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    46thRain

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    46thRain

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    ――けれど「アイラブユー」は歌える。
    十年間一緒に暮らしているものの付き合ってはいない二人が、愛を与え合う話。
    ※流血・怪我描写有、捏造過多。苦手な方はご注意ください。
    続き① https://poipiku.com/5554068/8495110.html 続き②https://poipiku.com/5554068/8524042.html

    #ロナドラ
    Rona x Dra

    ワルツはもう踊れない仕事着に着替えている最中、テレビに一本のニュースが流れてきた。

    ――昨夜未明、都内マンションの一室で吸血鬼退治人――さんが死亡しているのが発見されました。

    アナウンサーの声にロナルドは思わず振り返ってテレビ画面を観た。被害者の顔写真が大きく映っている。知り合いではない。すぐに映像は現場と思われるマンションの外観に替わった。どこにでもありそうなレンガ色の建物だ。

    ――同僚が自宅を訪問したところ部屋の鍵が開いており、被害者は全ての血を抜かれた状態で、ベッドの上で死亡が確認されました。

    場面が切り替わり、ブルーシートで玄関を囲った部屋の中へ、捜査員たちが続々と入って行く。

    ――死亡推定時刻は一昨日二十時から二十二時の間。被害者の首筋にはナイフの刺し傷があり、その上から吸血鬼の牙跡が残されていたとのことです。警察では吸血鬼による殺人事件と断定し、犯人の行方を追っています。

    吸血鬼に殺された退治人。仕事柄、たしかに一番あり得るリスクだ。しかし、全ての血が抜かれる――。はじめて聞く凄惨な被害にロナルドは眉をひそめた。
    どれほど飢えた吸血鬼だったのだろう。血を飲み干してしまうなんて。いや、そもそも一人の人間の全ての血を飲むなんて、できるのか?
    大概の吸血鬼は週に一度、一〇〇mlも飲めば満たされることを知っている。それに今は吸血鬼向けの市販の人工血液も多く出回っており、都内ならばなおさら入手も簡単だろう。もっともうちに居着いているクソ雑魚な吸血鬼は牛乳で済ませてしまうことも多いが。
    もしかしたら吸血鬼の集団に襲われたのか――、そこまでロナルドが考えたところで、明日の天気予報にニュースは変わった。
    「……ふむ、きっと犯人は被害者と相当親しい者だったんだな。手口的には恐らく、被害者の恋人が吸血鬼だった可能性が高い。刺したのは血を早く搾り取るためだな」
    ソファーでqsqを操作しながらドラルクが言った。どうやら彼もニュースを聞いていたらしい。ロナルドはコートを羽織りクローゼットを閉めながら「なんでそんなこと言い切れるんだよ」と尋ねた。
    「現場が自宅のベッドだからか?」
    「まあ、それもあるが、その答えでは二十点と言ったところだな。ふふん、推理が浅いな若造! いや、五歳児には難しすぎまちたかね?」
    「うるせぇ殺すクソ砂」
    「ギェー! 事後報告! というかゲーム中に殺すなといつも言っとるだろうが! あーっ! 死んだ!」
    「ヌーッ!」
    「はん、ざまぁみろ! ……で、何でだよ?」
    ソファーの後ろに立ったまま、うぞうぞと動く塵の山に聞いた。「刮目すべきは」と塵の山から生えた手が人差し指を一本立てた。
    「全ての血が抜かれている点だ。それも一晩のうちにね。どれほど腹を空かしていても、普通の吸血鬼はそんなに飲まない。だからその点だけでもよほどの執念があったことが窺える。殺したいだけならせいぜい致死量まで飲むか、首筋を噛みちぎって放っておいた方がよほど効率がいいからね」
    「単独犯じゃなくて、吸血鬼の集団に襲われた可能性もあるんじゃねぇの?」
    ドラルクは首を横に振った。ないな、と言い切る。
    「仮に交互に飲んだとしたら後半の者は屍体から血を啜ることになる。死者の血は生者と違い、とても飲めたものではないさ」
    言われてみれば吸血鬼が墓荒らしをしたなんて事件は、歴史上でも聞いたことがなかった。退治人としてロナルドも吸血鬼の歴史や生態は学んでいる。しかし、死者の血が不味いとは初耳だった。
    「え、お前は飲んだことあるの?」
    完全に元の姿に戻ったドラルクはジョンを抱きしめながら「失敬な」とものすごく嫌そうに眉間に皺を寄せた。
    「私がそんなはしたない真似をするものか。……だがまあ、屍体を見たことはあるからね。命が止まるだけで、あれほどそそられなくなるのかと驚いたものだよ」
    ロナルドは内心、ドキリとした。屍体を見たことがある。その理由は語られなかったが、想像は難しくない。ドラルクは二百年を生きる吸血鬼だ。彼の生きた歴史の中には戦争というものも刻まれているだろう。
    「それにも拘らず全ての血を啜ったのは、被害者への執着の表れだね」
    棒切れのように細い脚がソファーの上で組まれる。その足元にはスリッパがなかった。それどころか赤い爪が覗いており、珍しいな、とロナルドは話を聞きながら思った。フローリングは冷えると言って、いつも夏でも履いているのに。靴下を脱いでいるところなんて寝るときしか見たことがない気がする。
    「お前、靴下どうしたの?」
    ドラルクは赤く色付いた爪先をゆらりと揺らして「全部洗濯中だよ。最近パッとしない天気が続いていたから油断してね」と小さくため息を吐いた。
    そういえばここ数日洗濯物を外に干していない。数年前に買い替えたドラム式洗濯機には乾燥機能もついているが、ドラルクは外干しを好んだ。洗濯予約された洗濯物を昼に干すのは、ロナルドに任された数少ない家事だ。
    「そっか。てか、お前らって靴下とか血族とか使い魔は大事って言ってたけど、それ以外の生き物にも執着するんだな」
    「……お前らって、血族と使い魔以外の生き物にも執着するんだな」
    「そりゃあするさ。人間だって恋人や家族に依存する者も多いだろう? より一層執着心が強い吸血鬼がしないわけがない。恋人になったら自分の「もの」だと思うさ。特に古き血の者はね」
    なるほど、とロナルドは頷いた。あいにく自分は経験がないけれど、たしかに人間でも四六時中恋人にべったりだとか、そういう話を聞いたことはある。
    ドラルクが「だからまあ、」と続けた。
    「今回の事件は恐らくだが、退治人の方が別れ話でも切り出したんじゃない? 退治人ってモテる職業でもあるし、引くて数多で目移りしたとか……、ああ、失敬! ロナルド君は退治人だけどモテなかったな!」
    カラカラと笑うドラルクをもう一度殴りつけて殺した。
    「グェーッ!」
    「ヌーッ!!」
    塵に縋り付く悲しげなジョンの悲鳴にだけは申し訳ないと思うものの、大概ドラルクを殺す羽目になるときの原因はドラルクにあるとロナルドは思っている。握り締めた右の拳に砂になったドラルクの粒がいくつかまとわりついていた。早く離れろ、と左手でその砂を塵山に払い落とす。ロナルドはコートの襟を整え直しながら「つまり」と言った。
    「痴情のもつれの殺人事件てことかよ」
    「十中八九そうだと思うよ。それに争った形跡があるともニュースで言ってなかったろう?」
    「あ? そんなん高等吸血鬼なら、魅了で騙して吸えんだろ」
    「まあね。だが致死量の血を吸われても無抵抗でいさせるほどの魅了は、相当強い力が必要だよ。大概は本能的に生命の危機に気付き、途中で魅了がとけるだろうね。そこまでの魅了ができる吸血鬼はそうそういないし……、犯人は被害者のいみなを知っていたと考える方が自然だ」
    ああ――なるほど、それはたしかにあり得そうだとロナルドは納得した。ドラルクが犯人を恋人と考えたのも一理ある。恋人であるなら気を許して、教えてしまった可能性も高いから。
    諱、本当の名前には生き物を縛り付ける力がある。古来から人間も呪いでは相手の諱を使った。人間が執り行うそれらの儀式の効果は必ずあるとは言い難いが――、夜に生きる魔の者、吸血鬼たちの手にかかれば話は別だ。超自然的能力を持つ彼らに諱を知られることは、命を握られることに等しい。だから魔に立ち向かう退治人は活動の際、ハンターネームを名乗っているのだ。
    ロナルドもそうだ。諱を知る者は身内と昔からの付き合いがある者に限られ、ギルドの仲間にさえ打ち明けていない。そうして一緒に暮らすドラルクにも教えたことはなかった。
    ドラルクもまた、ロナルドにそれを聞いてきたことはない。人をおちょくることを生き甲斐にしているみたいなクソ砂野郎ではあるものの、真実としてドラルクの育ちがいいことはロナルドも認めている。父や祖父からの贈り物やら城くらい壊してもいいと甘やかされる規模の大きさもあるが、ドラルクの仕草の節々にもそれは現れていた。
    たとえば座るときのマントの引き寄せ方だとか椅子の引き方、食事を出すときの食器の置き方、飲み物の注ぎ方、飲み方。そういう何気ない仕草の中にはたしかな気品というものが感じられた。
    自分には間違いなく備わっていない性質だ。そのせいかそういう仕草をするドラルクを見たとき、綺麗だな、と思うことがたまにある。本人に言おうものなら調子に乗ることがわかりきっているため口にはしないけれど、品性というのは人の奥深くに宿るものなのだと、ロナルドはドラルクを通して知っていた。
    そういう育ちのいいドラルクだからこそ、踏み越えてはならない一線もマナーとしてわきまえているのだろう。この家の中を本気で家探しすれば、ロナルドの本名が載っている書類はいくつか見つかる。けれどドラルクは家の隅まで掃除してもそれはしない。
    こっそり見ている、こともない。何故なら少し前、ダイニングテーブルの上に本名も記載された契約書類を置き忘れていたことがあるが、それを見たドラルクは『ロナルド君、大事な書類はきちんとしまっておきたまえ。私が諱を見てしまったらどうするんだ』と盛大に顔をしかめたのだ。
    「……諱、か」
    手袋をはめながらぽそりとロナルドが呟く。ロナルドもまた、ドラルクのフルネームは知らない。そもそもドラルクという名が諱なのかさえ確認したこともなかった。
    「キミも気をつけたまえよ」
    ドラルクが振り返らずに静かな声で言った。ああ、頷きながらドラルクの後ろ姿を見た。その表情は見えない。ただ出逢った頃より大分伸びた髪が、電灯の光を反射していた。
    正直なところ、ロナルドは目の前にいるこの吸血鬼にならば――、もう諱を知られても構いやしない、そう思うことがある。退治人と吸血鬼の、奇妙な同居生活はすでに十年を超えていた。
    ドラルク自身に強大な力はないとはいえ、諱を悪用する方法はいくらでもあるとわかっていても、ドラルクなら大丈夫だろうと、一緒に過ごした十年の歳月がそう思わせた。仮にもしもその信頼を裏切られたとしても、自分が信じたのはそういう吸血鬼だった、それだけの話だから。
    そうでなければ、ロナルドもダイニングテーブルに書類を置き忘れはしない。実際、ドラルクに押しかけられたと考えいつでも出て行けと思っていた最初の頃は、大事な書類は事務所の鍵のかかる机に全てしまっていた。今はそこまで徹底はしていない。
    それでも二人の間に十年もの歳月に横たわる暗黙の約束によって、自ら打ち明けることも聞くことも、ないのだけれど。
    帽子以外の身支度を整えると、ロナルドは玄関へ向かった。ドラルクはジョンの胸元の毛を指先でくすぐっている。やわらかな毛が乱れ、ニュンニュンと甘えた声が聞こえた。ここ数年は一匹での外出がずいぶん増えていたけれど、今日のジョンはドラルクとべったり一緒にいたいらしい。その姿の愛らしさに今すぐ動画を撮りたくなったものの、ロナルドはぐっと堪えた。もう、出なくては間に合わない。ブーツを履いた。
    「そんじゃ行ってくるわ」
    「ああ、いってらっしゃい」
    「ヌンッ!」
    一人と一匹の声を背中に受けながら玄関を出た。事務所の出入口でメビヤツから帽子を受け取ると、扉に不在の札を掛ける。今日は下等吸血鬼の巣の撤去の依頼が一件だけだ。殺鬼剤を使うからドラルクは置いてきた。そばにいたら永遠に死に続ける羽目になるだろう。
    ビルの中にブーツの足音が響く。ロナルドは階段を降りながら駆除後のことを考えた。他に事件が起きてなければギルドに寄っていこう。先ほどのニュースも都内の事件とは言え、犯人の吸血鬼がまだ捕まっていないならば、自分たちも警戒を強めた方がいい。そのことを共有しておくべきだと思った。
    『――執着の表れだね』
    ふとドラルクの言葉が脳裏を過った。いったい何を思って、犯人の吸血鬼は血を飲み干したのだろう。己が肉体の礎とする気なのだろうか。はたしてそこに満ち足りた気持ちは、生まれるのか。ロナルドには理解できない。
    外に出ると三月の夜はまだ冷え込み、吐息が白く立ち上った。ハントで動きにくくなるから、もこもこと厚着はしていられない。それでも外気に触れたばかりの今は寒くて、ぶるりとロナルドは体を震わせた。肩をいからせ首を縮めながら、小走りで依頼先へと向かった。

