【💛💜】初恋 口に出せない。口に出せない。
そのくせ、言葉に出来ない想いは、どんどん煮詰まって、どろどろと重たく、甘くなっていく。
煮詰めすぎたジャムみたいに、たちが悪い。
「シュウ?」
「――――」
雨音に閉ざされた、放課後の空き教室。
呼ばれて、シュウはハッとする。己を窺うように覗くふたつの目には、シュウが映っている。
「はは、ぼんやりしてた?」
「あ、いや……、ごめんね」
「いいよ、今日はもうやめにしよう。俺お腹すいちゃったしさ」
そう言って、ルカは笑う。教室の時計は、いつの間にか十九時を回ろうとしていた。体温がわかるくらいにすぐ傍らにいた彼は、椅子から立ち上がると、シュウの机にくっつけていた机を離す。
ルカの動きに合わせて、シャンプーなのか柔軟剤なのか、お日様みたいな香りが漂う。シュウのまわりの空気を攪拌する。
ざあざあと降り注ぐ雨はやむ気配がない。教室の窓を叩きつけて、校舎も世界も水底に沈めている。
息が、くるしい。
溺れてしまう。
「雨、ちっとも止まないね」
「ああ」
シュウが零せば、鞄に教科書やペンケースを乱雑にしまいながら、ルカが頷いた。
「俺、雨って苦手。好きなひともいるんだろうけど」
拗ねたように告げるルカに、確かに彼は燦々と輝く太陽の下の方がよっぽど似合いだと思った。
「明日は晴れるといいな! はやく走りたい」
「……」
窓の外を眺めながら、ルカはそう言う。瞬時にシュウのまぶたの裏に、彼がグラウンドを駆け抜ける光景が浮かんだ。
きれいなフォームで、しなやかに身体を使って、地を蹴っていく。
いつもなら放課後は、彼の居場所はグラウンドだった。
「今日はありがとう、シュウ。助かったよ」
「いいよ。僕も復習になったし、それに、」
ルカと過ごせて楽しかったから。
すこし照れながらそう口にすれば、ルカは嬉しそうに破顔した。
たまたま。たまたま、雨で部活がなくなった彼と鉢合わせて、なんとなく話をして、勉強を見ることになった。
突然転がり込んだ幸運。二時間近く、ふたりきり。シュウはルカの時間を独占した。
胸の奥を、振り子細工のようにゆれる心を、気取られないようにしたつもりだけれど。
なにかきっかけさえあれば、すぐに漏れ出してしまいそうな、煮詰めすぎたこころ。
知ってほしいくせに、一ミリだって、伝わってほしくない。
知ってほしい。知らないでいてほしい。
相反するこころ。
「俺もシュウと話せて楽しかった!」
からからとルカはその目を細める。笑ってくれる。
「シュウがよかったらさ、また勉強教えて。勉強じゃなくても、俺もっとシュウと話したいよ」
「――――」
「あ、シュウ、そういえば傘持ってる? 無いなら傘入れていくよ」
「え?」
「いつもなら持ってないんだけど、今日はママが持たせてくれたんだ」
そう得意げに言ったルカに、シュウは「あー……、」と迷った。
きっと、断った方がいい。
だってこれ以上ふたりでいたら、言わなくていいことを言ってしまいそうだった。
けれどこんな機会が今後、あるとも思えない。
「男二人で一つの傘は、お互い濡れそうじゃない?」
「それも楽しいじゃん!」
断った方がいい。誘いを受けるべき。
ふたつを天秤にかけて、悩んで、結局シュウは、いっそうこころが傾いた方を選んだ。
「……じゃあ、お言葉に甘えようかな」
「もちろん!」
シュウの言葉に嬉しそうに笑ったルカは、鞄を背負った。
シュウも机の上の文房具やノートをさっさと鞄にしまい込む。
鞄の底に眠る折り畳み傘は知らんふりで、さらに奥に押し込めた。
雨でよかった。
きみは、明日は晴れたらと言うけれど。
明日もまた雨ならと、思ってしまう。
***
五月も末。
放課後。図書室の、ちょうど本棚の影に隠れた端の席。
いつもの、指定席。
古びれた本の匂いに囲まれながら、茹だる暑さに、シュウはそっと息を吐き出す。
