【5/4スパコミ無配】アクスイ(ブラッドリー視点) 約束の時間にそいつは現れなかった。すっぽかされたのかと思いきや、「ごめんね。少し迷ってしまって、もうすぐ着くよ」とメッセージが入っていた。そしてもうすぐ着くとあったのに件の男、ラスティカが到着したのは待ち合わせの三十分後だった。
「ごめんね。待たせてしまったかな?」
「先にやってたから、気にしなくていい」
テーブルには、すでに俺が勝手に注文したシュニッツェルなどが並んでいる。店員を呼び、俺は二杯目、ラスティカは一杯目の酒を注文した。店員が静かに扉の向こうに消えていく。
完全個室のイタリアンだ。店員たちも、こちらが芸能人とわかっていても騒いだりしない。口の固い店員しか採用されないのだろう。ここは、そういう店だ。俺はまだわずかに残ったビールを煽った。
──ラスティカ・フェルチ。舞台やミュージカルを中心に活躍する俳優。自身の所属する事務所、ルスカ・スピカの幹部メンバーでもあり、タレントの何名かはラスティカがスカウトしている。声があいつに似ている男……ネリーもラスティカがスカウトしたらしい。それなら当然顔を知っているはずだ。
俺は平静を装って、ラスティカに話しかける。
「仕事終わりだったんだろ? マネージャーとかに送ってもらわなかったのか?」
「そのつもりだったんだけど、素敵なショップを見つけてね。断ったんだ。この店にも来たことがあったし、大丈夫だと思ったんだけど」
「あったのかよ」
まるで貴公子のような遅刻の理由に思わず嘆息が漏れる。
しばらくすると、店員がグラスを運んできた。ふたりでそれを掲げ、乾杯する。
ラスティカは朗らかに、本人特有のゆったりとした口調でいろいろな話をした。
舞台や配信といった仕事の話。ディナーショーでのファンの様子。それから日常で起こった素晴らしい(俺からしたら取るに足らない)出来事。
そしてラスティカとよく接する面々の日常。
弟子のように可愛がっているクロエ。事務所の社長である、ザラとアリア。そして、所属するタレントたち。潮時だと思い、俺はラスティカに訊ねた。
「ネリーってやつは? どんなやつなんだ?」
「ネリー?」
ラスティカはきょとりと目を丸くした。だが、すぐにいつもの柔和な笑みを見せる。
「素敵なひとだよ。ネリーは、料理を作るのがとても上手なんだ。毎食丁寧に作られているし、美味しいものを食べた時にした働かない細胞が、脳で一気に働くような美味しさがあるよ」
だから僕はスカウトしたんだ、と続けるラスティカの台詞に思わず閉口した。
俺もそうだった。ネロの作る飯は、あいつの言葉遣いとは違って毎度丁寧で、感動していた。毎日食っているとありがたみがなくなるが、食えなくなった今、どうしても食いたいと思う味。
作り方に興味がなかったから、どうやって作るのかなんてまったく知らない。だがどうしてか、ネリーが作っていたフライドチキンは、似ていると思ったのだ。ネロの作っていた、フライドチキンに。
皮がパリッとしていて、中はしっとりしていて、かぶりついたら肉汁が溢れ出て、香ばしい香りが鼻を抜けていく──。
「……フライドチキン、食いたくなってきたな」
声にすると、ラスティカは可笑しそうに笑った。突拍子なく聞こえたのだろう。ましてや、たらふく食った後だ。お上品な坊ちゃんからすると、俺の発言は信じられないのかもしれない。
しばらく経ってもラスティカが笑っているものだから、俺は眉間にしわを寄せた。
「おい」
「ふふふ。ごめんね」
ラスティカは慎ましやかに笑っていた。俺はラスティカのそばにあったワインを取り、手酌で注ぐ。
「いいよな、てめえは。食ったことあるんだから」
「そうだね」
「悪いと思ってるなら──」
俺は音を立ててボトルをテーブルに置いた。正面のラスティカを見据える。
「俺にも食わせろ。あいつの飯」
その頼みに、ラスティカは再び驚いた顔をした。少し上に視線を上げ、考え込んでいる。これまで軽快に飛んでいた会話のボールは、ここで初めて止まった。
ラスティカがどう返してくるのか。それを考えると、わずかに汗がにじんだ。そしてどう返されようと、それを打ち返す心構えをする。
やがて顔を上げたラスティカは、真っ直ぐ俺を見つめ返した。
「いいよ」
「……は?」
予想外の答えに、つい反応できなかった。ラスティカは相変わらず、読めない貴公子の微笑みを携えていた。
「今度、ネリーが料理を撮影する時に、きみを招待するよ」
彼に会えるかは保証できないけれど、とラスティカはなんでもないことのように付け加えた。
俺は思わず笑ってしまう。こちらの意図も狙いもわかった上で、こちらの要望を叶えつつも、自社のタレントを守った。なにも考えていないように見えて、案外策士らしい。
俺はラスティカに無言でグラスを差し出した。ラスティカもグラスを合わせる。チンと小気味いい音が部屋に響き渡り、ふたり同時にグラスを煽った。
◯
自宅に戻り、風呂に入った俺はごろりとベッドに横になった。
本当は「ネリーはネロ・ターナーなのか?」とラスティカに問いただすつもりだった。だが、ラスティカも経営者のひとりだ。社外秘を馬鹿正直に話すわけがないのもわかっていた。どうやって聞き出そうか散々迷っていたが、思わぬ収穫を得た。
俺はスマホを取り、ルスカ・スピカの動画サイトへアクセスする。アーカイブを遡り、フライドチキンを作る回を再生した。
光る猫うさぎこと、ひーちゃんが鍋の油の様子を伺っている。
『ネリーさん! 菜箸に泡がいっぱい! これが高温?』
『そう。油が高温になったら、もう一回揚げる』
『もう一回? 揚げ足りなかったのか?』
『もう一回揚げると、皮がパリッとすんだよ』
ネリーの解説に、なでぃこと、なーさんが『へー!』と感心した声を上げた。
油の中から取り出し、皿に盛りつけられたフライドチキンがアップになる。画面越しにも匂いがしそうなほど美味そうなフライドチキンだ。
『ほい、完成』
『わー!』
『美味そうー!』
完成を三人が喜んでいる。その様子が妙にかわいらしかった。声の感じからして、ネリーは成人男性だろうに。
ふと、ネロも案外かわいいものが好きだったなと思い出した。ふかふかした耳の犬とか。
俺はそっと目を閉じる。すると、ますますネリーの声がネロと重なって聞こえた。
ネロは俳優をやめて、配信者になったのだろうか? どうしてなにも言わずにやめたんだ? どうしてなにも言わず居なくなった? 俺はおまえともっと芝居がしたかったのに。
答えの出ない問い。知る術のない問い。──だが、それももうすぐわかるかもしれない。
「ネロ……」
そっと呟いた相棒の名前は、思いの外寂しくベッドルームに落ちていった。