    床下に巣食った吸血白蟻の駆除作業は順調だった。巣にいたものは霧状の殺鬼剤で仕留め、そこから逃れ床下から出てきたものは、ロナルドのハエ叩きがうなる。栄養をふんだんに蓄えているのか、吸血白蟻たちは皆うさぎくらいの大きさがあった。
    不意にロナルドのいる位置とは真逆の床下から吸血白蟻が出て来た。同時に正面からもまた一匹現れる。目の前の吸血白蟻を左手で殴りつけながら、コートの下のホルスターから拳銃を右手で取り出す。パァンッ! 乾いた音が辺りに響く――、けれど吸血白蟻は止まらない。弾が外れたのだ。
    ロナルドはかすかに目を見開いた。狙いを外したのなんて、いったいいつ振りだろう。だがうろたえている場合ではない。遠くに逃げられたら面倒だ。右手に左手を添え、撃った。
    今度は命中した。吸血白蟻は道端でパタリと倒れた。ちょうどその吸血白蟻が最後だったらしく、床下からはもう他に出て来なくなった。
    最後に巣の状況を改めて確認をして、依頼人に駆除の終了を伝える。その間にVRCがやって来て、吸血白蟻を片付けていった。
    依頼人との話が終わると、住宅地の路上にロナルドは一人残された。もう用事もない。ギルドに向かうべきだ。わかっているのに、脚が動かない。代わりのように顔の前で広げた両手を、握って開く、その動作を繰り返した。特段、手に違和感はない。それなのにどうして外したのだろう。いつの間にかなまっていたのか。それとも変な癖でもついたのだろうか。
    先週の退治の相手は吸血白蟻よりよほど速かったけれど、きちんと命中した。……あれ、そう言えばどんな相手だったか。とっさに思い出せなかった。きっとロナ戦締め切りもあったせいで、記憶がごちゃごちゃになっているのだろう。ただでさえ年度末だ。ロナルドも個人事業主である以上、事務仕事にも追われていた。救いはあの愛らしいアルマジロが手伝ってくれることだが。
    (……今度久々に、訓練場行こ)
    そっとため息を夜にとかしながら、ロナルドはとぼとぼと歩き出した。正直、すごく凹んでいる。銃には自信があったのに、一気にその自信が崩れていく。きっとドラルクが同じ立場だったら「まあ大天才の私でもたまには外すこともあるさ。だが次の弾は命中! さっすが私! 畏怖い!」と気にも留めないに違いない。ドラルクのそういう自己肯定感の高さは心底鬱陶しいのだけれども、同時にうらやましさを感じることもあった。

    件の吸血鬼はギルドでも既に話題になっており、情報共有はすぐに終わった。他に退治の依頼が入る気配もなく今日はギルドにも人が揃っていたため、ロナルドはそのまま帰宅をすることにした。
    退治は一件だけだったとはいえ、なかなか巣が大きかった。そのせいか腹が減っていた。今日の夜食は何だろう。見慣れたビルに辿りつくと、事務所の入っている階の窓からはやわらかな明かりが漏れていた。それを確認するのが日課になったのは、いつからだったろう。足取りは無意識のうちに少し早くなり、階段を一段飛ばしで上っていく。ガチャリと事務所の扉を開ければ居住部の方からいい匂いが漂い、メビヤツが「ビビッ!」と鳴いて出迎えてくれた。
    「ただいま、メビヤツ」
    その頭を軽く撫でてから帽子を預ければ嬉しそうにメビヤツは目を細めた。そのままロナルドは居住部に続く扉を開けた。
    「ただいま〜」
    さっきよりも大きな声で言えば、水槽からは渋い声で「おかえり」と聞こえ、キッチンの方からは「おかえり、ロナルド君」「ヌヌヌヌッ!」一人と一匹の声がする。そうすれば退治中いつも無意識に張り詰めている緊張が、ふわっととける。銃を外して憂鬱だった気持ちも軽くなって、ブーツを脱ぐとすぐにキッチンへ向かった。
    あれ、と思ったのはカウンター越しに見えるドラルクの頭の位置が、いつもより妙に低いことだ。流しの下の戸棚でも漁っているのだろうか。ひょいとキッチンに入って「飯なに?」と聞きながら、ロナルドはその答えを知った。
    「オムライスだよ。あとミニバーグとラタトゥイユ。汁物も欲しければ朝食用のコンソメスープも多めに作ったからあるよ」
    ドラルクは脚の細いスツールに座っていた。キャスターがついており、座ったままでも移動できるタイプの物だ。
    「スープも飲みたい。てかその椅子、どうしたんだよ?」
    昨日まではなかった。ドラルクは卵を片手で割りながら「ああ、これ?」と答えた。調理台の上ではジョンが次の卵を持って待っている。
    「マスターから譲ってもらったんだよ。使っていないからよければどうぞ、って。ほら、このキッチンは私には低いからね。ずっと立っていると腰が痛くて死ぬ」
    ロナルドは目をまたたかせた。十年一緒に暮らしているのに、初耳だった。いや、たしかに立ち疲れた、と言って死んだ姿は何度か外で見たことがある。けれど家でもそんなことがあったなんて。
    チラリとキッチンを見る。たしかにロナルドもこのキッチンで作業をするなら、少し身を屈める必要がある。だがそれほど低いと感じたことはなかったが、そもそもロナルドとドラルクではキッチンに立つ時間が違う。ロナルドがキッチンに立つ目的なんて湯を沸かすか、電子レンジを使うか、その二つくらいで滞在時間は十分未満がほとんどだった。
    もっと早く言ってくれればよかったのに。そう口を開きかけたけれど、何だか気恥ずかしくてやめた。代わりに「お前じゃ持って帰れねぇだろ。まさかマスターに運ばせたんじゃないだろうな?」と聞いた。ドラルクはジョンから卵を受け取って「いいや」と首を横に振る。
    「腕の人が運んでくれたよ」
    「お前、サテツをパシってんじゃねぇよ! せめて俺に言えよ!」
    「キミは退治中だったじゃないか。それにちゃんとお礼はしたとも。アップルパイをお裾分けしたら両手を上げて喜んでいたぞ」
    「え、それ俺の分もあるの? 食いたい」
    「ちゃんとロナルド君とジョンの分もあるよ。その殺鬼剤臭い服を脱いで風呂に入ってきたら、デザートに食わせてやる。それ以上近付いたら連続死するからさっさと行け」
    ひらひらと手で追い払う仕草をされ、ロナルドは素直に風呂場へ向かった。料理中は殺さない。これはずっと守られてきた二人のルールだった。

