厨房令嬢と強面旦那様(仮) 鈴虫が夜の演奏会を開いている。そして、己の腹の虫も大演奏会を開いている。ベッドに寝ころんだ幼いネロは、グルーグレーのくまのぬいぐるみを抱き込み、小さな身体を丸めた。
「おなか、すいた……」
窓掃除ができなければご飯は抜き。洗濯物を落としたらご飯は抜き。野良猫に触ったらご飯は抜き。
これまでは厨房のスタッフたちがこっそりまかない飯を振舞ってくれていたのだが、それもついに見つかり大多数の使用人がクビになった。
そしてネロはついに丸一日、なにも口にしていない。眠れば空腹も気にならないと思ったのに、空腹すぎて眠れない。
「……おなか、すいた」
このまま死んじゃうのかな。ネロは泣きたくなるのをぐっと我慢した。もうこの子に頼るしかないと、手の中のくまを見つめる。
実はこのくま、ネロの両親がネロのためにあつらえたぬいぐるみなのだ。金色の瞳はシトリンである。ネロはお金を持っていないが、このぬいぐるみを持っていけば、どこかでご飯を食べさせてもらえるかもしれない、とずっと思っていた。でも、手放したくないとも思っていた。
父と母が亡くなり、屋敷ものはすべて叔父たちのものになった。ドレスや宝石は、叔母と義妹のもの。元の部屋は追い出され、屋根裏部屋で寝泊まりしている。お気に入りの絵本やおもちゃは、気に入れば義妹のものになり、気に入らなければ捨てられた。この子は捨てられたものの中から、ネロがひっそり持ち出したのだ。
だから、見つかってしまえばまた捨てられるのだろうということも、予想が付いていた。それなら、このくまを誰かとパンにでも交換した方がいい。
「……ごめんね」
ネロはくまを抱えて、街へ向かった。しかし時間が遅いのか、パン屋などはすでに閉店しているし、子供が居酒屋に飛び込むにはハードルが高かった。
どうしたものかと迷っていたら、近くの店から客たちがぞろぞろと出てきた。
「またなー! ナディ様ー!」
「さっさと帰れ。酔っ払い」
ははは、ひでーなーと笑いながら、男たちは上機嫌に去っていった。
店の入口にナディと呼ばれた女性の姿があった。高身長で、快活そうな女性だ。目玉がぎょろっとして、少し魚に似ている。ネロが彼女を見ていると、ふとナディがネロの視線に気づいた。
「どうした嬢ちゃん、こんな時間にひとりかい?」
「あ、えっと……。ご飯を食べたくて……」
「そうか。でも悪いね、うちはもう店じまいなんだ」
父ちゃんたちとまた来な、と言ってナディがドアを閉めようとする。ネロが慌てたその時、声より先に腹の虫が主張した。ナディが目を丸くする。
「……ご、ごめんなさい……」
「謝る必要はないが……」
ナディは考える素振りを見せた後、「おいで」と、ドアを開いた。促されるままネロはナディの店に入る。
カウンター席とテーブル席があり、奥には調理器具の並んだキッチンが続いている。決して広くはないが、素敵な店舗だ。
ナディはネロにカウンターに座るよう言い、子供のネロは高いそれによじ登る。腰かけると、まずコンソメスープが目の前に置かれた。具が入っていないそれは、琥珀色で皿の底がはっきり見えるほど透き通っている。
湯気の立ち上るそれを、そっと口に運んだ。口に入れた瞬間、ネロは目を輝かせる。
「おいしい!」
「ははは! そうだろそうだろ!」
ナディ様のコンソメだからねーと、ナディは得意げに笑った。一日なにも食べていないというのを加味しても、ネロの今まで口にしたどのスープよりも美味しかった。ネロは興奮してその皿を褒め添える。
「とり肉とか玉ねぎとかはいってないのに、その味がする! ふしぎ! すごい!」
「……鶏や玉ねぎを使ってるって、わかるのかい?」
舌が肥えてるね? とナディが驚いた顔をしたから、ネロは失礼なことを言ったのかと狼狽えた。でもナディは褒めたんだよ、とネロの頭をぐりぐり撫でた。髪が乱れてネロは目を瞬かせる。そんなことを今までされたことがなかったから。