昼過ぎまで降り注いでいた雨は止んだ。午後から太陽が顔を出したのはよかったが、おかげでひどく蒸した。湿度なのか己の汗なのかわからないが、身体がべたべたとして不快だ。こんな日に限ってろくに風も吹かない。開け放った窓からは、ただ湿った生温い空気の匂いがするだけだ。
ついこの間まで、春だったくせに。
あっという間に夏の気配が押し寄せて、梅雨になってしまった。
夏の入口。ひと思いに夏に変わる前の、躊躇いの季節。
シャープペンを放り出す。湿度でふやけたノートはうまく字が書けない。参考書も開いたままに、シュウは頬杖をついた。なんとなし、グラウンドを眺める。
運動部が汗を流しながら、それぞれトレーニングに精を出している。そう言えば近々大会や試合があるのだと、クラスメイトたちが言っていた気がする。大変だなあ、と他人事のように思う。
談笑の声。吹奏楽部のスケール練習、合唱部のコーラス。料理部がなにか甘い物を焼く匂い。図書室の利用者たちが、本をめくる音。
自分以外の人間が生きている、煩雑とした気配の数々。コミュニティーの外側からそれらを感じるのはすこし寂しくて、けれどどこか安堵する。
シュウは決して友達がいないわけじゃない。人と関わるのだって好きだ。
けれどシュウは、自分だけがすこし異質なのを知っている。
「――――」
図書室の隅、いつもじっと立つ灰色の影。今日も今日とて、だれかに悪さをするわけでもなくただ静かに佇んで、本棚を見つめている。確か、お気に入りの本があるのだ。だれかがその本を手に取り読むとき、影は嬉しそうに背後から一緒に文字を追っている。
吹奏楽部のスケール練習に合わせて、昇降口で踊る小さな子供たち。うっすらと手足の透ける彼らは、これどいつもご機嫌だった。
グラウンドでは時折、白い煙のような靄のようなものが駆けていく。きっと近くで暮らしていた動物かなにかの残滓。生きていた頃よりのびのびと走り回っている。
通学路でたまにすれ違う真っ黒な影。雑踏に混じる人ならざるもの。
多くの人々には視えないもの。
呪術師の闇ノの一族の血を引くシュウには、昔からたくさんのものが視えた。
うんと幼い頃、みんな同じ世界を視ているのだと思っていた。けれどそれは違った。それを知ってからは、なるだけ視えることがばれないように過ごしてきた。
その弊害か、幾分かひとにこころを開くのが苦手になってしまった。
笑って話せる友達だっているし、人と関わるのだって好きだけれど。
いつもどこか、内側に篭もっている節はある。
「……」
さて、勉強がはかどらないなら、もう帰ろうか。
そう思い、グラウンドから視線を外す。開いていたノートや参考書を閉じて、適当に鞄に放りこむ。
そんな、中。
「ルカ~~! がんばって!」
「ルカなら絶対に記録超えられるよ!」
そんな声が、シュウの耳を打った。
べつに、気に留めるような内容でもなんでもなかった。どうしてかなんて知らない。わからない。ただ、本当になんとなく。なんとなく、視線をグラウンドに向けた。
そうして、彼を見つけた。
「…………」
金色の髪をひとつに束ねた生き物。学校指定のTシャツとハーフパンツ、白いスニーカー。彼は真剣に、数メートル先のゴールテープを見据えていた。
しなやかなに鍛えられた脚は、走る人のそれだ。
それになんだか、彼の周りは空気が澄んで視えた。
なぜ? と訝しむうちに、彼は声援を送る部員たちに、手をひらひらと振って返す。
そうして。
静寂。
一瞬とも永遠ともつかない静寂の果て。
スターターピストルが、鳴る。
大地を蹴る足。しなやかな脚力。美しいフォーム。
ぐんぐんと風を切って、どこまでも速く、疾く、彼はトラックを駆け抜けていく。
「――――」
目を、奪われる。
やけに鼓動が跳ねて、体温が上がる。
野生動物のように、自分の身体のバネを、よく知っている。
やがて大きな体躯がゴールテープを切った。
見守っていた部員や同級生たちが、歓声を上げながら彼に駆け寄る。それを受けて、彼は汗を拭いながらひどく嬉しそうに、楽しそうに笑っていた。
