金木犀/ひとりよがりの恋金木犀/ひとりよがりの恋
私の好きな人は、ちょっと変わっている。マイペースで、いつもぼーっとしてて、無表情で、口を開けばピョンピョン言っている。バスケ部の特待生で、高校の頃は全国で一番バスケが強い学校のキャプテンだったらしい。
背が高くて、いつも変な寝癖がついてて、手のひらが大きくて、いつもスエットやジャージ姿で全然おしゃれじゃなくって、優しくて、笑顔が可愛い。私の好きな人。
「深津くん、おはよー」
「山内さん。おはようピョン」
「あはは! おはようピョン~」
教室の隅にいる深津くんに駆け寄って、一つ離れた隣の席に腰を下ろした。月曜一限の授業なんて真面目に来ている学生はほとんどいない。教室の座席はガラガラだ。平日は毎日バスケ部の朝練があるらしく、深津くんは一限の授業も余裕なのだという。私はなんとか深津くんと同じ授業を取るのに必死で早起きしているっていうのに。
深津くんとは入学してすぐ必修授業が同じで知り合った。グループワークが多い授業だったからそのときのメンバーとは自然と仲良しグループみたいになって、サークルも部活も違うメンツだけど今も結構仲が良い。
「今日も朝練してから来たの?」
「ピョン」
「すごいね~、あたし朝弱くてさ、眠すぎて月曜はいつもめっちゃ頑張って来てるよ~」
そう言いながらチラっと隣を見る。深津くんに会いたいから頑張ってきてるんだって、きっと気付いてないんだろうな。
「高校の頃は寮だったから、朝練のときも寮母さんが朝ご飯用意してくれてたピョン。今は一人だからちょっと大変だピョン」
深津くんは顎に手を当てて、ちょっと考え込むような仕草でそう言った。いつもみたいに「ピョン」だけで会話が終わると思ってたのに、深津くんとこんなに会話が続くのは珍しい。嬉しくて、胸がドキドキする。
「じゃあさ、あたし――」
朝ご飯作りに行ってあげようか?
って言葉が出そうになって、一瞬悩んで口を閉じた。
「良かったら作りおきおかずのレシピ教えてあげよっか? 朝早いときとか、夜遅いときとか作りおきあると便利だよ!」
私がそう言うと、深津くんは重たげな二重瞼の瞳をぱちりと瞬かせたあと、ふっと小さく笑った。
「それは助かるピョン」
キラキラした朝の陽射しが窓から差して深津くんの頬を照らす。逆光の中に光っているうぶ毛も、今日も跳ねている寝ぐせも、柔らかく微笑んだ口元も、全部目の中に焼き付けたい。胸が苦しくて、今この笑顔を見てるのが私だけだってことが嬉しくて、息さえできないくらい。どんなに朝早くても、一限からフルメイクで髪もセットして、前日に服も靴も選んで、こうして彼に会うために電車に乗って。
好きなの、どうしようもないくらい。深津くんは私のことどう思ってるのかな? 他に女の子で仲良さそうな人っていないし、もしかして私が深津くんと一番仲いい女子なんじゃないかな? ドキドキして、ソワソワして、私は今日もやっぱり彼が好きだ。
深津くんのことを好きだって思ったのは、初めて深津くんの家に行ったとき。グループワークのメンバーで宅飲みすることになって、男子のひとりが「深津んちでいいじゃん」って言い出したのが始まり。そのときはたしか男女3人ずつくらいで、深津くんはいつもみたいに無表情だったけど、何度目かの「なぁいいだろ、深津~!」の攻撃のあと、「大家さんに迷惑かけないなら、いいピョン」と頷いた。
深津くんの家は大学から一駅先にあるアパートだった。とてもじゃないけど女子の一人暮らしでは選ばないような古いアパートで、建物の外には赤く錆び付いた階段と、同じように錆びの浮いたポストが並んでいた。
道路と敷地を隔てるブロック塀の内側には大きな金木犀の木が生えていた。濃い緑色の葉が鬱蒼と茂って、鮮やかなオレンジ色の花が枝じゅうにみっしりと、重そうに咲き誇っていた。零れ落ちた花で辺りは一面オレンジ色の絨毯を敷いたようで、あまいあまい金木犀の香りがしていた。深津くんの家は一階の角部屋だった。金木犀があまりに大きくて、外からは木の影に隠れてドアが見えないほどだった。
「お邪魔しま~す」
私たちは買い出ししてきた缶チューハイやスナック菓子をつまみながら、あの授業はラクに単位がもらえるらしいとか、サークルの先輩から過去問もらったとか、同じ学部の誰と誰が付き合ったらしいとかもう別れたらしいとか、そういう話で盛り上がった。
深津くんの家は一人暮らしにしては広めで、古い分家賃が安いのだと言っていた。小さなキッチンとユニットバス、寝室にしているらしい和室と、リビングらしい洋室が一部屋ずつ。和室の引き戸は閉められていて、あまり入ってほしくなさそうなので私は入らなかった。男の子たちは遠慮なくどちらの部屋もズカズカと出入りして、和室からバスケの雑誌を持ってきたりしていたけど。