ナディはネロに訊ねる。
「嬢ちゃん、名前は?」
「ネロ」
「ネロか。腹が減ったら、また飯食いに来な」
次は皿洗いとかしてもらおうかね、と言ってナディは腕まくりすると、フライパンを振り始めた。
今度はなにができるのだろうか、とネロはわくわくして彼女の手元を眺めていた。
〇
シャンデリアが輝く、煌びやかなパーティー会場。会場にいる者たちが皆、客人たちとのお喋りやダンスを楽しんでいる。
ここ、ターナー邸でももちろんそうだが、ターナー家主催のパーティーではもうひとつ、来客たちがこぞって楽しみにしていることがある。
「きみ、きみ」
ある紳士は会場を行き来するコックコートを着た少女を呼び止めた。彼女が彼の元へ近づく。
「お呼びでしょうか?」
「何度か出席させていただいているが、ターナー男爵のパーティーで振る舞われる料理はどれも素晴らしい。あちらに並んだムニエルなど、スペクターフィッシュのムニエルでは?」
子爵の示したそれに彼女は「左様でございます」と返した。
東部では入手するのが困難な品種だ。それを入手できるとはと、彼は関心したように頷いた。そして周囲の様子を伺いつつ、そっと声を顰めた。
「こちらのシェフは、元王家お抱えシェフだったというのは本当かね?」
「え?」
少女は驚いた顔をした。彼は、流石に経歴は知らないかと質問を改める。
「ターナー男爵は引き抜きを恐れてか、こちらのシェフのことをまったく教えてくださらないんだ。しかしこれほどの腕前のターナー男爵家のシェフに、皆、興味津々なのだよ」
どんな人物なのだね? 歳は? 性別は? 外国から来たとの噂もあるが本当かね? 彼は矢継ぎ早に少女に訊ねた。少女があわあわしていると、赤いドレスの女性が割って入った。
「あなた、ずるいですわ! わたくしもシェフのお顔を拝見したいとずっと思っているのに!」
彼女は少女の手を取り、興奮した様子で本日の晩餐会がいかに素晴らしかったかを述べた。恐縮する彼女に夫人は懇願する。
「ねえ、あなたから口利きしてくださらない? わたくし、どうしてもこちらのシェフに会ってみたいの」
「あ、えっと……」
「子爵ご夫妻」
呼びとめられたその声に三人ははっとした。ターナー男爵とその一人娘、ローズが微笑みを携えながら、歩み寄ってきていた。
少女はすぐさま頭を下げ、子爵夫妻も男爵に向き直る。ターナー男爵は露骨に困り顔をしてみせた。
「困りますぞ、うちの使用人をたぶらかされては」
男爵は軽く指先を振り、彼女を下がらせた。少女の背中が遠のき、ふたりが残念そうな表情をする。
「まあ、男爵ったらいけずですわ」
「他の使用人にも箝口令を敷いてらっしゃるとは。ターナー男爵はよほど、自慢のシェフを大事にしていらっしゃる!」
わははと子爵の豪快に笑う声がした。そんなことない、世間に秘密なのは世間体からだ、とコックコートの少女──ネロは思った。
世間で噂の飛び交うターナー家の料理番。その人物は、王家お抱えのシェフだったわけでも、はたまた外国からやって来た民でもない。街の片隅にあるとある店で料理を学んだ貴族令嬢だ。
夫人たちが熱望していた彼女こそ、ターナー家の料理番、ネロ・ターナー男爵令嬢である。
〇
ターナー男爵に呼びつけられ、ネロは仕込みを中断し、談話室へと向かっていた。
嫌な予感しかしない。ノックをして素早く入室する。
「失礼しま──」
「遅い!」
早速男爵に罵られ、ネロは口の端を曲げた。「申し訳ございません」とは言いつつ、呼び出されたその脚で来たのに、辟易した。
どう振舞ったって、悪く言われるのだ。それなら、早く折檻が終わる方がいい。ネロはちらりと義妹、ローズを見やった。ローズが母のパトリシアに慰められながら泣いている。
こちらに居る三人は、ネロの家族ではあるが、血が直接繋がっているわけではない。