どくんどくんと、心臓が主張する。
どうして。なんで。
そのとき気に留めたのか、目に留めたのか、まるでわからない。
ただ、その日の光景はしっかりとシュウのまなこに焼き付いて、剥がれなかった。ずっとずっと、胸を離れない。
帰ろうとしていたくせに、シュウはもう一度、席に腰を下ろした。
やがて空があんず色に焼かれるまで、ひとりグラウンドを眺めていた。
それが始まり。
***
「あ」
「え?」
しまった。とシュウは思う。つい、声を漏らしてしまった。
同じ学校に通っているのだから、むしろいままで顔を合せなかった方が奇跡に近い。否、顔を合わせてはいたかも知れないが、彼を個として意識していなかった。
昨日までは顔も知らなかった、気にも留めなかった、有象無象。けれども昨日から、彼はシュウの中でその他大勢ではなくなってしまった。
昼の喧騒。
先輩に頼まれて、なんとなくそのまま続けている購買部のアルバイト。いつものようにシュウが作業をしていると、サンドウィッチにスナック菓子、いちごミルクとコインをカウンターに差し出された。ろくに相手の顔も見ずに釣りを計算して差し出したところで、はじめてそのひとの顔を見た。
揺れる、金色の髪。
昨日の、陸上部の。
そう思うより早く、シュウの口は「あ」と声を上げてしまっていた。そんなシュウの声に、目の前の彼は薄い紫色の目をはしはしと瞬かせる。釣銭を落とさなかっただけ、及第点だ。
「……あー、その、なんでもないよ」
言い訳にもならないことを口にしながら、誤魔化そうとする。そうすれば彼は不思議そうにしながらも、連れの友人に呼ばれたのもあり、買った物と小銭を受け取ってその身を翻した。
妙な汗をかいた。
息が苦しくて、胸が詰まる。
一体どうしてしまったのだろう。
ろくに話なんか、したこともないのに。名前だって、昨日友人たちに「ルカ」と呼ばれたのを聞いたから、彼が「ルカ」なことをシュウは一方的に知っているけれど。向こうはシュウの名前すら知らないはずだ。
それなのに、それでも着実に、彼がこころに根付いてゆく。
なぜ。どうして。
その日の放課後も、シュウは図書室の窓から、彼の走る姿を眺めた。
***
それから、一週間が経った頃。
「Excuse me」
いちごミルクってもう売り切れちゃった?
昼休みが始まって三十分。
購買で用意していたほとんどの品物が無くなってしまった頃に、彼はやってきた。売れ残っていた牛乳パンと蒸しパンをカウンターに乗せながら、問われる。
一瞬シュウは驚いて、けれどもすぐに取り繕った。
「ああ、今日はもう売り切れちゃったね」
「だよね、仕方ないか」
シュウの答えに、彼は深くため息をついた。しゅんとした様子の彼は、なんだかごはんを取り上げられた犬のようだ。
僕よりきっと背が高いのに、なんだかかわいい。
「無いだろうなってわかってはいたんだけどさ、ワンチャン無いかなって思ってたんだ」
「……」
「でもパンはあってよかったよ。じゃあ、このパンだけで」
そう言って財布を取り出した彼に、シュウは「あー、」と声を出す。
「バナナミルクなら、用意できるけど」
「え?」
そう言って、自分用にとバイトの開始前に買っていたバナナミルクを、カウンター内の冷蔵庫から取り出した。
突然差し出されたバナナミルクに、ルカは驚いた顔をする。つい差し出してしまったが、もしかして押し付けがましかっただろうか。途端に、シュウのこころはすこし居心地悪いもので侵食される。
「え、これ、」
「あー、飲める?」
「飲める! 飲めるよ!」
目を輝かせながらこくこくと頷く彼の背後に、ぶんぶんと揺れるしっぽが見える。
さっきまでの居心地悪さと引き換えに、妙にくすぐったい感情が胸に押し寄せる。
「えっ、でもこれ、いいの?」
「うん。僕はバイトの特権でいつでも買えるから」
「これシュウのだったの?!」
「え?」
「あっ!」
名前を呼ばれたのに驚けば、彼はしまった、と口元に手を押し当てる。けれどやがてこの状況が可笑しくなったのか、彼はからからと笑った。