あんまり物がないシンプルな部屋だったけど、壁には海外のバスケ選手のポスターが貼られていたり、スニーカーの箱が部屋の隅に積み上がっていたり、床の上にダンベルがあったりして、そっか、深津くんってバスケの特待生なんだっけ、って思ったりした。
くだらない話をして、気付いたらすっかり夜になっていた。何人かが先に帰って、残っていたのは私ともう一人別の女子と、深津くん以外には男子一人。私はお酒を飲み慣れないせいか床に座ったままいつの間にかウトウトしてたみたいで、ふと気付くと膝の上に大きなジャージの上着が掛けられていた。
「あ、起きた? まだ終電あるよね。あたしたちもそろそろ帰ろ」
私が目を開けたことに気付いて女友達が肩を揺する。もう一人残っていた男子は「このままオールしよーぜ、帰るのダリィじゃん!」だとか「泊まってもいいよな?」とか言ってたけど、深津くんに「泊まるのは無理ピョン」と断られていた。
「遅くまでごめんね。お邪魔しました」
膝の上にかかっていたジャージは、当然ながら深津くんのものだった。
しっかり者の女子に引きずられるように残った男子も深津くんの家をあとにして、私たちは三人で帰路についた。逆方向の電車に乗る男子と駅で別れて、ホームに滑り込んできた電車に友達と二人で乗り込む。まだ半分寝ぼけたような頭でぼーっと窓の外の景色を見ていると、ふと友達が「恵令奈さあ、宅飲みで男子もいるってわかってんだから、そんな短いスカート履いてくるのやめたほうがよかったんじゃない」と言った。ぎくりとするほど鋭い声だった。
「えっ?」
私が尋ね返すと友達は呆れたような、少しうんざりしたような顔で口を開いた。
「恵令奈が寝落ちしちゃったとき、パンツ見えそうになってて、あいつニヤニヤしてたんだよ。そしたら深津くん何にも言わずあんたにサッと上着掛けてあげたの。気付いてなかったでしょ?」
「え、うそ、気付かなかった……」
あいつ、とはもちろんさっき別れたもう一人の男子のことだろう。気付いたら膝の上にあった大きなジャージを思い出す。もっとちゃんと、綺麗に畳んで返せばよかった。
「優しいよね、深津くん。次会ったらちゃんとお礼言いなよ」
優しいよね、深津くん。
友達の言葉が飲み会帰りの頭の中にこだまする。なんとも思ってなかった相手なのに優しくされたら好きになるなんて、自分でも単純だと思う。でも恋の始まりって、意外とそういうものだったりするのかもしれない。
あれから私たちは学年も変わって、でも何度かいつものみんなで深津くんちに遊びに行ったりもした。サークルも違って、部活も違って、「なんで仲いいの?」って聞かれたりすることもある。「たまたま去年の必修でグループワークが一緒だったんだよね~」って言うと、みんなびっくりする。たまたま授業被っただけでそんなに仲良くなれるなんてないよ~って。私もそう思うんだ。
ねえ、その中でも、私と深津くんって、距離近付いてるよね?
もしかして深津くんも私のこと好きなんじゃないかなって、最近思うの。
深津くんのこと、何考えてるか分からないってみんなよく言うけど、私には他の人より多く笑ってくれる気がする。私たち、もしかして両想いなんじゃないかな?
口数の少ない彼の、優しく笑う顔。まぶしいものを見た時に細くなる瞳、「おはよう」っていう低い声。全部、あたしのものになればいいのに。
短い秋の終わり、もうすぐに冬が訪れそうな晩秋。お調子者の同級生が少し早めの忘年会をしようって言い出した。気心の知れたみんなでの飲み会。どこにでもあるチェーンの居酒屋で飲んで、まだ飲み足りない、はしゃぎ足りないみんなは二次会に流れていくみたい。
この店は大学の一駅隣にある。ここが深津くんちの最寄り駅であることを私は知っている。
「あたし深津くんち行きたいなぁ~。お料理作ってあげるって約束したし。ねっ?」
ちょっと酔ったフリをして、二次会の会場探しで右往左往しているみんなの前で言う。赤ら顔の集団の視線は一気にこちらに降り注いだ。
「マジ~!? お前らそういう感じ!?」
ヒューっとわざとらしい囃し方で男子が叫ぶ。深津くんは部活の荷物が入った大きなバッグを背負ったまま首を左右に振った。
「いや、そういうわけじゃ……」
照れてるのかな? 伏せた瞳がやっぱり可愛い。でも、どうしても私、深津くんの気持ちを確かめたいの。どうして私に優しくしてくれたの? 私は深津くんにとって特別な女の子だって、そう思ってもいいのかな? 線路沿いに立ち並ぶ街灯はキラキラ瞬いていた。
ヒューヒュー言われながら二人で移動して、駅からの帰り道。コンビニの灯りも遠くなって、もう寝静まった住宅街の中を二人で歩く。
「あたし深津くんちの行き方もう覚えちゃった。マジ来すぎだよね~」