ターナー男爵は、ネロの叔父だ。ネロが八つの頃、当時のターナー男爵であった父と母が亡くなり、家督を継いだのが次男のヘンリー、現ターナー男爵である。
ネロは男爵に訊ねた。
「どんな御用でしょうか?」
ネロの質問に、義父は手紙を放った。それはネロの元まで届かずにゆらゆら地面へ落ちる。雑な扱いだ。だがいつも通りなので、ネロは文句を言うことも不満を顔に出すこともせず、それを拾い上げた。
綺麗な文字である。丁寧な季節の挨拶の後、その手紙には『ターナー男爵令嬢と婚約したい』といった旨が綴られていた。
ローズをどこかの貴族が見初めて、婚約の申し込みをしてきたのだろう。めでたいではないか。ネロはそう思ったが、周りのリアクションを見るとどうにも違うらしい。改めて手紙を確認する。そしてネロはその差出人の名に気が付いた。
「ブラッドリー・ベイン将軍……」
「そうだ」
ターナー男爵はぐったりと項垂れた。
ブラッドリー・ベイン将軍。会ったことはないが、社交界に参加したことのないネロでも、有名人なので知っている。
ベイン侯爵家の末の息子、ブラッドリー将軍。北方からの侵略を自軍のみで退けた功績が評価され、北部警護の最高責任者となり、爵位を得ている。
だがその侵略の際、顔面に大きな傷を負い、痛々しい傷跡が残っているらしい。また徹底した合理主義者で、己に害をなす者、不利益をもたらす者には容赦なく鉛玉をぶっ放すそうだ。それで付いたあだ名が『強面将軍』それが、ブラッドリー・ベイン将軍だ。
桃色の髪を振り乱し、ローズがわーんと大きな声で泣いた。
「あ、あんまりですわ!」
「ああ、なんて可哀想なローズ……! こんなに可愛らしいばかりに!」
パトリシアは娘を抱きしめ、現状を嘆いた。ヘンリーがネロをキッと睨みつける。──ああ、なんで呼ばれたのか大体検討が付いた。ヘンリーはネロを指差して叫ぶ。
「ネロ! おまえがブラッドリー将軍に嫁ぐのだ!」
その台詞を聞いた途端、ローズもパトリシアも名案だと手を打った。
「そうですわ! それがいいですわ!」
「手紙には『ターナー男爵令嬢』としか書かれておりませんもの! ネロが嫁いだって、なにも問題ありませんわ!」
よかったわねー、ネロ。素敵な旦那様が見つかって、とローズが微笑んだ。恐ろしい噂のある将軍に嫁ぐのが嫌で泣いていたくせに、なにが「素敵な旦那様」だろうか。
叔父も叔父だ。ブラッドリー将軍は末の子とはいえ、元は侯爵家の人間。男爵家のうちが断れるわけがない。だからネロを当てがった。使えるものは使う。叔父らしいと言えば、叔父らしい。
けれども、そしてこの婚姻話、ネロにとって好機でもあった。いつかこの家を出て行こうと思っていたが、嫁ぐとなれば、堂々とこの家を出て行けるではないか。
ネロはにっこりと微笑んだ。偽りのない笑みで、承諾する。
「わかりました。ブラッドリー将軍の元へ嫁ぎます」
「おお! 流石ネロだ!」
男爵たちがネロの勇気に拍手をした。そしてヘンリーは当然のようにこう続けた。
「それではネロ、一日猶予をやる。明日には家を出る準備をしろ」
「……え?」
聞き間違いだろうか? ネロは首を捻った。だが、男爵は不遜な態度でソファーに身を預けたまま、続ける。
「一日もあれば、おまえの少ない荷物をまとめるのに充分だろう」
「そうね。早い方がいいわ!」
「馬車の代金くらいはこちらで用意してあげます」
当人のネロを置いて、どんどん勝手に話が進んでいく。将軍は婚約の手紙を寄こしただけなのに、いきなり嫁いで大丈夫なのか、といった話し合いは不可能だった。
この家では自分は娘じゃない。ローズが欲しがれば、どんなものだってローズのもの。ローズが嫌がれば、どんなことだってネロのせい。理解している。大事なものを、散々手放してきたのだ。もう諦めている。
ネロは次第に疲れて、「かしこまりました。仰せの通りに」とだけ言って、部屋を後にした。
時間がない。夕食の時間に間に合わなけば、また叱責が始まるのだ。ネロは厨房へと急いだ。
