だろうか。良家の御令息に、卑しい賭客が務まるとは到底思えないが。
帯をぎゅうっと締め、小言のひとつでも述べてやろうと振り向けば、鯉登は未だ顔を赤らめて、こちらを睨んでいた。
「まだ気は済みませんか?事が済んだらじっくりと窺いますので、少尉殿も敷地に戻られた方が良いかと」
言いながら、贋作を懐に仕舞う。
鯉登は軍衣の裾をぎゅうっと握り締め、何か言いたげに唇をぱくぱくと動かしている。
「……も、もう一度言うぞ月島軍曹。私は……そういうふうに見られることが、あるらしい。だが、私に男色の気はない」
だから何だというのだ。
「そんな私がっ……お、お前になら、少しだけ……」
身を許してもいいかも……と、思っている……
後半部分はほとんど小声で、鯉登らしからぬ消極的な物言いだった。
「……は?え、なん?」
言葉の真髄がいまいち飲み込めず、月島から単語にすらならないあやふやな声が落ちる。
そうして呆けているうちに、鯉登が背を向け、破壊せんばかりの勢いで襖を開いて部屋を飛び出した。ひょっこりと顔半分だけを壁から覗かせ、月島を恨めしそうな目で見つめ、悪態をつく。
「だから!嫉妬心のひとつでも乱してみせんか!この唐変木め!」
それだけを捨て置き、鯉登は脱兎のごとく階段を駆け降りていった。
「いや、ちょっと、少尉殿?」
慌てて追おうとするも、鯉登は何事かを叫びながら既に裏口に辿り着き、やがて往来へと消えていく。
「……何がしたいんだあの坊やは」
後に嫉妬心と独占欲と庇護欲で気が狂うほど恋焦がれ、己の人生を大きく変えられる羽目になるとは露知らず、月島は任務へと心を切り替えた。