    オムライスはいつも通りふわふわのとろとろで美味しかった。ジョンと二人で顔をほころばせながら食べた。うまいなぁ、と口にすれば、ヌンッ! と返事が返ってくる。はじめこそ素直に言葉になんてしなかったけれど、毎日これほど美味いものを食べていればむしろ言わないことの方が難しい。
    目の前に座るドラルクがふっと目を細めて笑う。穏やかな微笑みだ。一緒には食事を取らないけれど、それでもこういうとき、彼もまたこの時間を楽しんでいてくれるんじゃないかと、ロナルドは思う。そうだといいな、と思う。
    カチリ、口の中で歯にスプーンの触れる音がした。アップルパイももちろん、とても美味しかった。



    日中に訪れた訓練場での射撃結果に、ロナルドは愕然とした。
    左手で撃った結果は百発百中。しかし右手で撃った結果は全て的の中央からぶれていた。それは僅かなずれではあったけれど、もう十年以上、的の中央しか撃ったことのないロナルドにとっては天地がひっくり返りそうなくらい衝撃的だった。
    ただ、左手を添えれば狙い通り撃てることから、拳銃の反動でぶれてしまうのだとわかった。つまり握力が足りていないのだ。
    「ええええ……、そんな急に握力が弱まるってあるのかよ……」
    半べそでがっくりと肩を落とし、一人訓練場でぼやいた。どこか筋を痛めた覚えもない。両利きだがもともとは右利きで、握力測定のときは右手の方が若干強かったくらいなのに。
    グローブをした右手をグーパーで開く。やはりいつも通りに感じる。それなのにどうして。スランプとかいうものなのか。原稿中には何度も経験がある。だが射撃でそんなこと、感じたこともなかったのに。
    「……そうだ、筋トレ、筋トレしよう。ハンドグリップも新しいの買う。もっと力つくやつ」
    ぶつぶつと呟きながら拳銃を片付けると、ロナルドは射撃場を出た。その足でスポーツショップに寄って、ハンドグリップを購入する。ついでにプロテインも買った。ハンドグリップのおすすめを店員に聞いたとき、指立て伏せや懸垂も握力強化には効果的だと教えてもらった。指立て伏せなら家でもできる。懸垂も近くの公園に背の高い鉄棒があるからできる。
    そのままロナルドは公園に向かった。そうしないといけないと思った。背後から何かに追われているみたいにじわじわと焦燥感が募る。不安でしようがないのだ。もしもこのまま、銃が下手になったらどうしよう。いや、まだ拳がある。けれど握力が弱まれば当然、殴ったときの衝撃も小さくなるだろう。自分から退治人の仕事を取り上げたら、はたして何が残るだろう。きっと何も、残らな――。

    『――キミね、謙遜が悪いとは言わないが、行きすぎるとそれはもはや無礼だぞ。誉められたら素直に受け止めろ。そうでなければ誉めた相手を否定しているのと同じだ。キミは充分、賞賛されるに値する美点があるのだから、胸を張りたまえ』

    ふと、思い出したのはドラルクの言葉だった。言われたのはいつだったろう。一緒に暮らして四年とか五年。そのくらいの時期だった気がする。
    切っ掛けは覚えていない。ただ何かに凹んで、俺なんかもう書けないちびた鉛筆、とかそういうことを言っていじけていた。心の底からそう思えて仕方なかった。
    昔から退治人になりたいと思っていた。憧れのためにガムシャラに突き進んで、おかげで拳銃の腕はなかなかのものだと褒められるようになった。名も知られた。けれどいつまでも、自分が憧れた理想には届かない。
    仕方ない、そう囁く自分も頭の中にはいた。だがたとえ追いつけなくても、あの兄の弟でありヴァモネを師に持つ以上、世間にも無様な姿は絶対に見せない。弱いなんて言わせはしない。だから鍛え続けた。
    ただ、それでも思ってしまうときがあった。自分は凡俗で、何一つずば抜けた才能もない――、誰からも特別と思われることも、必要だと思われ、受け入れられることもないのだと。
    あのとき自分がドラルクに何と返したかは覚えていない。覚えているのはドラルクがロナルドの言葉に目をつり上げて怒っていたことだ。だからだろう、普段のドラルクらしくもなく、揶揄も何もない、本音で殴りつけられたのは。
    『いい加減にしろ若造! 何もないと言うならまず鏡を見ろ! キミは自分の顔のよさを自覚しろ! そしてもっと丁寧に扱え! いつもいつも平気で怪我してくるんじゃない! 世界の損失だ! ……何だね、私は吸血鬼だ。大概の吸血鬼は美しいものが好きなのだよ。二百年生きてきた私が言うのだ。キミは間違いなく美しい。……そしてまあ、お人好しすぎるところもロナルド君の美徳だろう。見返りなく他者を慮ることは誰にでもできることではない。その心は尊いものだ。もう少し自分も大事にすべきだとは思うがね。キミが傷付いて悲しむ者もいるのだと、キミはきちんと知るべきだ。それからロナルド君は思ったことがすぐ顔に出るが、それは素直だと言うことだ。人を疑わず、真っ直ぐに受け止められる。そんなキミに救われる人も多くいるだろう。騙されたこともたくさんあるのにそれができるのは、美しく貴重なことだよ』
    あのときは本当にビックリして、何も言葉が出なかった。ドラルクがそんな風に考えていてくれたなんて、はじめて知った。いつもは口を開けば嫌味ばかりで、たまにいいこと言ったと思ってもからかい混じりで、そうでなければドラルク自身を崇めるかなのに。
    ぽかんと口を開けて呆けていた。そんなロナルドを見てドラルクはようやく自分の言ったことに気付いたかのように、顔を真っ赤に染め上げて死んだ。
    その後からだ。ドラルクが開き直ったように、惜しみなくロナルドを誉めるようになったのは。もちろん相変わらず五歳児だの青二才だの馬鹿にされ憎まれ口も叩かれることの方が多いけれど、誉めるときは大っぴらに誉める。それこそドラルク自身やジョンを愛でるように、さも誇らしげに言葉をかけるのだ。
    最初こそむず痒くて、いっそ嫌がらせかと思って殺してもしまったけれど、今では悪い気はしなくなって。だって知っているから。真実としてドラルクがそう思ってくれていることを。あたたかな言葉は花びらが降り積もるみたいに、ロナルドの心の中に少しずつ蓄積されていっている。
    (……大丈夫だ。俺は他にもたくさん持っている。それにそもそも、ちょっと調子が悪いだけかもしれねぇし)
    見上げた空はほのかに橙色が混ざりはじめていた。もう少ししたら、夜になる。そう気付いた途端に脚は公園ではなく、自宅へ向かっていた。