〇
「あんまりです!」
その夜、ネロの屋根裏部屋に飛び込んでくるなり、事情を聞いた晶は不満を口にした。ローズが何時間か前に言ったのと同じ台詞だったが、かなり印象が違い、ネロは「あはは」と笑う。「あはは、じゃないです!」とまた晶は怒ってみせた。
晶はここ、ターナー邸で働くメイドだ。先代ターナー男爵の頃から働いていた使用人は、叔父がほとんど解雇してしまったが、当時新人だった晶は、運よくクビにならなかったのだ。
ネロの外出の手助けをしたり、唯一ネロを『お嬢様』と呼ぶ、この家の使用人にしてはかなり変わり者な女性である。
悪い悪いと謝って、ネロは晶に向き直った。
「でも、チャンスだと思うんだよ。出て行くほどには、まだ足りてねえからさ」
「足りてないって、バイト代ですか?」
「うん」
ネロは荷造りで鞄に入れていた瓶を晶の前に置いた。中には紙幣やコインが詰まっている。
ネロはまごうごときターナー男爵家の料理番だ。 三度の食事に、三時のおやつ、パーティー料理だってネロが振舞う。だが給金を一切貰っていないのだ。晶はきちんとお金を貰って働いているのに。
生活するには金がいる。ネロは、料理の師匠であるナディに頼んで、たまにバイトをさせてもらっていた。しかし、毎日ターナー家での料理と仕込みがあり、屋敷を抜け出すことも簡単ではない。
あと、ときどき所持金が紛失していた。ローズか、もしくは他のメイドがくすねているのだと思う。だから、ネロは大事なものほどナディの店に置かせてもらうようにしていた。貯金はまだ、目標額には届いていない。
だから今回の話は好機だ。そう熱弁するネロに晶は渋い顔をした。
「でも、その将軍様がどんな方かわかりませんし……」
「それはまあ……。でも、最悪なんとかなる」
「どうしてそう楽観的なんです!?」
声を荒らげる晶に、ネロは違う違うと首を振った。
「一応、ターナー男爵令嬢はふたりいるじゃん? そこを上手いこと使おう」
困惑した表情を見せる晶に、ネロは作戦の概要を説明した。
まず、きちんとターナー男爵令嬢を名乗って、嫁ぎに来た旨を伝える。しかし、向こうが望んでいるのはローズなはずだ。人違いであることはすぐにわかる。
ネロが社交界に出ていないことにも非があるし、将軍がはっきりローズの名を書かなかった非もある。ネロが帰宅したいと言えば、馬車代くらいは持たせてくれるはずだ。
そうして将軍の屋敷を後にして、ネロはその馬車代でターナー邸ではなく、他国へ逃亡する。という寸法である。
ネロの話に、晶は不安そうに眉を下げた。
「馬車代ではなく、将軍様が直接送っていくと言うかもしれませんし……」
「そうなったら、ここに着くまで三、四日はかかる。こっそり夜中に抜け出すさ」
「……そもそもお嬢様が来たことに激昂するかもしれません……」
晶は心配そうに指先を擦った。ネロもひっそり目を伏せる。──その可能性はあるかもしれない。
『ターナー男爵令嬢』といえば、誰もがローズのことだと思っている。ネロはこの家で、社交界にも出席したことのない娘。長子であるといえども、ネロの顔を見れば、馬鹿にされたと思われたって不思議じゃない。
その状況を想像して、ネロは苦笑した。
「……それでも多分、小娘いたぶって殺す趣味はねえだろ」
ネロからしたら冷静な分析のつもりだったが、晶にとってはそうじゃなかった。身体を強張らせて、小さく震えている。
「私も行きます」
「え?」
「持参金も持たない娘なんて、それこそ向こうでどんな扱いを受けるかわかりません! お嬢様が強い方なのは存じておりますが、私が仕えているのは、今のターナー男爵ではございません!」
晶は目に涙をたくさん浮かべて、でもはっきりと言ってのける。
「私もお嬢様と一緒に行きます!」
「え、あき──」
「止めないでください!」
晶はそういうなり、ドタドタとネロの部屋を飛び出していった。その脚で辞めるとメイド長に言ってくるつもりなのだろう。ネロは晶の行動につい笑ってしまった。
