恋をする二人に恋をした――ああ、こんな時間だ。
昼間に出かけた中央の国の市場で見つけた古い時計を、つい夢中になって弄っていた。ヒースクリフは工具を丁寧にしまい、固まった身体を伸ばす。ふうと一息つくと喉が渇きを訴え、寝る前に水でも飲んでこようと部屋を出た。
階段を降りてキッチンに向かう。今夜の魔法舎は建物自体が眠りについたように静かだ。息苦しくない静寂は不思議な緊張感があり、ヒースクリフが足音をさせないよう歩いていると、廊下にぼんやりと灯りが漏れている。どうやらキッチンに誰かがいるようだ。明日の朝食の準備にネロが残っているのかな、と足を進めると、何やら話し声も聞こえてくる。誰かと一緒にいるのか、どうしよう、そもそもネロじゃないかもしれない。急にまごついた心は引き返すべきかと考え始めたけど、しかし聞き覚えのある声がヒースクリフをその場に留まらせた。
「ふふ、かわいいね」
――ファウスト先生?
気配を消す魔法をそっとかけ、ヒースクリフはキッチンの入り口に近づいた。小さなランプがぽつんと灯る夜の片隅で、ネロとファウストがテーブルに向かい合って座っていた。ワイングラスと、あれはボトルだろうか。時々一緒に飲むのだと言っていたから、今がちょうどその最中なのだろう。
ヒースクリフの立っている場所からはネロは背を向けていて表情をうかがうことはできないが、ファウストの顔はよく見えた。穏やかな笑みを浮かべたかと思えば眉間に皺を寄せ、また目尻をとろりと下げる。くるくると軽やかに変わる表情は、時折口元を隠して控えめな笑い声をあげている。
ほう、とヒースクリフは見惚れたように息を吐いた。
ネロが東の魔法使いとして召喚され、共に魔法舎での生活を送るようになってから、ファウストはよく笑ってくれるようになったとヒースクリフは思う。前回の厄災退治では、ファウストの纏う空気というのはいっそ北の国のように鋭く冷たいと感じたことは少なくなかった。冗談を言ったりからかったり。そんな姿が珍しいものでなくなったのは、いつからだろう。
自分を庇って重傷を負い、一時はもう助からないというところまできた。思い返せば、ずっとそうだった。ファウストは言葉こそ辛辣で冷たい態度を取ってはいたけれど、いつもヒースクリフを守ってくれていた。目に見える害悪からも、目に見えぬ悪意からも。決して大きくはないその身体で、何度も、何度も。
東の魔法使いも二人が石になり、ファウストも傷ついて。俺だけじゃもうだめだ、と絶望しかけたところに現れたのが、このネロ・ターナーという魔法使いだった。
ネロは、ファウストがヒースクリフにしたように、ファウストの前に立ち身を挺して守ることはしない。
ただ、隣に並ぶ。
そこは元々自分の定位置ですが何か?という顔をして、恩着せがましくなく。かといってわざとらしくもなく。夕暮れ時に鳥が巣へ戻る、そんな当然のことのようにファウストと並び立つ。
常に前を見続けるファウストがたった一人で立ち続けてきた場所で、ネロはファウストを独りにさせないでくれた。
東の村で儀式を行った時のことを思い返す。怪魚に襲われ、ぼろぼろだった自分達の元に駆け付けてくれた、背中合わせて立ちはだかる二人の後ろ姿を。
きっと以前ならファウストが独りだった。でも今は違う。隣にネロがいてくれる。
あの光景は、ヒースクリフの心に切ないまでの安堵をもたらしたのだった。
もう大丈夫なんだ、と。
……とは言え、ちょっぴり落ち込んだのも事実で。ネロより自分の方がファウストと過ごした時間は長いのにな、なんて嫉妬心が芽生えたりもした。でもそんなことを考えても仕方ないし、何よりヒースクリフはネロのことも大好きだった。兄がいたらこうなのかもしれない、と想像してみたこともある。冗談を言ったりからかったりするのは大抵ネロが大元で、少しずつファウストがそれを学習していった気配がある(勿論ヒースクリフも)。年長者らしい風格で時にファウストを諫め、ヒースクリフを導き、シノを諭す。東の国は豊かな水が循環する美しい国だ。まるで循環する水のように、ネロの存在は東の魔法使い達の隙間をゆるやかに繋いでくれる。
きっと、ヒースクリフの知らないところでネロとファウストは互いに言葉を重ねていったのだろう。重ねた言葉は親しみになり、信頼になり、かけがえのないものへと昇華していった。
そして最近、ヒースクリフは二人の間にはとくべつな感情があるのでは、と感じることがある。
自分の両親が互いを見つめる目に、きらきらと虹色にひかる煌めきが宿っていた。同じひかりが、ネロとファウスト、互いを見つめる二人のまなざしにも宿っている。
パーツ同士がぴったりと組み合わさるような、清々しくもくすぐったい喜び。一緒にいるネロとファウストを見ていると、ヒースクリフの心にはそんな感情が花を咲かせる。
この空間を邪魔したくない。そっと立ち去ろうとすると、ぱちりとファウストと目が合ってしまった。
「……ヒース?こんな時間にどうしたの」
「ん?腹でも減って眠れないか?」
ファウストの言葉にネロも振り向く。何か飲もうと思って。もじもじしながら答えるヒースクリフに、大人達はいつもより柔らかい笑みを向けている。
「ちょうど茶を淹れようと思ってたんだ、ヒースも飲んでいけよ」
こっち座りな、と手招きをしたネロが隣の椅子を引いて立ち上がる。茶葉はどれにするの、と当然のようにファウストも立ち上がり、コンロ前に立つネロの隣に並ぶ。
――ああ、やっぱり。
何もない穏やかな瞬間にも寄り添って並び立つ二人。互いへ向けるまなざしのきらめきが、ほの暗いキッチンで星のように瞬く。
魔法舎で時を重ねる二人からは淡い春のような気配がする。勧められた椅子に腰かけたヒースクリフは、思春期の少女のように頬を染めて二人の後ろ姿を眺めていた。