「この間さ、購買に寄った時、シュウ俺を見て声上げてたじゃん」
「あー……、」
バツの悪い出来事を掘り返されて、シュウは視線を逸らした。けれどもルカはかまわず続ける。
「それでなんとなく気になって。友達に聞いたら、シュウって名前だって教えてくれて」
「そっか」
「勝手に名前を聞いちゃってごめん。俺はルカ・カネシロ」
「ルカ、くん」
知ってる。けれども知らなかったふりを装った自分はきっと、ずるい。
けれども、ルカはそんなシュウの気持ちなど知る由もなく、飛び越えてくる。
「ルカでいいよ。俺もシュウって呼ぶ」
「――――」
「あっ、バナナミルクいくら? ちゃんと払うよ」
そう言って代金を財布から取りだそうとするルカを、シュウは制した。
「いや、いいよ。これはきみにあげる」
バナナミルクをルカの目の前に改めて差し出す。温度差で汗をかいたパッケージが、すこし滑った。
「えっ、でも」
「それより早く教室に帰らないと、昼休み終わっちゃうけど」
シュウはそう言って、背後にあるカウンター内の時計を視線で差す。そうすればルカは慌てた顔をして、そうしてシュウを見て、財布からパンの分の代金を取り出すと、カウンターに置いた。
「ごめん! ありがとう! 今度なにか御礼する!!」
「んはは、楽しみにしとく」
シュウがそう返せば、ルカは買ったパンと、シュウが差し出したバナナミルクを抱えて、慌てた様子で駆けていく。
制服姿で走るところは、はじめて見たな。
ついいましがたのやりとりを思い返しながら、胸がとくとくと脈打つ。
「……ルカ」
今日はじめて舌に乗せた名前。声にして呼んだ名前。
妙に、馴染んだ。
そんなことを考えて、その日の昼休みは終わった。
昨日のお礼! と二本買ったいちごミルクの一本をルカに差し出されたのは、翌日の昼休みのことだった。
***
それからシュウとルカは、頻繁にではないけれど、顔を合わせれば話すくらいの仲にはなった。
廊下で通り過ぎれば挨拶をするし、購買で顔を合わせれば他愛ない話をする。それだけの関係。気軽で、すこし物足りなくて、けれども決して深入りすることのない、されない、安全な立ち位置での交流。
放課後にグラウンドを駆け抜ける彼を眺めていることは、秘密のまま。
「あ、シュウ」
図書室での勉強を終えて、帰路に着こうと校舎を出た頃。
タオルで汗を拭いながら、友人たちと談笑をしていたルカが、シュウを見つけて駆けてくる。陸上部のトレーニングがちょうど終わったらしい。
あんず色に染まっていく空。ルカのモルガナイトの瞳も、温かな色に染められていた。
「お疲れ」
首筋や額に、汗で髪の毛が張り付いている。彼の身体から、制汗剤かなにかの柑橘系の香りがする。
「ありがとう! シュウはいまから帰るとこ?」
シュウが帰宅部なのを知るルカは、すこしだけ訝しそうにする。放課後にシュウがひとり図書室で勉強をしていることも、窓からルカを時折眺めていることも、彼は知らない。
「まあ、ちょっとね」
「そっか。気を付けて帰って」
ごまかすシュウに、けれどもルカは踏み込まない。子供っぽいところも多いルカは、だけど適切な距離感でいてくれる。それが心地よくて、そのくせすこし、寂しい。
面倒な性分だと、自分でも思う。
「きみもね、ルカ」
適当にそう返して、シュウは帰路に着く。
すこしずつ、ひそかに、でも着実に。シュウのこころに根付いたそれは、芽吹いていく。ひとつの意思をもって、育っていく。
どうしたらいいだろう。
誰かにこころを揺さぶられるなんて、こんな、温かで穏やかで、そのくせどこか暴れ出してしまいそうな感情を、他人に覚えたことがない。
思い出す、柑橘の香り。
こころのやわいところが、潰されそうだ。
これの名前は、きっと。
「…………」
気付いてしまったら、だめだ。
きっともっと、欲張ってしまう。いまの立ち位置じゃ、満足できなくなる。いまでさえすこし、物足りないと思ってしまうのに。