ネロが腐らずにこうしていられるのは、晶のおかげだ。自分の代わりに怒ってくれて、泣いてくれて、心配してくれる。彼女の存在がどれだけありがたかったか。迷惑をかけるなと思いつつも、晶の提案が嬉しかった。
ネロがふと見上げると、特別空が明るかった。かんぬきを外して窓を開ける。
空に満月が昇っていた。夜風が吹き付け、髪を揺らす。ネロはくまのぬいぐるみを抱き上げて、くまにも月を見せてやった。かつて、お代として無理やりナディに渡したものだったが、彼女はずっと持っていたのだ。くたびれてはいるが、手触りは昔と同じままだった。せっかくだから、この子も一緒に連れて行こうと思っている。
「ブラッドリー・ベイン将軍、か……」
一体どんなひとだろうか。優しくなくていいから、せめて話の通じる人物だといいのだが。
ネロはそっとぬいぐるみを抱きしめた。
〇
馬車を乗り継ぎ、時には農民の荷台に乗せてもらうこと、四日。ネロと晶は、北部へと到着した。
道中、寒いと感じていたら、北部に到着した時には、一面の銀世界だった。ネロは雪を見たことがほぼなく、わくわくした。晶も同様だったようで、一緒にはしゃいだ。だが軽装すぎたらしく、ふたり同時にくしゃみをした。
通りすがりの人物に声をかけ、街の外れにあるというブラッドリー将軍の屋敷へ向かう。
将軍の屋敷は重厚な雰囲気というか、趣があるというか、立派な邸宅なのだが、魔王が住んでいそうな恐ろしさを感じる邸宅だった。
正門を抜け、雪かきがなされた道を進んで、扉の前に立つ。ネロは緊張して、大きく深呼吸をした。
「では、ノックしますね」
「頼む」
晶がライオンの装飾のドアノッカーを叩く。これだけ大きなお屋敷で気づいてくれるのだろうか。いや、これだけ大きいと専用の使用人やフットマンが居るのだろうか。
しばらく待っていると、「少々お待ちください」と男性の声が返ってきた。ぱたぱたと足音が聞こえた後、扉が開かれる。
「どちら様でしょうか?」
ひょっこり顔を出したのは、ブラウンの髪と薄茶色の瞳の若い男だった。人が良さそうな顔立ちをしている。燕尾服を着ているから、彼が執事だろうか。ネロは精一杯ご令嬢らしく頭を下げた。
「突然の訪問をお許しください。ターナー男爵が娘、ネロと申します。婚約のお手紙をちょうだいし、馳せ参じました」
ネロはここでひっそり相手の顔色を伺った。案の定、目の前の彼はあんぐり口を開け、固まってしまっていた。
それはそうだろう。普通は了承の返事を書くものなのに、ターナー男爵は郵便代をケチっている。
ネロは父から預かったと言い、封書を取り出した。ターナー男爵家紋の封蠟が押されたそれは、婚約を了承する旨が記載されている。一応、ネロが本当に男爵家の娘であるという証明でもあった。
中を改めた彼は、慌ててネロを室内に招き入れる。
「これは大変失礼いたしました! おもてなしの準備が不足しており、申し訳ございませんが、どうぞお入りください」
「ありがとうございます」
こちらこそ、行くって言ってなくてすいません、とネロは胸の内で謝った。ネロと晶は、屋敷の中へ脚を踏み入れる。
扉が閉まっただけなのに、かなり暖かかった。隙間風なんて無縁の屋敷なのだろう。
床には真っ赤な絨毯が敷かれ、中央には二階へ通じる階段がある。壁には絵画が飾られ、燭台と天井の立派なシャンデリアも灯りが灯っていた。うちではろうそくがもったいないからと、パーティーの時でしかシャンデリアは活躍しなかったのに。
執事の彼に外套を預け、ネロたちは応接室へと案内された。
応接室も赤い絨毯と、上質なテーブルとソファーが並んでいた。すでに暖炉に火が灯っていており、暖かい。ネロはほっと息を吐いた。
「奥様、こちらへおかけください」
彼がネロにソファーを勧めた。ネロは首を捻る。つい晶の顔を見ると、晶は感動した顔をしていた。困惑した彼が再び口を開く。