    「……ふわぁ、よく寝た。おはよう、ジョン、ロナルド君……、うわ、キミそれ以上ゴリラになってどうする気なの」
    ドラルクの寝起きの一言はそれだった。ネグリジェ姿で片手でジョンを抱きながら、信じられないものを見るような眼差しでロナルドを見る。フローリングの上で指立て伏せをしながら「うるせぇ」とだけ返した。ぽたた、顔から流れ落ちた汗が床を濡らした。
    「うっわ、フローリングも汗にまみれてる。あとで自分で拭けよ、若造」
    「わかってるよ」
    「そう、ならいいけど……、ねぇ、このソファーの上の器具って、ハンドグリップ、だっけ? 新しく買い換えたの?」
    一瞬ロナルドは口をつぐんだ。つい指立て伏せをする手も止まる。止まった途端にまた汗が勢いよく噴き出して、Tシャツに吸われていく。Tシャツはすでに汗でびしゃびしゃだった。
    「…………昨日の退治のとき、弾を外したんだよ。そんでいろいろ確認したら、どうも握力が弱まったのが原因みたいだったから新しく買った」
    迷った末に結局は打ち明けた。未熟と馬鹿にされるだろうか。それは正直癪なのだけれど、自分の中に抱え込むだけよりはずっと、救われる気がしたのはどうしてだろう。
    「ふぅん、そうか。早く馴染むといいね」
    ロナルドの予想に反して、ドラルクの反応は静かなものだった。馴染む、ハンドグリップのことだろうか。指立て伏せの前に使ったとき、まだまだ力が足りないと感じた。もっとスムーズに、テンポ良く使えるぐらい馴染めばたしかに銃身もぶれないだろう。
    ドラルクは立ち上がるとクローゼットを開け、自分のスーツ一式を左手にまとめた。いつもならその場で着替えるのに、持ってどこに行くのだろう。風呂にでも入るのか? 不思議に思って指立て伏せの間に様子を窺っていると、ドラルクはソファーの上に着替え一式を置きその隣に腰掛けた。どうやら座って着替えたかっただけらしい。ロナルドが視線を床に戻そうとしたとき、ドラルクがハンドグリップを持ち上げた。え、何やってんの、無理じゃね? ロナルドが言うより早くドラルクは左手で握り、案の定死んだ。
    「ブエーッ! まさにゴリラのための道具だ! 握っただけで手がいかれた!」
    「勝手に使って文句言ってんじゃねぇよ!」
    「黙れ! 置きっぱなしにするのが悪い!」
    吼えながらもドラルクはネグリジェ姿に再生していく。体が整うと今度はスーツに着替え出したから、ロナルドも目を逸らした。おっさんの着替えを見る趣味はない。それなのに思わずもう一度見たのは、ちょうどウエストコートを着たところで、ドラルクが何の前触れもなく視界の端でまた砂になったからだ。
    「お前今なんで死んだ!? 死ぬ要素ゼロだったろ!」
    「うるさい! 私くらいになれば痛みを思い出しただけでも死ねるわ!」
    「はぁ!? 威張って言うことじゃねぇし! あーもう! テメェのせいで集中力切れた! 風呂入る!」
    「さっさと入れ汗臭ゴリラが! ギェーッ! せっかく再生しているのに踏みつけていくんじゃない! あと床を拭け!」
    「あとでやる」
    背後でまだドラルクが騒いでいる気がしたけれど、ロナルドは構わずに脱衣所へと向かった。このあとも少ししたら仕事に出かけなくてはいけないから、シャワーだけでいい。汗で湿った服を洗濯機に放り込むと、そのままバスルームでシャワーコックをひねる。一瞬だけ冷たい水を浴びて体が驚く。すぐにあたたかい湯が汗を流していった。
    こうしてシャワーだけで済ませるのは、今みたいにトレーニングしたときとか、とにかくすぐに汚れを落としたいときとかだけだ。それ以外のときは湯船に浸かっている。今ではそれが当たり前だけれど、この家に一人で暮らしていたときは違った。ずっとシャワーだけで済ませていた。変わったのはドラルクが来てからだ。いつだってピカピカの風呂場が帰りを待っているようになった。
    お前、このままだと結婚できないぞ――。以前、一度家に泊まり来たショットに帰り際そう言われたことがある。え、なんで。朝陽の差し込む事務所の出入口で、震える声で聞き返した。本気で意味がわからなかった。いくらモテなくても、いつかは彼女ができることを今も夢見ているのに。ショットだってその夢はわかるだろうに。仲間に裏切られた気持ちでいっぱいになった。
    けれどショットはからかうでもなく、落ち着いた声音で答えた。だってもう、この家独身男の家ではないだろ。おかえり、ごはんできてるよって飯が出てきて、風呂が沸いていて、部屋も綺麗に整えられていて――、これはもう家庭だろ。呆れと羨望混じりにショットは言い切った。
    あのときはひたすら否定をした。ジョンはともかく何であのクソ砂と家庭なんだよ、ふざけんな。いつか自分だってかわいい彼女ができて、そのまま一緒に、一緒に暮らし――、そこまで考えたときに、気が付いた。
    彼女と一緒に暮らしたら――、ドラルクもジョンも、出ていくのだろうか。当たり前だ。どこの世界に恋人との同棲時に、自分の、友人……、仮にドラルクを友人として、友人も一緒に住まわせる人間がいるだろうか。そんな奴はいない。いないけれど、出ていく? すごくもやもやした。
    一人暮らしの立場からすれば、いっそうらやましいけどな。ショットはそう言って帰って行った。一人残されたロナルドは、空気に浮かぶ埃の粒が日差しを浴びてキラキラと光るのを見ながら考えた。
    この生活にもいつか終わりが来るのか? そりゃ、押しかけられた最初の方は、本気ですぐにでも出ていけと思っていた。けど今は、今は、そう思っていない。ドラルクとジョンがいたいだけいればいいし――、いや、いて欲しいと、思っている。
    その感情を何と呼ぶのかはわからなかった。誰に対しても抱いたことのない気持ちで混乱した。ただ、十年経った今は、昔よりも少し見聞も広がったから思うことがある。こんな形の家庭というものがあっても、いいのではないかと。毎日挨拶みたいに罵り合いもするけれど、それを含めて毎日がとても満たされているから。自分の血縁は兄と妹で彼らは家族だが、ドラルクたちとの関係も家族、そう呼んでもいいんじゃないかと、今は思っている。
    一通り髪も躰も洗い終え、着替えて脱衣所から出た。タオルで髪をガシガシと拭きながら一歩リビングに入ると、鼻腔をくすぐるのはいい匂い。夕食にはまだ早いからおやつを作っているのだろうか。やわらかく甘い匂いはおそらく蒸しパンとかマフィンとか、そういうやつだ。
    キッチンを覗けば予想通り、スツールに腰掛けたドラルクが蒸しパンを蒸し器から取り出しているところだった。鍋の高さがあって取りにくいのか地味に苦戦しているようだ。それでも横着して立とうとはしない姿勢に呆れて、ロナルドはそばにあった布巾を二枚掴むと、後ろから蒸し器を取り出してやった。驚いたのか、振り返ったドラルクの耳が少し砂になりかけていた。
    「おら、取りたかったんだろ。つうかもう食っていい?」
    「……いいけど、いや、せめて髪をちゃんと乾かしてこい。そっちが先だ馬鹿造」
    「ヌン」
    ドラルクの膝にいたジョンにまで頷かれてしまったらしようがない。ロナルドはバタバタと洗面所に戻った。ふと視界の端で見えたリビングの床には、もう汗の跡が残っていなかった。どうやらロナルドが掃除するより先に、綺麗にしてくれたらしい。こういうとき、胸のやわらかいところをくすぐられる気持ちになる。あとでお礼を言っておこう。きっとここぞとばかりにドラルクが調子に乗ることはわかっているけれど、十年も経つとたまにはそれも悪くないか、と思えてしまうのだ。



    カタカタとパソコンのキーボードの打刻音が事務所に響いていた。今日は夜も退治の依頼がないから、一日原稿のために予定を組んでいる。しかし、日が高いうちから書きはじめたものの、どうにも筆が乗らない。まだ締め切りまで半月あると思うと、気持ちがふわふわ落ち着かないのだ。
    結局何度も中断しては筋トレしたり、参考に買っていた本を読んだり執筆以外のことでだらだらと時間を使っているうちに日が暮れてきた。
    さすがに半ページ分しか原稿を進めないのは、よくない。昨日の蒸しパンの残りを食べながら、再びキーボードを叩き、最後の一口のときに、ガリッ、と唇を噛んだ。
    「ッてぇ!」
    思わず叫んだ。口の中はさっきまではふわふわで美味しいだけだったのに、血の味がした。がっつき過ぎたか。しょんぼりと肩を落としながらティッシュで傷口をおさえた。
    しばらくして血が止まってから、ロナルドは歯を磨きに洗面所へ向かった。水を口に含むと唇にしみて眉をひそめた。シャコシャコと歯を磨きながら傷口の辺りを見て、ふと歯ブラシを持つ手を止めた。
    「……俺の歯って、こんなんだっけ?」
    なんだかいつもと違う気がした。けれど普段あまり自分の顔も口もまじまじとは見ないから、具体的にどこと言われるとわからなかった。まあ虫歯はなさそうだしいいか、と納得をして歯磨きを再開した。
    口をゆすぎ終えるとまた事務所の椅子に腰掛けて、キーボードを叩いていく。すると段々と筆が乗りはじめた。この波に乗れば次の締め切りは余裕入稿なのではないか――、そう思ったところで、ガチャリ、と居住部のドアが開いた。ドラルクが起きたのだ。
    「おはよう、ロナルド君! スーパー行こう!」
    寝起きからテンション高く、ジョンを頭に誘ってくる。せっかく今乗りはじめたばかりなのに誘いを受ける理由はない。「一人で行ってこい」そう言えば「嫌だよ、牛乳とお醤油買いたいし」即座に否定される。なるほど、ドラルク一人でも持てなくはないかもしれないが、道中疲れて死ぬ可能性が高い。
    「……もう少しあとじゃダメなのかよ」
    「夜食の肉じゃがが腑抜けた味になっていいなら、私は別にいいけど」
    仕方ない。昼にのんびりしていた付けが回って来たのだろう。ため息を吐きながらロナルドは立ち上がった。
    二人と一匹で夜の街に出る。吸血鬼が多いこの街らしく、夜をまとっても街からは賑やかな気配がした。今日は少しあたたかい。このまま一気に春めいてくるのだろうか。寒いよりは暑い方が好きだ。けれどそうなると、コイツが起きている時間も短くなるんだな、とロナルドは隣を歩くドラルクを見た。
    頭に乗るジョンにドラルクは、今日のおやつの相談をしている。ジョンは「ヌヌン!」と嬉しげに鳴く。プリンが食べたいらしい。ロナルドにも異論はなかった。
    「生クリームも乗ってるのがいい」
    「ならプリンアラモードにしようか。余ったフルーツでゼリーも作ろう」
    「ヌンッ」
    愉しげにドラルクが提案すればジョンも喜ぶ。吹き抜けた夜風が伸びたドラルクの髪とマントの裾を揺らした。隠れていた手が街灯の下に照らされて、あれ、とロナルドは首を傾げた。
    「ドラ公、手袋忘れたのかよ?」
    いつもは隠されている赤い爪が街灯を浴びて一瞬だけ輝く。ドラルクは自分の手を一瞬だけ見て「ああ。うん、一回外して忘れていたな」と答えた。
    そうか、とロナルドは頷きながら何だか見慣れない光景だと思った。ドラルクの素手くらい何度も見たことがある。けれど外に出る彼が手袋を取ることはほとんどなかったから、不思議な光景に見えて。
    「ところでロナルド君、魚も買いたいんだけど何が食べたい?」
    「え、あー……、鮭」
    「よし、じゃああとは混ぜごはん用の菜の花と、明日のナポリタン用にウィンナーも買っちゃおう」
    その言葉だけでもう食欲が沸いてくる。明日を想像して楽しみになるなんて、一人のときはほとんどなかった。日々はこなすもので満喫するものではなかったから。けれど今はいっそ歌い出したいような、踊り出したいような、そんな気分で明日を楽しみにできる。きっとドラルクがそばにいる限り、自分の日常に退屈が戻ってくることはないのだともうほとんど確信をしていた。二人と一匹で、スーパーの自動扉を潜った。