テンション高めに笑いながら、隣を歩く深津くんのたくましい腕にギュッとしがみついてみた。触れた場所からじわっと体温が伝わる。グレーのスウェットからは深津くんちで使ってる洗剤の匂いがする。平気なフリをしてるけど私の心臓はドキドキバクバク騒がしくて、もうこのまま時間が止まっちゃえばいいのにな、なんて思った。
「山内さん」
静かな声で深津くんが私の名前を呼ぶ。急に変わった空気にドキッとした。
「深津くん……」
深津くんはその場に立ち止まって、じっと私を見た。心臓の鼓動がますます大きくなる。そのまま大きな手がそっと伸びてきて……ゆっくり目を閉じようとした瞬間、深津くんはしがみついている私の腕をあっさりと外した。
「……え?」
もしかして告白されるかも、なんて思っていた心が急に冷えていく。見上げれば深津くんはかすかに眉を下げて、困ったような顔でこっちを見ていた。
「山内さん、ごめん」
深津くんは思い詰めたように、重く息を吐きだしながらそう言った。吹き抜ける風が急に冷たく感じた。
「申し訳ないけどこういうことはやめてほしいピョン。恋人が悲しむから」
その言葉はまさに晴天の霹靂で、私は目を見開いた。一体何を言われているのかすぐには理解が出来なかった。深津くんは居た堪れないような顔で眉を寄せている。
「恋人……いたんだ?」
声が震えそうになる。必死で笑顔を取り繕うけど、無理に持ち上げた口角がふるふると歪んでいるのが分かった。深津くんは少しためらったあと、私の言葉に頷いた。
「……今は離れてて、なかなか会えないけど、いるピョン」
深津くんはそう言うとほんの少し恥ずかしそうに目を伏せた。恋人のことを話す深津くんは今までに見たどんな顔とも違う、まるで知らない人のような顔をしていた。
「遠距離ってこと?」
「そうピョン」
震える唇で息を吸って、なるべく気付かれないように細く吐き出した。ショックがあまりに大きくて、目の前は真っ暗だった。安い居酒屋の甘ったるいだけのお酒が急激に体内を逆流し始めて、ぐるぐると眩暈がする。
「……っ、そーなんだぁ! でもさー、それで束縛するような彼女しんどくない!? 深津くんのこと信頼してない証拠だよ」
まるで頭と口がバラバラになったみたいに唇からは勝手にぺらぺらと勢いよく言葉が零れ落ちた。夜の街灯に照らされて私ひとりの言葉がむなしく上滑りする。
どうして? なんで? ついさっきまであんなに楽しかったのに。何もかも全て、まるで悪い夢みたいだった。
「あたしたちって友達じゃん?! 女友達が家に来るだけで文句いうような彼女って正直心狭すぎっていうか――」
「俺が嫌だからピョン」
私の言葉を遮って放たれた一言にヒュッと息を飲む。冷たく尖った透明なナイフで心臓を一突きにされたような気分だった。
私の動揺を見抜いたのか深津くんは申し訳なさそうに眉を下げて、ほんの少し唇を噤んで、でもまっすぐに強い視線を向けた。
「恋人を悲しませる自分になるのは、嫌だから」
返す言葉が見つからなかった。今度こそ本当に、私は声を失った。
「山内さん、いつも話し掛けてくれてありがとうピョン。友達と思ってくれるのは嬉しいピョン。でも、もう、こういうことはしないでほしい。ごめんピョン」
ぺこりと頭を下げられてカーッと頬が熱くなる。ごめんなんて言わないでよ、なんで、だって、そんな声で、そんな顔で。
「えっと、うん、なんか、ごめんね?」
私はヘラヘラと作り笑いをしてそう言った。それだけで精いっぱいだった。
情けなくて恥ずかしくて、頭がぐちゃぐちゃで、どうやって帰ったのかほとんど覚えてない。駅までダッシュして終電間際の電車に乗り込んだ。
窓の外に深津くんの住む町の景色が流れていく。今は暗くてわからないけど、この町のどこかに、大きな金木犀の木が生えている。
鼻の奥がツンと痛い。目頭が熱い。私一人だけ舞い上がって馬鹿みたい。バカみたい。
でも好きだった。好きだったの。
私の好きな人は、ちょっと変わっている。マイペースで、いつもぼーっとしてて、無表情で、口を開けばピョンピョン言っている。
背が高くて、いつも変な寝癖がついてて、優しくて、誠実で、そして残酷な人。
彼に愛されたらきっと幸せだろう。遠距離恋愛なんてちょっとやそっとの浮気くらいバレないのに、何にも知らないところで、これだけ一途に思われているなんて。今は遠くにいる、顔も知らない彼の恋人がずるくて、羨ましくて、窓の外の景色がだんだん滲んでいく。
あの小さくて日当たりのいいアパートに、彼の恋人も来ることがあるのだろうか。そのとき彼は、深津くんは、どんな顔をして恋人に笑いかけるのだろうか。
私がその顔を見ることはできない。ただそれだけのことだった。
始まりもせずに終わった恋は、金木犀の匂いがした。