それに、叶うか知れないものを、失くしてしまうかもしれないものを、これ以上育てたくはない。
いまのままでいたい。いまのままでいたくない。
相反する気持ちを抱えながら、シュウはひとり、あんず色に燃やされる街を歩いた。
***
放課後ひとり図書室で勉強していることがルカにばれたのは、なんの面白みもないきっかけだった。
その日は朝から雨がひどかった。普段グラウンドを使う運動部は軒並み屋内のトレーニングになったり、休みに変更されたりしていた。
陸上部は、後者だったらしい。
休みならば、と友人たちと図書室で課題を片付けようと訪れたルカに、シュウは見つかった。
「シュウ?」
「…………」
見知った顔があったことが意外だったのか、ルカがシュウを見て目を丸くする。いつもの人目につかない席で参考書を拡げていたシュウは、一瞬あせって、けれどもすぐに諦めた。
別に、理由があって隠していたわけじゃない。勉強をしていたこと自体は、べつに後ろめたくない。
この窓からルカを眺めていたことは、べつにばれちゃいないのだから。
「シュウもしかして、いつも図書室にいるの?」
「まあね」
頷けば、ルカはすこしだけ笑って「じゃあこの間もだね」と言う。きっとこの間、帰りに出くわしたときのことだ。
思いのほかルカは、シュウとのやりとりを覚えている。
「シュウ頑張って」
ルカはそう言うと、さっさとシュウとは離れたテーブルに向かった。友人たちの待つテーブル。それに安堵して、そのくせ残念に思う。
我ながら、なんて面倒だろうかと思う。でもいまさら治るものでもない。これもまた、シュウはさっさと諦めた。
ルカが席について、課題を拡げる。ちょうどシュウの席からは、彼の後姿が見える。自分より広くてがっしりとした背中をすこし丸めて、課題に向き合う後ろ姿。一体、どんな表情をしているんだろう。ルカがシュウの目の前に座ってくれたなら、それを見ることができた。
ああ、だめだな。
どんどん、初めての甘い感情は、シュウの意思とは反して、育ってしまう。
言えない気持ちは、どんどん甘さを増して、煮詰まっていく。
それにやっぱり、彼の周りは空気が澄んで視える。
いつも図書室の隅にいる灰色の影も、ちらちらとルカを伺っているようだった。
彼は根っから明るくて、生命に満ちて、エネルギッシュだから。
きっと暗がりで暮らすようなものたちは、眩しくて簡単に寄り付かない。
「――――」
すごいな。
シュウは純粋にそう思った。
ルカの気配をいつもより近くに感じながら、シュウも参考書の内容を解いていく。
雨のせいで、彼が風を追い越す姿は見られないと思っていたけれど。
時折、ちらちらとルカの背中を見ながら、雨も悪くないなとシュウはひそかに思った。
***
それから、さらに一週間後。
雨のせいでまた、陸上部は休みになった。
図書室に向かおうとした廊下で、ルカと鉢合わせた。
「シュウ、図書室行くの?」
「ルカも?」
問えば、ルカは頷く。
今日のルカはどうやら一人だった。
「いっしょに行ってもいい? シュウの邪魔はしないからさ」
「いいよ」
今度はシュウが頷く。そうすればルカが嬉しそうに笑ったので、シュウのこころの奥が甘い感情で膨れる。
ふと、足を止める。
後になって思い返せば、どうしてそんなことを口にしたかは知れない。シュウでさえ、自分の口から飛び出した言葉に驚いた。
だけどきっと、どこかで燻っていた願望が、口をついた。
「あの、さ」
呼びかける。
邪魔はしないから、と言われたのが、きっと、存外に寂しかった。
「よかったら、なんだけど。勉強、見ようか?」
「え?」
「――――……」
自分で、自分の言葉に驚いた。けれど覆水は盆に返らない。一度零れた言葉は、取り返せない。
シュウの提案に、ルカは意外そうにした。そりゃそうだ。いままであまり深入りしないように、安全な場所からしか会話をしてこなかった。