    美味しいごはんをたくさん食べて、原稿の続きを少しだけこなして、二時頃にロナルドは横になった。普段外でハントをしているとき散々動き回っているせいか、こういう風に原稿メインの日はよく寝付けないことが多い。今日もやはり同じで、なかなか眠気は訪れなかった。
    隣の事務所からは時折ドラルクとジョンが会話しているのが聞こえる。かすかにゲームの音もするから、一緒に遊んでいるのだろう。目を閉ざしたままその音を聞いていた。すると少しずつ、ようやく眠気がやってきた。明日はケチャップのスパゲッティか。今日買ったバル……、なんとか酢は何に使うんだろう。わからないけど、美味いことは間違いない。アイツの作るものはいつだって美味い。
    カチャリ、そっと扉の開けられる音がした。ほとんどしない足音、これはドラルクの足音だ。ジョンの飲み物でも取りに来たのかもしれない。夢に半分浸りながらそう思った。
    けれどその予想は外れてドラルクはロナルドのすぐ近くに立った。その場に座って、じっとロナルドを見ている気配がした。どうしたのだろう。起きて聞こうと思ったけれど、眠気がもう勝っていた。用があるなら早く起こせよ――、そう思っていると、右手にヒヤリと冷たい感触がした。これは、ドラルクの手、だろうか。
    ドラルクは何も言わない。ただその細過ぎる指でロナルドの右手を撫でていた。手の甲から指先に向かって、優しく、繰り返し撫でる。
    「……キミは本当に、美しいな」
    夜のしじまにとけるような静かな声が落とされ、ロナルドは夢から引き剥がされた。けれど起きることはできなかった。だって、なんて声を掛ければいいんだ?
    いったい、ドラルクは何を思って言ったのか。ちょくちょく褒めてくる、顔面のことをまた言ったのだろうか。でも、なんだか違う気がした。もっと違う何か。だがそれが勘違いだったとしたら、自分はものすごく恥ずかしい奴になってしまう。それはさすがに居た堪れない。
    ロナルドが悶々としているうちに、ドラルクの手が離れていった。扉がまた開き、ドラルクはそのまま事務所へと戻ったのがわかった。もう、完全に起きるタイミングを失った。今からわざわざ事務所で「さっきのどういう意味だよ?」と聞くのはない。だがあんな風に触られたのははじめてで、妙に目が冴えてしまった。
    結局ロナルドが眠れたのは、ほとんど明け方に近い時間だった。浅い睡眠の中で夢を見た。
    ロナルドは拳銃を構えていた。視界は霧に潰されてほとんど見えない。ただ、ロナルドさえ膚で感じるほど強大な吸血鬼の気配を感じていた。白い視界の中、耳を澄ませ、神経を鋭く張り巡らせる――、あそこにいる。
    引き金を弾いた。途端に耳をつんざく叫び声が聞こえた。

    『――ロナルドッ!!』

    ハッとロナルドは目を開けた。心臓がバクバクと激しく脈打っている。夢、だ。それなのに妙にリアリティがあった。パジャマの胸元を握って息を深く吐いた。……嫌な夢だった。せめて敵の姿くらい視認させて欲しいものだ。見えない相手とか、そんなのほとんどお化けとかわりない。お化けは専門外だ。どっかよそへ行ってくれ。
    それに何より―、あれはドラルクの声だった。あんな切羽詰まって、敬称さえつげずに呼ばれたことはほとんどない。そのせいで未だに心臓がざわざわと落ち着かなくて。
    ゆっくりと立ち上がって遮光カーテンを開けた。窓の外では太陽が既に天高く昇っている。中々寝付けなかったとは言え、完全に寝過ぎだった。寝癖のついた髪を掻きながらロナルドはキッチンに向かった。とりあえずドラルクの用意してくれている朝飯を食べよう。何か凹むようなことがあったときは、美味いものを食べると元気になるのだと思い出させてくれたのは、自分では物を食べない吸血鬼だった。



    鶴見川沿いに現れた吸血鬼が人を襲っているとギルドに通報があり、ロナルドはドラルクとサテツと共に現場へ向かっていた。草藪の生い茂る斜面になった土手を駆け降りる。もう被害者は避難できたのか人影は見当たらない。件の吸血鬼も逃げたのだろうか。
    「ロナルド、しらみ潰しに探していくしかなさそうだ」
    サテツの言葉にロナルドは「ああ」と相槌を打った。土手を降りた川沿いには街灯もなく、流れる水の音が足音さえ消してしまう。けれど今夜は月明かりが味方してくれているらしく、幸い見通しはよい。ロナルドはぐるりと辺りを見回した。下流の方、いない。対岸にもいない。上流――、何かいる。
    「サテツ! あそこだ!」
    ロナルドが叫ぶのと、その影が近付いてくるのは同時だった。速い。ロナルドと同じくらいあるにもかかわらず、蜂に似たその下等吸血鬼は素早い動きでこちらに向かってきた。拳を振るう姿勢を取れず、とっさにロナルドは右に避けた。パチャン! 足元の川の水が跳ねる。サテツも想定外の速度だったのだろう。身を低くしてかわしていた。そして二人の後ろにいたドラルクは「わーっ! ドラルクガードッ!」と叫びながら左腕を顔の前にかざした。赤い爪が夜にとけて見える。そして次の瞬間には、案の定体当たりされて死んでいた。ドラルクの頭の上で果敢にも両手を広げて主人を護ろうとしていたジョンが「ヌーッ!!」悲しげに鳴いて塵山にすがりつく。
    あれ――、と思った。どうしてドラルクは、ジョンガードをしなかったのだろう。いや、それが本来正しいことだとは思うけれど。いつもなら――。
    「ロナルド、見失う前に始末つけよう!」
    「っ! ああ!」
    サテツの掛け声にロナルドは思考を切り替えた。あの速さで逃げられたら厄介だ。二人で河原を駆ける。またこちらに向かってくる吸血鬼にロナルドは左の拳を叩きつけた。サテツがそこに追い討ちを掛ければ、件の吸血鬼は動かなくなった。
    「……通報があったのは、コイツだけでいいんだよな?」
    ロナルドが確認をすればサテツが「そう聞いてる」と答えた。
    「んじゃ、VRCに回収してもらうか」
    「俺が電話するよ」
    サンキュー、礼を言いながら退治した吸血鬼を改めて見る。やはり元は蜂だったのではないだろうか。それにしては縞模様が黄色ではなく赤色だが。
    「でもロナルド、よく見えたな」
    電話がなかなか繋がらないのか、スマートホンを耳につけたままサテツが感心したように言った。その言葉の意味がわからず、ロナルドは「何が?」と聞き返した。
    「だってこの辺街灯もないし、今日は新月だから真っ暗だろう。目が慣れるまで何度も転ぶかと思ったよ」
    「…………は?」
    「あ、もしもし。こちら――」
    サテツが連絡事項を伝えて行く。ぎこちなくロナルドは空を見上げた。サテツの言う通り、そこには月などなかった。
    それなのに、どうして自分はこんなによく見えるんだ? そうだ、離れた場所にいたドラルクの爪の色さえ見えた。あれ、そう言えば今日もアイツは手袋をしていない。いったい、どうして――。
    「やあやあ、お疲れ様! 思ったより早く片付いてよかったね!」
    ジョンを頭に乗せたドラルクがカラカラと笑って近付いてきた。いつもなら、お前は何もしてねぇだろう、そう言って一回くらい殺しているところなんだけれど、言葉が出てこなかった。
    「ん? どうしたんだね、ロナルド君。頭でも打ったか?」
    聞きたいことは、あるはずだった。けれど、既に一度「忘れた」とはぐらかされた、、、、、、、ように、どう質問してもドラルクが真実を答えてくれる気がしなかった。この十年、一度でもドラルクが外出のときに手袋をしなかったことなど、見たことがなかったのに。ドラルクガードなんて、聞いたことがないのに。どうしてそんなことを、している?
    「あ、退治人殺しの吸血鬼、見つかったみたいだな」
    電話を終えたサテツがスマートホンを見ながら言った。ハッとしてロナルドは横からサテツのスマートホンに覗き込んだ。ニュースサイトの記事が表示されている。都内退治人殺害事件容疑者の吸血鬼、死亡。大きく見出しが出ていた。

    【――日未明、吸血鬼の塵がまとわりついた衣服が由比ヶ浜で発見。衣服に残っていた塵のDNAは、都内退治人殺害事件の現場に残されていた容疑者のDNAと完全に一致。塵の状態から容疑者の死亡をVRCが断定】

    容疑者死亡、か。もしかしたら、自殺かもしれない、そう思った。吸血鬼は流水を嫌うのに海で見つかったところも、その予感を強めた。そして享楽的に彼らは生きるけれど、そんな彼らが執着した人間を殺したのだ。同じところに逝こうとしたのだとしたら、わからなくはない。たとえどんな理由でも同情はできないけれど。
    次のページにサテツが画面を移動させた。由比ヶ浜の海岸沿いの写真だ。ここが塵の発見現場なのだろう。由比ヶ浜には行ったことがない。海に塵が全て流されなかったことだけは、不幸中の幸いだろうか――、あれ、何か妙な感じを覚えた。
    「神奈川まで逃げてきてたんだな。それにしても……、何だか後味悪い事件だったな」
    サテツの言葉にロナルドは「ああ」と曖昧に頷いた。ドラルクもサテツの隣からスマートホンを覗き込んでいた。けれどすぐにドラルクは興味なさそうに顔を上げて。
    「まぁ、過ぎたことをあれこれ言うのは、司法の仕事じゃないかね。事件解決、警戒体制も解除でよかったじゃないか」
    にこりと笑みを浮かべるドラルクを見て、ロナルドは気が付いた。コイツは今――、笑っていない。どうして見抜けたのかは、わからない。長年一緒にいた勘とかそういうものかもしれない。何故、ドラルクは道化の振りなどしているのか。何かが、おかしい。
    ドラルクが空を見上げた。その瞳がよく見たら深紅の色だと知っている。それが今、月もないのにとてもよく見えた。