「あ、あの……ネロ様?」
「え? ……は、はい!」
ネロは言われるままソファーに腰かけた。晶がその後ろに立つ。──今、聞き間違いじゃなければ「奥様」と呼ばれたような? ネロは平気な顔をしていたが、めちゃくちゃ動揺していた。
ドアの前に立って、執事が頭を下げる。
「お茶の用意をして参ります。少々お待ちください」
「あ、はい」
扉が閉まると、それを突き破って「カナリア! カナリアー!」と焦った声が聞こえた。どうやら、向こうも平静を装っていたらしい。ふたりきりになり、ネロと晶も顔を突き合わせた。
「今、私のこと『奥様』って……」
「言ってました! 聞き間違いじゃありません!」
晶が断言する。ネロは眉をひそめた。将軍が婚約を申し込んだのはローズなはず。向こうもそれなりに混乱しているはずなのに、ネロのことを「奥様」と呼んだ。
どういうことかと首を捻ると、晶がそれはそうだ、と解説してくれた。
「ネロ様は男爵からの手紙を渡しております。すぐに状況と主人の意図を汲み取って『ターナー男爵令嬢』でなく『奥様』とお呼びになった。ネロ様を女主人と認めてくださった証です!」
そう言って、晶は興奮ぎみに拳を握った。
確かに、あの状況で「婚約した娘と違う」などとは口が裂けても言えないだろう。非常識な訪問だが、彼は使用人でネロは男爵令嬢、意義を唱えることはできない。それでも『奥様』と呼ぶのはいささか性急な気がするが。
しばらく待っていると、執事が戻ってきた。カートにお菓子や紅茶を乗せている。
そして傍らにはメイドの姿もあった。陽だまりのような金髪に三角巾をまとった、そばかすがチャーミングな女性だ。
ふたりはテキパキとネロにお茶を用意し、ネロが一口口にしたのを見て、執事の彼が申し開く。
「申し遅れました。私は当家の執事、クックロビンでございます。こちらは私の家内で、メイドのカナリア」
「初めまして、奥様。カナリアと申します」
クックロビンとカナリアが揃って頭を下げる。それをきっかけにネロも口を開いた。
「初めまして、ネロと申します。こちらは私の侍女の晶です」
「晶でございます。クックロビンさん、カナリアさん、よろしくお願いいたします」
カナリアにまで奥様と呼ばれ、ネロはなんとなく己の立ち位置を把握した。ならばこちらも、奥様になった程で振舞っておこう。
ネロがひっそり、如何に穏便にここから抜け出せるかを算段し始めた頃、クックロビンが申し訳なさそうに眉を下げた。
「実は、旦那様は本日不在にしており、またお帰りは遅くなると伺っております。旦那様へのご挨拶は明日でよろしいでしょうか?」
「わかりました」
ネロはすぐさま頷く。急に来たんだからそうだよな、こちらに来たその日に会えるとは限らない。ネロは愛想よく笑ってみせた。
「それでは、また明日改めます」
「え?」
「え?」
クックロビンに驚いた顔をされ、ネロもまた聞き返してしまった。予想外の返答だったらしく、クックロビンがわたわたしている。どうやら、なにかを間違えたらしい。両者の動揺を察し、カナリアが間に入った。
「奥様。差し支えなければ、今夜はこちらにお泊まりください。確認が不足しており申し訳ございませんが、本日は客間をご用意いたします」
「あ、ありがとうございます」
ネロはカナリアの返答で理解し、慌てて頷いた。手紙の内容を鑑みれば、ネロはもうここの女主人。つまるところ、ここがネロの家だ。だが、ネロが日を改める、すなわち帰ると言ってしまった。だからクックロビンは慌てたのだ。
また一方でクックロビンたちも、肝を冷やしていた。
主人から婚約の申し出をターナー男爵家へ出している、ということは彼らも周知していた。だが、婚約に至ったこと、ネロがやって来る日取りなどはまったく聞いていなかったのだ。
