越えた先に退路なしファウストが自分に対し恋心を抱いている、ということに、ネロは勘付いていた。何故ならネロはもっと前からファウストに恋心を抱いていたからである。しかしネロは負け戦をしたくない。勝ち戦であることを確定させてから、よっこいせと本領発揮をする。狡いと言えばそうだが、心のやり取りには人一倍臆病で怖がりな自分が首をもたげてしまうのだ。
だから、先日は酒の力を借りて発破をかけた。徐々に見せる隙を増やしていっても、いつまでも何もしてこないファウストに焦れてしまったというのもある。結果としては大成功であったわけだが、ここしばらく、ネロはファウストから絶妙に避けられている。
今までは事ある毎にかわいい、と目尻を下げて可愛がってくれたのに、それがとんと途絶えてしまった。晩酌のお誘いも無い。訓練や依頼は通常通りこなすものの、絶対に二人きりにならないようさりげなく采配している。かつてのネロであれば、出会った頃の距離感に戻っただけでこの状態こそが普通だ、と煩わしそうに吐き捨てたであろう。魔法舎で暮らし始めてから、ネロも変わった。それも多分、いい意味で。
賑やかさが落ち着いた昼過ぎ。ファウストが猫のおやつを取りに来る時間帯を狙って待ち伏せを決行した。台所番は魔法舎全員の生活パターンや予定を否が応でも把握出来る。避けていることがバレている自覚があろうファウストは、誰よりも他人との距離感を慮るネロがこのタイミングでキッチンに現れるわけがない、と考えたはずで、普段のネロであればきっとその通りだった。
「ファウスト」
キッチンに現れたファウストに背後から呼びかけると、びっくりした猫よろしく飛び上がった。そんなにびびらなくても、とちょっぴり落ち込んだのは秘密だ。がばりと勢いよく振り返ったファウストはどうして、といっそ絶望さえ滲ませた表情をしている。
「な、なん」
「俺がこの時間にキッチンにいたらおかしい?」
「いや、そんなことは」
ちら、とキッチン全体にファウストが視線を巡らせる。恐らく逃げ道を探しているのだろう。ファウストが入ってきた入り口にはネロが寄りかかるように立っており、残念ながらネロを避けてキッチンから退避することは不可能に近い。それでも往生際悪く突破口を探しているファウストを一瞥し、ネロは寄りかかっていた壁から背を離した。エプロンのポケットから手を抜いてファウストの方へと一歩踏み出す。するとファウストは同じだけ後退る。一歩、二歩、三歩。
「そ、それ以上近づくな」
「じゃあファウストがこっち来てくれる?」
「む……無理」
「なんで」
「なんでも、……止まれそれ以上近付くなこっちに来るなあっちに行け」
「あー、聞こえないな」
じりじりと距離を詰められ、遂にファウストはキッチンの片隅に追いやられてしまった。どれだけ後退りしたくとも、壁はそこから動いてくれない。こつん、踵が壁に当たる空しい音が響いた。
視線をうろうろと彷徨わせ、頑なにネロと合わせまいとする意地すら可愛く見えてしまうのだから恋というやつは恐ろしいものだと思う。けれど、やはり避けられるのは寂しいのだとネロの心は正直に軋む。
「ファウスト、こっち向いて」
取って食ったりしないから、大丈夫だから。
こちらを見てほしいのは本当だけど、本当に嫌ならばさせたくない。出来ればファウストの意思でネロをその美しい紫に映してほしい。切実な響きを底に沈め、ネロは努めて優しく囁いた。
「……」
ゆっくり、本当にゆっくりとファウストはネロの方に顔を向ける。急かしてはいけない。料理と同じだ。どれだけ甘美な香りがしてきても、オーブンを開いてはいけない時がある。我慢の先に極上があることをネロは知っている。
「…………」
ぱちり。視線が交わると星が弾けたような煌めきが世界に舞う。困ったように下がった眉、色づいた眦、潤んで宝石が零れ落ちてきそうな瞳、はく、と酸素を求めて薄く開いた唇。
ファウストという魔法使いを構成するパーツの、そのどれもがネロを惹き付けて離さない。あぁやっと見てくれたと嬉しさにネロが破顔したと同時。
「えっ、ファウスト?」
腰が抜けたようにファウストはその場にへなへなとへたり込んでしまった。後を追うようにしゃがんで顔を合わせると、うう、と蚊の鳴くような唸り声を上げている。
「なに、どしたの」
「……そ、」
「ん?」
「…………そんな、僕が好きで堪らないみたいな目で見ないでくれ…………」
耐えられない、無理、心臓が爆発する。
両手で顔を覆ってしまったファウストを、ネロは呆気にとられて見つめた。白い手袋の隙間から覗く真っ赤な耳と、今しがた告げられた言葉の意味を咀嚼して、飲み込む。
──そういうこと?
愛でることに特化し、愛でられることに耐性がまるで無かったファウストは、あの日を境に惜しみなく注がれるようになったネロの恋情でいとも容易くキャパシティーオーバーを迎えたらしい。隠そうともしない甘さを乗せた眼差しが向けられる度に走って逃げだしたい気持ちになり、事実逃げていたというわけだ。
嫌われたわけではなかったと安心したし、拍子抜けもした。それ以上に、湧きあがる感情が一気に洪水となって身体中を駆け抜ける。ネロは膝に乗せた腕で頬杖をつき、ゆるゆると表情を綻ばせた。
「やだ。好きだもん」
「……その顔を止めろと言っている」
「ファウストが慣れるまで見ててやるよ」
空いた手でファウストの顔を隠す両手を取ると、今度は存外すぐにネロと目を合わせた。羞恥を飲み下してきりりと吊り上げられた目は、迫力も何もあったもんじゃない。
「かわいい、ファウスト」
我ながらこんなに甘い声が出るのかと胸焼けがしそうだ。散々言われ続けた言葉をお返しすれば、ファウストはぼん、と音が立つくらい更に赤面し、立てた膝に顔を埋めてうーうー唸り始めた。次に顔を上げてくれるのはいつだろう、せめておやつの時間までには上げてくれるといいなと思いながら、ネロは飽きもせずファウストを見つめ続けた。