    「――仮性吸血鬼化はしていない」
    日中に訪れたVRCで検査後、ヨモツザカに開口一番に言われた言葉にロナルドは「え、」と声を漏らした。
    あれから帰宅して真っ先に疑ったのはそれだった。身に覚えはないが仕事が仕事だし、気付かぬ間に吸血鬼に噛まれて、仮性吸血鬼化してしまったのではないか。予防接種を受けているとはいえ、効果が薄まってしまったのかもしれない。だから夜目がきくようになって、歯が鋭利に――正確には犬歯が鋭くなったのではないかと、思い至ったのに。
    「じゃあ俺が夜目きくようになったのも、犬歯が鋭くなったのも、全部気のせいなのかよ?」
    「愚物が。俺様の話をきちんと聞け。俺様は今【仮性吸血鬼化は】していないと言ったのだ。……貴様は今、ダンピールに近い」
    「……は?」
    数値上は少なともほとんど同じだ、とヨモツザカは言い切った。だがその意味がわからない。
    「……吸血鬼化はともかく、ダンピールに後天的になるってねぇだろ」
    確認するように呟けば、ヨモツザカは「その通りだ」と首を縦に振った。ぎしりと彼の腰掛けた椅子が軋む。
    「下等吸血鬼に噛まれれば仮性吸血鬼、高等吸血鬼に意志を持って噛まれれば吸血鬼になる。……適合があれば、の話だがな。だがダンピールは人間と吸血鬼の間に、子どもとしてしか生まれない。それでも数値上、貴様の今の状態はダンピールに近いのは真実だ。これらの事実を踏まえて考えられる可能性は――、」
    ヨモツザカが言葉を切った。仮面越しにもロナルドをじっと見ているのがわかった。
    「……なんだよ、早く言えよ」
    「貴様、心当たりが本当はあるんじゃないか?」
    「は? どういう意味だよ」
    「まあいい。貴様らのやり取りなどは興味ない。……考えられる可能性は、噛まれる、以外の方法で貴様の中に、極めて濃い吸血鬼の細胞が取り込まれたことだ」
    油が水を弾くように、ヨモツザカの言葉は上手く頭に浸透して来なかった。心当たりなど、何もない。ただ、どう考えてもそんなことができるのは、高等吸血鬼に、間違いなくて。
    「また一週間後に来い。ついでにそれまでに、細胞の取り込み方も聞いてくるんだな。実験がしやすく――」
    ヨモツザカの言葉を最後まで聞かずに、ロナルドは立ち上がってそのまま部屋の外へと飛びだした。無機質な廊下を駆ける。リノリウムの床にスニーカーが擦れる音が響いて、研究員の人が通り過ぎ際に何事かと振り返るが、構っていられない。
    出口に出た。頭上には今にも落ちてきそうな灰色の曇り空が広がっている。ひたすらに走って走って走った。心臓がうるさく鼓動を打つ。耳の横では血潮の巡る音がする。
    (……なんで、どうして、)
    頭の中はその言葉で埋め尽くされていた。
    『――細胞の取り込み方も聞いてくるんだな』
    そうヨモツザカは言った。まるでこんなことをした犯人が誰だかわかっているように。……いや、ロナルドにだってわかる。間違いなく自分の一番近くにいる高等吸血鬼は彼だけで、彼ならばロナルドに気付かれず、何かをすることはきっと可能だろう。
    (……でも、なんのためにだよ…っ!)
    赤に変わりかけた信号を強引に渡れば、車にクラクションを鳴らされた。申し訳ないと思ったものの止まらずに駆け続ける。止まったら頭がおかしくなりそうだった。わからない。いつの間にかここ最近、わからないことがあまりにも増えている。
    仮にドラルクがこんなことしたとして、何が目的なのだろう。俺を同胞にしたかった? そんなこと十年共に暮らして言われたこともない。
    もしもドラルクにロナルドは知り得ない何らかの考えがあって、ロナルドを騙して吸血鬼にするつもりだったとしたら、自分はやはり怒るだろう。どうして話をしないのだと、怒る。
    ドラルクの意思を汲んでやれるかどうかはわからない。それでも真剣に望まれたのならば、同じように真剣に返したい。それなのに一人で決めるのはあまりにも勝手ではないか。
    そもそも噛まれる以外の方法とは何なのか。細胞を取り込んだ? アイツの砂の粒でも飲んだのか? もしかすると毎日殺したり勝手に死んだり、日常の中で砂によくなるから、その粒が体の中に蓄積されていった結果なのだろうか。カニバリズムみたいでぞっとするが、もしもそうなら仕方ないことだと納得はできる。むしろその場合、奪ってしまっているわけで、アイツに何か悪影響がないのか気になる。
    ああ、滅茶苦茶だ。何を信じればいいのか、わからなくなってしまいそうだ。こんなにも頭がぐちゃぐちゃなのは、わからないからだ。だから話さないといけない。決めつけるべきじゃない。きちんとドラルクと、向き合うべきだ。たとえ話を逸らそうとしても、今度は全力で捕まえてやればいい。十年以上新横浜で退治人を名乗っている。ドラルクを逃がすなど万に一つもない。だから話をしたい。だって、この先も自分は彼と、彼らと一緒に生きたいから。
    何から話せばいいだろう? まずは真実、夜目がきくことと、犬歯が尖ったこと、VRCへ行って言われたことだろうか。それから、他に何か違和感はあっただろうか。
    赤信号に差し掛かって今度は足を止めた。いつの間にか痛いくらい拳を握っていた。ああ、そうだ、この右手の握力の低下も違和感と呼べるのかもしれない。けれど能力が向上するならともかく、下がっているのは別の問題だろうか。筋トレをしてから少しはマシになったけれど、まだ左には追いつかない。手のひらを開いて見た。パッと見る限り違和感はない。
    (あれ……、俺の手って、こんなんだったか?)
    何の変哲もない男の手だ。ゴツゴツとして筋張って――、その手のひらに左手で触れて、あ、とロナルドは声を漏らした。
    ぽつり、ぽたぽた、雨が降ってきて、ロナルドの肩を濡らした。すぐに勢いを増したそれはあっという間に世界を雨のヴェールで覆い隠す。ロナルドの銀色の睫毛の先を雨粒が飾って、まばたきと共に落ちて行く。何度それを繰り返しても、右手からなくなったものは戻らない。
    明滅する信号を走って渡った。視界は水煙で靄がかかって見えた。こんな景色を、どこかで見た。水の音はもっと強かった。どこで見たのか――。

    『ロナルドッ!!』

    悲痛なまでの叫び声が脳裏を過ぎる。ドラルクの声、そして――、ああ、思い出せない。単なる夢だから? 違う、理屈なんてない。ただ本能が訴える。この叫びを自分はたしかにこの耳で聞いたのだと教える。
    事務所の入っているビルにたどり着いた。階段を駆け上る。廊下に濡れた足跡が残っていく。事務所の扉に鍵を差し込む。上手く開けられなくて苛々しながら、開いた途端転がるように居住部へ向かった。
    部屋の中は静かなものだった。当たり前だ。まだ昼間でドラルクは眠っている時間なのだから。濡れた体に構わずに、ロナルドは真っ直ぐ窓に向かった。分厚い遮光カーテンを閉ざせば部屋の中は完全なる暗闇に包まれる。それでもやはり部屋の中はよく見えたから、電気をつけずに棺桶を、ノックした。脱稿明けにハイになって起こすときとは大違いの、控えめな音だから起きないかもしれないと思った。けれど棺の中からは「……ロナルド君?」声が聞こえた。
    「蓋、開けろ。……お前と話がしたい」
    一拍の間の後に、棺桶は開かれた。ごとりと蓋が横にずらされて、上半身を起こしたドラルクはちらりと窓に視線を向けてからロナルドを見た。ジョンは枕元で丸くなってまだ眠っていた。
    「ドラ公、勘違いだったら悪い。……あのさ、お前、俺に何かした?」
    「……何かって何さ。起き抜けに不躾だな。というかキミ、びしょ濡れじゃないか。シャワー浴びてきたら?」
    ドラルクはふっと吐息に笑いを混ぜて答えた。肩につく髪を左手で払いながら立ち上がり、どこかへ行こうとする。
    「っ、待てよ」
    ロナルドは咄嗟に手を伸ばした。ドラルクの右手を掴もうとして――、するり、とすり抜けた。え、声がこぼれる。だって今、たしかに手に触れたのに。それなのに陽炎のようにその手は実体がなくて、掴めなかった。
    ドクリ、心臓が大きく脈打った。何か嫌な予感がする。想定していたよりもよくないことが、起こっている気がした。
    けれど真実を明かさなくてはならない。自分はこの吸血鬼と、一緒にいたいから。ごくりと唾を飲み込んで再び右手に触れようとした。やはり、掴めない。ドラルクの手首の辺りまで手を伸ばした。ようやく、ほとんど骨しかない身体を捕まえられた。
    「説明、しろ」
    真っ直ぐな瞳でドラルクを射抜いた。カーテンの向こうでは世界を濡らす音がする。部屋の中は暗く、湿り気を帯びた空気で満ちていた。
    「……バレたか。もう少し、騙せると思ったんだけどねぇ」
    そっと空気を揺らすように、ドラルクが肩をすくめた。ドラルクらしくもない、笑うのを失敗したみたいな歪な笑みが顔には浮かんでいた。
    ドラルクは細く長い息を吐いて自身の口元を左手で隠した。言葉を探すように瞳を伏せて、ロナルド君、夜の似合う声が呼んだ。
    「話をしようか。けど、その前に着替えてもいい?」
    「……手伝う」
    え、とドラルクは驚きの声を上げた。まだ話を聞いていないから、何も仔細は見えない。ただ、こんな風に掴めない手で着替えるのが難しいことはわかるから、そう言った。
    「……じゃあ、お願いしようかな」
    ドラルクが戸惑いながら頷いたのを合図に、ロナルドは掴んでいた手を離して代わりにクローゼットを開けた。ドラルクのドレスシャツをハンガーから外す。その間にドラルクはネグリジェ袖を抜こうとしていた。もぞもぞとネグリジェの中でもがいているのが見ていられなくて、結局脱がせるのも手伝った。
    「……お前、昨日までどうやって着替えてたんだよ」
    ドレスシャツに袖を通させながら尋ねた自分の声は、みっともなく震えていた。けれどドラルクはそれをからかわなかった。
    「ジョンに手伝ってもらったよ。あとはソファーに座って足を代用にしていたからね。そこまで不便ではないさ」
    「……代用って、どういう意味だよ」
    「そのままだよ。一回死んで再生し直すときに、足の分の塵を手に作り替えて代用していたんだよ」
    はじめて触れるドレスシャツのボタンは小さくてとめにくかった。それでもやめる気はなかった。ドラルクは何のことでもないように言うけど、不便じゃないはずがないのだ。胸の中は鉛が沈められたみたいに、重たい。叫び出したい。喚き散らしたい。お前はいったい何をしたんだと、言いたい。
    けれどもそれは目の前の、この男を手伝わないだけの理由にはけしてならないのだ。ずっと一緒に暮らしてきた。この先も、そうしたいと思っている。そんな相手が困っているならば手伝うのは当たり前だ。減らず口を叩くことはあるかもしれないけれど、それはやらない理由になどならない。
    靴下を履かせて、トラウザーズに足を通してベルトを締め、ウエストコートに袖を通す。クラバットを手にしようとしたところで「今はこれでいいよ」とドラルクが止めた。正直、結び方に自信がなかったから、つけたところで不恰好にしてしまっただろう。ああ、手伝いさえままならないのか。
    「こら若造、みっともない表情をするな。せっかくの男前が台無しだぞ」
    ドラルクの左手がロナルドの頬を撫でた。ひんやりとしてさらさらの膚は気持ちいい。そしてこの感触を、自分はついさっき見つけた。
    「ほら、キミもとりあえず着替えて。風邪を引いてしまうよ」
    離れていく手が惜しかった。けれど促されるまま、ロナルドは濡れた服を脱いで適当な私服に着替えた。
    「事務所で話そうか。ジョンを起こしてしまうからね」
    ドラルクの後を追う形でロナルドは玄関を出た。まだ結んでいないドラルクの髪がさらさらと揺れてうなじを隠している。ブラインドを下ろしたままの室内は、居住部と同じように薄暗い。雨はますます強まっているらしく、窓枠を打つ音がした。
    ドラルクは入り口に近い方のソファーに腰掛けた。向かいに座るべきかと思ったが、テーブル分離れる距離が今は嫌で、隣に並んだ。ドラルクは少し意外そうに目をまたたかせたけれど、文句は言わなかった。
    「それで、どうして気付いたの?」
    穏やかな声だった。まるで泣いている子どもの話を聞くみたいな、そういうやわらかい声音。甘えることに慣れているくせに、ドラルクは人を甘やかすのも上手かった。いったい何度、この吸血鬼に許されていると思ったことだろう。口に出せば馬鹿にされるから、言ったことはないけれど。
    「……今日、VRCで検査受けてきた。夜目がきき過ぎたのと、犬歯が尖って違和感があったから」
    「ああ、なるほどねぇ。急ごしらえの処置だったから、そこまでは手が回せてなかったよ。それに噛んだわけではないからね。それほど吸血鬼化するとは思わなかったな」
    深紅の瞳がまじまじとロナルドの口元を見て「ああ、本当にほとんど牙だね」と頷く。
    「ロナルド君には吸血鬼になる素質もあったのかもね」
    「……ドラルク、」
    「うん、全部話すよ」
    そう言うと、ゆっくりとドラルクは語りはじめた。