お互いの名前は知っている。だけど、ときたま顔を合わせたらいくらか言葉を交わすだけの関係。それでよかった。それだけでいいんだと、シュウは自分に言い聞かせてきた。
自分で線を引いてきたくせに、それを知ってか知らずか、無理に踏み込まずににいてくれようとしていたルカを、もどかしく思った。寂しいと。思ってしまった。
拗らせている。遠ざけていたくせに、煮詰めすぎてしまった。
そんなシュウに気づいているかはわからないが、ルカは意外そうにしながらも、すぐに破顔した。
「ほんとに? いいの?!」
ああ。ほら。
求めれば、彼は受け取ってくれるから。シュウのほしいものを、返してくれるから。
それが心底嬉しくて、でももっと欲張りになっていってしまうのが、こわい。自分を知ってほしいのに、知られるのがこわい。
だから線を、引いていたのに。
「それならさ、俺のクラスでやんない?」
「えっ?」
それは、ちょっと、どうなんだ。
シュウとルカは学年は同じだが、クラスは別だ。そもそも学科が違うから、普段過ごす棟も実は別だった。
シュウは所謂進学クラスで、ルカはスポーツクラス。
数年前に近隣の学校を合併したこの学園は存外に広い。購買や食堂、図書室や特別教室は共用施設なのでどの学科の生徒とも顔を合わせるけれど。
そんな理由もあり、シュウはそもそもルカの過ごす棟に足を踏み入れたことがほとんどない。
シュウが幾分か悩むそぶりを見せれば、ルカが「大丈夫だよ」と口にした。
「たぶんさ、きっともう誰もいないんじゃないかな?」
「そう?」
「図書室はさ、静かにしてなきゃじゃん。せっかくシュウといっぱい話せる機会だし、図書室よりいいかなって。もちろん、シュウが嫌じゃなかったらね」
「ルカ、」
そんなことを思ってくれていたのか、とシュウは胸がじわ、と温かくなるのを感じた。
ルカの言うように、本当に彼のクラスには誰もいないかも知れない。けれどやはりすこし、躊躇いもある。
図書室は確かに、基本静かに過ごす必要がある。それならルカのクラスの方が。でも、それならば、もっと。
シュウを見つめるルカに、そっと言葉を返した。
「それなら、さ」
他の場所じゃだめ?
問えば、ルカはそんな場所があるのかと目をぱちぱちさせる。
数年前にいくつかの学校を合併させたこの学園には、旧校舎がある。旧校舎といってもそう古めかしくはない。電気も通っているし、週末にはレンタルスペースとして一般に貸し出したり、定期的に人の出入りもあるため中は綺麗だ。
正面玄関は普段施錠されているけれど、入り込むのはそう難しくない。なにせ、一階に鍵が壊れている窓があるのだ。
購買のバイトに誘ってくれた先輩がこっそり教えてくれて、シュウも何度か忍び込んだことがある。
人ならざるものの気配はあるが、悪さをするものは棲みついていない。
そこなら、誰の目にもつかない。机や椅子も備わっている。
「旧校舎、入ったことないよ」
シュウの説明に、ルカは目を輝かせた。好奇心旺盛な彼らしい。
「ちょっとだけ、きみを悪いことに加担させちゃうけど」
「悪いこと?」
「んはは、施錠されてる場所に忍びこむわけだから、そりゃあね」
シュウが笑えば、ルカは悪戯っ子みたいな顔をした。未知の場所は、思いがけない非日常は、ルカの興味を大いに引いた。
「興味ある?」
「めちゃくちゃにあるよ!」
素直に答えるルカがかわいくて、ついシュウは笑った。
「じゃあ、ちょっとだけ悪いことをしよう」
シュウの誘いにルカは頷いた。
思いがけない幸運。
そうして、空き教室に忍び込んで、机をひっつけて、ルカの勉強を見た。
ルカは勉強自体は卒なくできるようだった。スポーツもできて勉強もできるなんて、とシュウが羨ましがれば、ルカはからからと笑っていた。
間近に感じる体温。金色の髪がこぼれ落ちて、真剣な横顔にかかる。
勉強をする彼の顔を、初めて見た。シャープペンを握る指を、初めて見た。
煮詰まっていく感情。煮詰めすぎた、甘くて苦いママレード。