それはもちろん、返事の手紙よりネロが先に来ているせいではあるが、使用人の彼らにとってそれは問題ではない。問題は、ネロの部屋をどこにするのか、内装や家具はどうするのか、使用人たちを新しく何人迎えるのか、といった女主人を迎え入れる準備がまったく整っていないことである。
普通、嫁に来た娘が「貴方の部屋が決まっていないので、今日は客間でお願いします」などと言われたら、憤慨ものだ。実家に帰ると言われたっておかしくない。
けれどもネロは、怒らなかった。そもそも婚約の返事をしていないし、家では使用人扱いだったネロは、貴族の常識を理解していなかった。
クックロビンたちは、ネロの反応に安堵するのと同時に、客間でも文句を言わない令嬢に首を傾げていた。
一休みしてから、ネロはカナリアに客間へ案内してもらった。
用意された客間は、ネロの想像より広くて驚いた。貴族も訪ねる客間なのだから、当然と言えば当然なのかもしれないが。
寝具はふかふかだし、ベッドサイドテーブルにはかわいい花が活けてあった。この寒さでも咲く花があるらしい。突然やって来たのに、そのおもてなしにネロは胸がじんわりと温かくなるのを感じた。
カナリアと晶がテキパキと荷物を片付ける。そもそも荷物なんてトランクひとつしかないので、あっという間に終わってしまった。くまはベッドサイドに鎮座している。
その後は、屋敷の中を案内された。立派な屋敷なのに、いつも居るのはクックロビンとカナリアだけらしい。月に何度か掃除のためだけに人を呼んでいるそうだ。部屋の数が多く、迷子になりそうだ。安易にうろうろするのはやめよう。
夕食はカナリアが用意してくれた。パンにサラダ、ジンジャーをたっぷり使った野菜スープに、メインは兎肉の煮込みだ。たまに将軍が兎や鹿などを狩ってきてくれるそうだ。
思わずネロは目を輝かせた。狩った肉を解体して食べるなんてしたことがない。解体するのは将軍なのか、カナリアなのかと訊ねると、それは肉屋がするそうだ。少し残念だ。だが、やり方を覚えれば自分もできるかもと、ネロはわくわくした。
夕食の最中、クックロビンたちはネロに将軍のいろいろな話をしてくれた。「顔は怖いけどいい人ですよ」とか「面倒見がいい」「噂より怖い人じゃない」と主人をフォローした。ネロはふたりの気遣いが嬉しくて、そして申し訳なく思った。本来それは、ブラッドリー将軍の嫁になる女性に向けられる気遣いだったから。
夕食を終えると風呂に入り、晶にあれこれ世話を焼かれた。本当はネロはひとりで入りたかったが、カナリアも手伝いにやって来そうな雰囲気だったので、晶がいるから大丈夫だと断ったためだ。あの時の晶の感動した顔といったら。本来あれこれ世話を焼かれるのかご令嬢なのだろうが、どうにも慣れない。ここにいる間くらいは貴族令嬢を演じないと、とは思うが。
ようやく晶が自分の部屋に戻っていき、ネロはくたりとベッドに沈み込んだ。
将軍様はまだ帰って来ていない。
挨拶は明日、と言われているから帰宅しても呼ばれないかもしれない。そういう時は、自らお迎えに出て行くべきなのだろうか。なにが正解かわからない。嫁入りのマナーくらいは勉強しておいた方がよかったか。
ネロはごろりと寝返りを打った。シーツの肌触りが気持ちいい。布団は軽いのに暖かくて、外の気温なんて忘れてしまいそうだ。
うつらうつらと、ネロは船を漕ぎだした。長旅の疲れと、寝具の気持ちよさに負け、ネロはあっという間に眠りに落ちていった。
〇
その日、主の帰宅は二十一時を過ぎていた。いつもならば、外套を受け取りながら「些事ないか?」と訊ねられ「ありません」と答える。それが執事としての屋敷を任されている自分の責務だと思っているし、これからもそうあるつもりだ。だが、今日はまったく通常通りではなかった。
主人であるブラッドリーがいつものように訊ねる。
「些事ないか?」
「あります!」
つい声が大きくなり、カナリアに窘められた。クックロビンは「失礼いたしました」と、ひとつ咳払いをする。そして、本日の重大事件を告げた。