    今から二週間前、ロナルド君と私とジョンは由比ヶ浜に向かった。そのことは、覚えていないよね。……うん、御祖父様の催眠術で忘れてもらったからね。
    切っ掛けは事務所宛てに直接、血まみれの不審な吸血鬼が海辺にいる、と連絡が入ったことだった。あの辺りは新横浜と違って、そんなに吸血鬼が出ないから退治人も手薄だ。そこでメディアでも名が知られているキミの元に依頼が来たんだろうね。
    二月の夜の海は寒かった。その日は波も高くて、息が白く凍った。おまけに霧も出ていて、散歩している人なんて誰もいなかった。彼女以外はね。
    霧の中現れた彼女は、間違いなく我が同胞、高等吸血鬼だった。ただ、その瞳の焦点はあっておらず、明らかに正気を失っていた。口元から服に至るまで真っ赤に染まっていて、人間の血の香りをふんだんにまとっていた。おまけに手にはナイフも一本持っていた。彼女は愛した人間を吸い殺し、気が触れてしまった哀れな同胞だった。
    ……うん、そうだよ。彼女は例の退治人殺害事件の容疑者、と呼ばれる者だった。まあ、そのときの私たちにそのことは知る由もなかったし、ただ正気を失って攻撃してくる彼女を止めることに、キミは専念していた。
    ナイフをふるう彼女は尋常じゃない速さだった。でも、ナイフだけの相手に怯むキミじゃない。実際、キミはあのまま引き金を引けば勝てたんだ。勝てるはずだった。……彼女が矛先を、私に変えなければね。
    彼女は本当に速くて、またたきの間にロナルド君の後ろにいた私の元まで来ていた。これは死ぬな、と思った。ジョンでも到底、ガードできない。傷付けられてしまう。だから先にジョンを浜辺に投げた。どうせ私が死ぬのはいつものことだし、また復活すればいいだけだ。でもそのとき、ぱしゃり、と革靴を波が濡らした。
    いつの間にか満潮になっていたんだ。さっきまでは乾いた砂浜だったのに、私が立っていたところはもう水が届くようになっていた。波も強く勢いを増していて、足首まで濡らして。さすがの私も慌てた。水の中に塵を放られたら、体が集められなくて生き返られないからね。……その話を以前キミにしたこと、あのときほど悔やんだことはないよ。
    ロナルド君、キミはあのとき、彼女より先に私の前に回り込んだ。君にあともう一秒与えられていれば、きっと結末は違った。ただその一秒がなかったから、彼女が先に叫んだ。彼女の叫びに頭が割れるように痛くなった。超音波の使い手だったのだ。私が死ななかったのは、今死んだら戻れない、その危機感だけ堪えていた。
    ロナルド君もその超音波に拳銃を構えられなかった。それでも彼女は止まらない。ナイフを振りかぶって迫って来る。そうしてキミは――、自分の右腕を盾の代わりにしたんだ。
    『ロナルドッ!!』
    私の叫びは虚しく、次の瞬間には肉を断つ、嫌な音がした。血の匂いが強く潮に混ざって香り、ぼちゃん、波の中に何かが落ちる。彼女は一瞬動きを止めた。新鮮な血に酔ったのだろう。その隙にキミは左手に拳銃を構えて、彼女を撃った。彼女はそのまま、動かなくなったよ。
    『ドラ、公……、大、丈夫、か?』
    青褪めた顔で振り返って、キミは私に聞いた。何を言ってるのかと、思ったよ。大丈夫じゃないのは、どう見てもキミだった。だってキミの右手は――、切り落とされていたのだから。
    私は何も言えなかった。何を言えばいいのかわからなかった。そうしたらそのままキミは失神した。大きな音を立てて波の中に倒れ込むキミを見て、私はハッとしてキミをどうにか浜辺まで引き上げた。ジョンも手伝ってくれたよ。
    マントを裂いて止血しても、キミの血はなかなか止まらなかった。脈のある場所から切り落とされたんだから、当然だね。早く、病院に連れて行かないといけないと思った。連れて行って、血を止めてもらって――、そこまで考えて、そのあとどうなるのか、ということにはじめて思い至った。

    ――退治人ロナルドはこの先、右手を欠けたまま、生きるのか?

    ……思い描けなかった。だって、退治にはどう考えても片手では足りないよね。吸血鬼を捕らえるにも殴るにも、手が一つでは駄目だ。それにキミは作家でもある。片手ではキーボードも打てない。
    何よりもこれから先の未来、キミがいずれ伴侶を選んだら、子どももできるだろう。……片手では、我が子を抱くことも、難しい。
    御祖父様なら、キミの手を戻せるだろうか。まずそれを考えた。けれど、キミの手がこの場に残っているならともかく、流されてしまったものを探すのは無理だ。私の塵さえ海に呑まれてしまえば、御祖父様にも見つけられない。だからくれぐれも気を付けるように、お父様からは幼い頃何度も言われた。ましてや血の繋がりのない人間の手を探すなんてことは、御祖父様にもできなかった。
    だからね、思い付いたんだ。ならば代わりになる手があればいい。ちょうど私にも手が二本あったから、一度死んでから片手分の塵はキミの手として生き返らせた。はじめての試みだったけど、幸い血も止まってひとまず上手くいって安心したよ。
    その後すぐに御祖父様を呼んで、事情を話してから、まずはキミの手の固定をしてもらった。私が死んでも私の元に戻らないように。それから催眠術をキミと私、それぞれにかけてもらった。キミにはこの日の出来事を忘れてもらうように。私には、いや私の体には、いつでも五体満足に見えるようにしてもらった。
    そのあとはさっき少し話した通り、私は死ぬことで手と足を切り替えて日々を過ごした。ただ、服までは再現できなくてね。片方だけしか靴下を履いていないとか手袋をしていないように見える、なんてみっともない真似になるから、つけなくなった。
    キミの手も、なるべく本来の物と同じように作ったつもりだったけれど、握力が弱くなったと言うことは量が足りなかったのかもしれないね、ごめんね。
    でも、時間が経てばもっと馴染むから、もう少し待ってくれないか――。