雨はちっとも止まなくて。世界にシュウとルカのふたりだけみたいな錯覚に陥った。
夢みたいな時間だった。
***
「ルカ、肩濡れてない?」
「平気だって。シュウこそ濡れてるじゃん」
「きみよりマシだよ」
「俺はシュウより鍛えてるから大丈夫だって」
男子高校生が使うには妙にかわいい傘の中で、そんなやりとりをする。
ママが持たせてくれたというルカの傘は、いくらか小振りだった。シンプルながらもすこし甘めのデザインのそれは、きっと女性用の傘で、それこそルカの母親のものだろう。骨が多くて、風に強そう。そんなことを考えた。
校舎を出る前に傘を広げたルカは、「シュウ」と自分を招き入れてくれた。ルカはずっと傘を持っている。シュウより背丈のある彼が差した方がきっといいだろうけれど、すこし申し訳なさもあった。
ちっとも止まない雨の中を、ふたり歩き出す。
相合傘なんてしたことがない。それでもルカの歩調に合わせて、雨の帰路を進む。シュウの左肩はあっという間に濡れてしまったけれど、構わなかった。
「そういえばシュウ、家どっち?」
「僕電車だから、駅まで行ければ大丈夫。ルカはは?」
「一緒だ! 俺も電車」
どうやら目的地は同じらしい。
ルカの家が近いなら見送って、あとはひとりで雨の中を走ろうと思っていたのに。
遠ざけようとしていたのに、線を引いていたのに、すこし欲を出した途端に、これだ。
「方向どっち?」
「L駅の方」
「Really」
シュウの答えに、ルカが興奮した様子で距離を詰めてくる。嬉しそうにずい、と顔を近づけられて、シュウの心臓は騒いだ。
雨音が傘を打つのに、ルカの声だけは、はっきり聞こえる。
「シュウ、最寄もL駅なの?」
「いや、最寄はもう二つ先のN駅」
「じゃあ俺隣だ! シュウがそんな近くに住んでたなんて知らなかったよ!」
もしかして今まで同じ電車乗ったことあったかな。
楽しそうに笑うルカをよそに、シュウはわずかに焦った。
確かに、いっしょに過ごしたいと欲を出したけれど。あんまり、あんまり都合がよすぎやしないか。
カフェでなんとなくオムライスを注文したら、セットでサラダにスープにデザートまでついてきてしまった、みたいな。親戚の家に挨拶に行ったら、そのまま夕飯を勧められて、あまつさえ泊まることになってしまった、みたいな。
望んだくせに、あまりに一気に与えられすぎて、シュウの許容を超えている。嬉しい、けど。でも、困る。このままでは、ひとりきりで煮詰めてきた感情が、ふとした拍子に口をついてしまいそうだった。
「ねえシュウ、もう一つさ、聞いてもいい?」
水たまりを白いスニーカーでよけながら、ルカがそっと窺ってくる。
「シュウが話したくなかったらいいんだ。でも、ずっと気になってたことがあって」
「……なに?」
なんとなく、漠然と、嫌な予感がする。暴いてほしくないけれど、答えようと思えば答えることもできるような、ぎりぎりの問いを投げかけられる気がする。
シュウが促せば、ルカは問うてきた。
「購買でさ、なんで俺を見て、声を上げたの?」
「あー……、」
予感は的中した。
忘れていてくれないかな、と思っていた。けれどそれがあったからこそ、ルカはシュウを気にかけて、シュウの名前を友人たちから聞いたのだ。覚えていても仕方がない。
なんと答えたらいい。
ルカはシュウが答えたくなかったらいい、と言ってくれた。答えない選択肢もある。はぐらかすことも、誤魔化すこともできる。
正直に話すのは恥ずかしい。けれど、でも。
すこしだけ。シュウを気遣いながらも、線の内側へ入ろうとしてくれる彼に、なにかを返したいと思ってしまった。
「……見たんだ、きみが走ってるとこ」
「え?」
ぽつり、雨音に掻き消されそうなくらいの声で告げたそれは、けれどもルカにはきちんと聞こえたようだ。
雨音が世界を閉ざしている。
左肩は相変わらず、雨に晒され続ける。