「ネロ・ターナー男爵令嬢がいらっしゃっています」
ブラッドリーはこれでもかというほど目を見開いた。そうでしょう、自分たちもそうでしたと、夫妻が頷く。
本日は客間に案内した旨をクックロビンが伝えると、なんと当家の主は客間に向かおうとした。己の目で確かめたかったのだろう。だが、もう夜だ。女性の寝室を訪ねるなどとんでもない。案の定、カナリアが大慌て止めた。
ブラッドリーはしばし考え込んだ後、先に夕食を取ると言った。それがいい、まずはわかり切っていることから片付けましょう。
三人で食堂に向かい、料理が並べられるとブラッドリーは真っ先に兎肉にフォークを突き立てた。
「婚約承諾の返事は来てなかったと思うんだが?」
「確かに、郵便はありませんでした」
「じゃ、どうして?」
「実はネロ様がこちらをお持ちでした」
クックロビンはネロから受け取った手紙を取り出す。ターナー男爵家の封蠟。サインも男爵本人だろう。ネロがターナー男爵の娘であることに疑いようはない。しかし、あまりにも段階をすっ飛ばしすぎている。
クックロビンは大きな不安を抱えていた。
ブラッドリー将軍は、北部守護の要。他国からすれば真っ先に排除したい人物であり、自国の人間だって北部最高責任者という席を狙っている者は多い。彼女は婚約者を名乗った間者や暗殺者、という可能性も捨てきれない。
しかし身元を偽っていなかった場合、不敬すぎてとても口に出せない。彼女は主人が見初めて、妻にと求めた女性だ。己の首が物理的にも飛びかねない。
それに彼女は、貴族令嬢にも見えないが、スパイにも見えないのだ。クックロビンがどう説明するかを考えあぐねていたら、申し訳なさそうにカナリアが進言した。
「旦那様、申し上げてよろしいでしょうか?」
「ああ」
カナリアは緊張した様子で口を開く。
「奥様の荷物が来ません」
「……は?」
ブラッドリーはぽかんと口を開けた。カナリアが詳細を説明する。
「ネロ様は侍女と共にいらっしゃいました。手持ちの荷物は二つのトランクだけ。一つが奥様、もう一つが侍女のものです。荷物を乗せた馬車があとからやって来ると思ってたのですが……」
「一向に来ない?」
カナリアは無言で頷いた。
本来であれば、ご本人と一緒に嫁入り道具や持参金も持ち込むものだ。でも、彼女は旅行にでも来たような身軽さだった。令嬢の荷物がトランク一つだなんて、そんなことあり得るのだろうか。
クックロビンはブラッドリーの顔色を伺った。驚いたり戸惑ったりしているかと思いきや、主は平気な様子で次々と料理を口に運んでいた。
「他には?」
「え?」
「なんか他にもあったんだろ?」
口をもごもごさせながらブラッドリーが問う。クックロビンとカナリアは顔を見合わせた後、恐れながらと話し始めた。
「実は、旦那様の帰りが遅くなることを伝えると『日を改めます』と……」
その台詞にブラッドリーは大きく目を見開いた。そうですよね、やっぱり変ですよね、おかしいですよね、などとクックロビンが同調しようとしたところ、ブラッドリーは豪快に笑い出した。
「はっはっは! 嫁に来る気があるのかねえのかわかんねえな!」
ブラッドリーはひーひー言いながら涙を拭っている。そうとうツボに入ったらしい。予想外のリアクションに、クックロビンが驚き呆けていると、ブラッドリーはようやく笑いを収め、彼に向き直った。
「なるほどな。てめえが微妙な顔するわけだ」
「え……。顔に出てましたか?」
「ああ」
ブラッドリーに頷かれ、カナリアには小突かれ、クックロビンは肩を小さくした。ブラッドリーはこの従者の嘘が付けないところを入っている。
次第に夫婦喧嘩に発展しそうな彼らをたしなめ、短く指示した。
「明日の朝食で本人と話をする。もてなしの用意を」
「かしこまりました」
優秀な従者たちが頷く。
ネロ・ターナー。どんな娘だろうか。明日を楽しみにしながら、ブラッドリーは兎肉を頬張った。