    そこまで話すと、ドラルクは細く息を吐いた。ロナルドは何も、言えなかった。言葉に、ならない。頭がぐらぐらする。理解が追いつかない。話を聞いても、いや、聞いたからこそますます訳がわからない。何を、ドラルクはしたんだ。なんで、なんで、どうして!
    わななく唇を開くと、ぼろぼろと涙があふれ出た。そうしたらもう駄目だ。ロナルドはたがが外れたみたいに、声を上げて泣いていた。
    「うわぁあああ…ッ! うっ、あ…ッ、んで、なんで、勝手に…っ、なんでかってにっ! そんなことするんだよ! なん、で…ッ!」
    隣に座るドラルクの肩を両手で掴んだ。衝動に任せ力を入れすぎて、ドラルクの肩がさらさらと砂になって崩れていく。細い肩を握る自分の右手は、彼の物だったのだ。見た目は精巧に似せられている。けれど手のひらの感触が違った。長年銃を握ってできた肉刺がない、さらりとやわらかな、それこそドラルクの手の感触だった。そうして元通り身体を蘇らせる塵は今、ロナルドの右手にも懐くようにまとわりついた。ロナルドは泣きながら、肩にこすりつけるようにして塵を戻した。
    涙でにじむ視界はドラルクの輪郭をぼやけさせた。ただ彼は秘密がバレたと気付いたときも今も、夜に落ちる影のように落ち着いている。
    ドラルクの左手がそっとロナルドの頬に触れた。
    「目玉がとろけてしまうよ、せっかくの美しい瞳が台無しだ」
    慰めるようにドラルクが優しく言う。でも、泣き止めるわけがない。「なんで、」しゃっくり混じりの濁った汚い声で繰り返し聞いた。
    そうすればドラルクは、唇に綺麗な弧を描いて。
    「ふふっ、そんなの決まっているじゃないか! 私は君を、愛しているからね!」
    何の恥ずかしげもなくドラルクは言い切った。そのことがまるで誇りであるように胸を張って深紅の瞳を輝かせて。どうしてそんな顔をできるのか、わからない。自分の躰の一部を奪われても、なぜ言えるのか。わからない。
    打ち明けられたことにより催眠がとけたのか、ドラルクの右手はもう、ロナルドには見えなかった。ドレスシャツの袖が哀しげに揺れる。同時に思い出した。あの日のことを。
    厄介な敵だと思った。そうして、ドラルクを狙われた瞬間――、とても、怖かった。今ドラルクが死んだら、二度と戻って来ないかもしれない。心臓に冷水でも流されたみたいに恐怖が全身を駆け巡って、考える間もなくドラルクの前に飛び出していた。
    もしかしたらドラルクは自分のせいで、ロナルドの手が失われたと思っているのかもしれない。だが違う。あの瞬間、ロナルドは思ったのだ。この先ドラルクが生き返らなくなるくらいなら――、片手くらい、くれてやってもいいと。それなのに――。
    「ロナルド君、キミは何も気にすることはないよ。だいたいその手も、キミにあげたわけじゃない。貸しているだけだ。キミが死ぬときには私の元に帰ってくる」
    「ッでも! 俺が生ぎでる間はっ、ずっとないん、だろッ! なんで平気なんだよっ!」
    「私からしてみれば、ほんのまばたきをする間だよ。……でもその短い間に、欠けたキミは見たくなかった。ロナルド君はもう三十歳もとうに過ぎたけど、未だにゴリラだし5歳児だし、センスは悪いし締まりもないけど、本当に美しい。その姿もその中身も、ね。……だから許される限りの時間、私は最後まで退治人ロナルドとして生きるキミを見届けたいと思っていた」
    涙は止まらない。ドラルクの手はやわらかくロナルドの頬を撫で続ける。その優しい触れ方がますます涙腺を壊した。泣き過ぎて鼻の奥が痛い。鼻水まで出てきている。でも、止まらない。
    ドラルクは指先でロナルドの涙をすくって、言った。
    「私には、私の愛した美しいキミが欠けているなんて、我慢ならないんだよ。……だからロナルド君、これは私のエゴなんだ」
    息が詰まった。言葉にはできない感情で胸がいっぱいになった。
    気が付いたときには震える手で、目の前のドラルクの体を胸の中に引き寄せていた。抱きしめるのははじめてではない。転びそうになったところを受け止めたり、面白半分で二人で手を取って踊ったときに腰を掴んだり、ドラルクが何かから逃げて飛びつかれたり、十年も一緒に暮らしていればそういう経験はあった。けれどこんな風に、抱き締めたいと思って抱き締めたのは、はじめてだった。
    薄くて細い体は力を入れればすぐにでも折れてしまいそうだった。生きているのかわからないくらい体温は低くて、それでも彼はたしかに生きてくれていて。そのことに胸が張り裂けそうなくらい、感情が暴れている。
    「……でっかい子どもだなぁ」
    呆れた風にぼやきながらも、ドラルクの手がロナルドの背中に回された。細い腕が絡まって、どうしようもなく存在を実感した。
    愛という言葉は、もっと肉感的なものだと思っていた。けれど違った。相手を想い与える、それが愛だと言うならば、右手をかざした時点で……、いや、ずっと共に過ごしたいと望み、望まれたいと願った時点で――、自分もとうに、この吸血鬼を愛していたのだ。
    「ひっ、く…っ、俺お前を…っ、愛、してる…!」
    「うんうん、そうか。そろそろ鼻をかみなよ。ほら、ティッシュ」
    ドラルクの左手が離れて、ローテーブルに置かれていたティッシュを寄越してくる。ぜんぜんわかってない、涙まじりに言って顔を覗き込めばドラルクは眉を下げて笑っていた。ああ、そんな表情を見せないで欲しい。許されて、受け入れられて、愛されているのがわかってしまうから。
    そっと体を離してから、ティッシュで鼻をかんだ。涙はようやく落ち着いてきた。けれど泣き過ぎたせいで頭の芯が痺れるみたいにぼんやりする。
    この吸血鬼に、自分は何を返せるだろう。いや、返すのではない。応えたいのだ。与えられる前から思っていた。ずっと共にいたいと。同じであればいいと望んだ。肉欲の伴わないそれを恋とか愛とかは思わなかったけれど、それは違った。この胸にあふれる気持ちはたしかな「愛」だ。
    元に戻せと言っても、コイツは承知しないだろう。いくらロナルドが覚悟の上だと訴えても、受け流してしまう。それもわかっている。俺だって欠けたお前を見るのは嫌なのに。でも、それなら欠けた分だけ、いや、それ以上に俺が補えばいい。鬱陶しがられるくらいまとわりついて、お前の手にも足にも、心臓にだってなってやる。
    だから今、単なる同情で俺が愛を語っていると思い込んでいるお前に、教えてやろう。俺の本気を――。ロナルドは息を深く吸った。
    「ドラルクッ! 今からお前に俺の諱を教える!」
    大声にドラルクの耳の辺りが一瞬砂になった。ドラルクは目を限界まで見開いて、次の瞬間には怒鳴り返してきた。
    「何を言っとるんだ! この馬鹿ルドがッ! 高等吸血鬼に諱を教える意味がわからないのか!?」
    「わかってるから教えるんだよっ! お前にならっ、お前には教えたかったんだ! 前からずっと!」
    「わー! わー! 聞こえない! なにも私は聞こえない!!」
    「テメェ! 耳塞いでるんじゃねぇ!」
    ぎゃあぎゃあと二人ソファーの上で騒いだ。けれど力技になれば最初から勝負は見えていた。体勢を崩したドラルクを下敷きにして抑え込んだ。ドラルクは砂になって死んだ。しかし砂のままでは耳も塞げないのか、いつも以上に早くドラルクは再生した。今度はシャツから覗いた両手で耳を塞いでいる。まだ抵抗する気らしい。
    「クソ砂! 大人しく聞け!!」
    「黙れ若造! 誰もそんなもん聞いてないわ! 未来の伴侶にでもくれてやれ!」
    「もう現れねぇよそんな奴! 俺はとっくの昔にお前とずっと暮らすって決めてんだよ!!」
    は、とドラルクが呆けた声を上げた隙に、耳を塞ぐ手を顔の横に縫い付けた。殺さないように、でも逃げられない力で閉じ込めていると、ドラルクの顔が赤らむのが見えて。
    あれ、なんだ――、今、はじめて気が付いてしまった。自分のこの愛にもちゃんと、肉欲は伴っていたのだ。だってそうでなければ目の前のこの男を、可愛いなんて、思うはずがない。
    ほとんど噛みつくようにドラルクの唇に口付けた。びくっとドラルクは身を跳ねさせた。でも、驚き過ぎて死ぬこともできないのか、やわらかい唇の感触は消えなかった。
    ロナルドは唇を離すと、声高らかに言い放った。
    「よく聞けドラルク! 俺の名前は――!」
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    46thRain

    DONE退治人を引退し転化予定の八月六日のロナドラSS①です。
    ソファ棺開催、そしてロナくんお誕生日おめでとうございます!
    ②(https://poipiku.com/5554068/9163556.html)
    転化前50代の8月6日「――君を転化する日だが、明後日の八日でもいいかね」
    デザートのプリンを食べ始めたところで唐突に言われたものだから、ロナルドは危うくプリンをテーブルにこぼすところだった。スプーンから落ちかけたそれを慌てて口に運んで味わう。いつも通りうまい。ごくりと飲み込んでから、八日ねぇ、と頭の中で呟く。
    転化自体は異論ない。むしろ結婚してから二十年がかりでやっっとドラルクを説得したのはロナルドのほうだ。
    つい先月退治人も円満に引退したし、そろそろ本格的に決行日を定める必要もあると思っていた。ただ気になったのは、ドラルクがわざわざ八日を指定したことだ。
    「構わねぇけど……なんで誕生日に?」
    明後日の八日はロナルドの誕生日だった。独りだった頃はただ事実として歳を重ねる日に過ぎず、忘れていることも多々あったがドラルクが来てからは違う。毎年あれこれと計画して祝ってくれるものだから、いつの間にかその日が近付くとそわそわと楽しみになっていた。それこそもう還暦を迎える今なお。
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