「前の日に。たまたま、だったけど。図書室の窓から、きみが走るのを見かけて。きれいなフォームで、風を切って走ってるのを見たらさ、気持ち良さそうで。すごいなって。たぶん、感動したんだよね」
「……」
「だから――ルカの顔見て、昨日の、って思ったらつい、びっくりした」
嘘はついていない。すべてを話してもいないけど。
すこしは、彼の気持ちに報いることが出来ただろうか。そう思ってそっと傍らの熱を見下ろせば、彼はひどく嬉しそうな顔をしていた。
心底に嬉しい、ときらきら輝くモルガナイトの瞳。その瞳がまっすぐ、シュウを見つめている。
「俺、走るのが大好きなんだ!」
「――――」
「だから、シュウがそんな風に思ってくれてたなんて、すごく嬉しいよ! ありがとう!」
ルカは満面の笑みでシュウを見つめる。だけには留まらず、あろうことか傘を投げ出して、シュウの身体を抱きしめた。
「! る、ルカ、」
「わはは! すごい嬉しい! ありがとうシュウ〜!」
ざあざあと雨に降られながら、ルカにしっかりと抱きしめられる。制服のシャツ越しでも彼が鍛え抜かれた身体なのだとわかる。雨の中でも、彼の体温は高い。
傍から見れば馬鹿をやってるように見えるだろう。
雨粒が冷たくて、どんどんシャツを濡らしていくのに、ルカとひっついた部分は温かい。雨なのに、お日様の匂いがする。
彼は生きていて、シュウが褒めただけでこんなに喜んでくれる。
その事実が、表情が、シュウのこころのやわいところを揺らす。振り子細工が揺れる。
「苦しいよ、ルカ」
胸が。胸がいっぱいで、苦しい。
「それに僕ら、ずぶ濡れだよ」
「いいじゃん、馬鹿みたいでさ、俺たぶん今日のこと忘れないよ」
そう言って笑ったルカが、シュウを解放した。そうして傘を拾い上げて、自分の濡れた制服を見下ろして「もう意味ないかも」とやっぱり笑った。
雨音が傘を打つ。肩を、雨が濡らしてゆく。
傘の中で、ルカの声だけがシュウの耳を打つ。ルカがシュウに笑いかけてくれる。
甘くシュウのこころをかき乱す、感情。気付かないふりをしていたって、知らんふりをしていたって、シュウの意思を無視して育ったそれは、どろどろと重たく、煮詰まって甘くなっていく。
口に出せない。とても、口に出せない。
それでも口をつきそうになる。
初めての――恋。
厄介だ。
「俺が走るの見ててくれたの、嬉しいよ」
「そう?」
「もっと早く走るからさ! 俺のこと見てて、シュウ」
そう、笑いかけられて。
ああ、もうだめだ、と悟る。
口には出せないけれど。とても、口には出せないけれど。
でも、もう。今までみたいに、ときたま顔を合わせたら二、三言葉を交わすだけじゃ、もう無理だ。完全に、欲が出てしまった。
雨の日が続けばいい。また、勉強を口実に二人で過ごしたい。いっしょに帰りたい。晴れの日にはグラウンドを駆け抜ける彼を見たい。叶うなら、晴れの日だって、いっしょに過ごしたい。
遠くから見つめているだけで、よかったのに。
淡い恋は、夢は、胸をはなれない。
「駅着いたね」
お互いに屋根のある場所へ立つと、ルカが傘を畳んで、雨水を振るい落とした。そうしてお互いに髪も制服もずぶ濡れなのを再度確認して、あんまり馬鹿みたいで笑い合った。
やがてひとしきり笑ったあと、ルカが鞄からタオルを取り出した。
「二枚あるから、それ使って、シュウ」
「いいの?」
「もちろん」
差し出されたタオルを受け取れば、ルカが自分用のタオルで髪をがしがしと拭き始める。シュウも好意に甘えて、タオルで髪をドライしていく。
タオルからルカの匂いがして、胸の奥がざわめいた。
「タオル、洗って返すよ」
口実をひとつ、作る。自然を装って、きみに会う口実。
タオルを返すときにはまた、新しい口実を作らなければいけない。
手放せないと気付いた感情なら、進むしかない。シュウはひっそりと決意する。
厄介で、億劫で、でも、こころはとらわれてしまった。
好きだなんて、まだ言えない。
でも、胸をはなれない。
初めての恋。
2022.06.09