可愛さ余って可愛さ百倍『全く……可愛くない奴だな』
午前の座学で返却された筆記試験結果は期待通りの結果で。年寄りだから記憶力が低下しちまって、と適当な言い訳をして誤魔化すネロに、ファウストは呆れながらそう零した。
その後の記憶はあまりない。
昼食を振舞い、おこちゃま達のおやつをこさえ、夕食の仕込みも提供も済ませたのだろう。洗い物も綺麗に伏せられているあたり、沁みついた習慣が正常に働いてくれたようで何よりだ。一息ついてようやく戻ってきたらしい思考を、ネロはぐるんぐるんとミキサーのように回していた。
可愛くない。……可愛くない、ってどういう意味だ?言葉のままだよな。
いや、別に可愛いと言われることが嬉しいわけじゃない、と、思う。うん。そんなはずはない。だって俺六百年生きてる年寄りだし。ただ、ファウストが可愛いって言ってくれるのは、まぁやぶさかではないな、とか。俺が可愛いとファウストは嬉しいのかな、とか。……ファウストは間違ったことを言う人ではないから、やっぱり俺って可愛いんだろうか、とか。
ぺしょりとキッチンのテーブルに突っ伏していると、良く知った足音が近付いてくる。ネロよりも少し歩幅の狭さを感じる、静かで流れるような音。
「ネロ?丁度良かった、少し湯を……何。どうしたの」
入り口から顔を覗かせたファウストは、見事なくの字を描いて座るネロを目にするとぎょっとしたように歩み寄ってきた。足音がすぐ傍で止まったのを感じ、ああ今手を伸ばせば届く距離にいるんだろうなとネロはぼんやり思う。
「なんでもない……」
「なんでもなくないだろう。茸でも生やしそうなくらいじめじめして」
「生えたらアヒージョに入れて食うから収穫しといて……」
「ネロ!」
言い訳も、冗談も通用しない。その双眸はいつだって物事の真実を見抜く色をしている。
「……どうしたの。僕には言えないこと?」
こてん、と顔を傾けると、思った通りファウストはネロの手の届くすぐ傍に立っていた。顔にかかった髪をするりと耳にかけ、露わになった頬を撫でてくれる手は確かな心配の念が込められている。心をざわつかせた要因に反して優しい手付きのちぐはぐさに、なんだかなぁと長い溜息を零したくなる。
あんたのせいだよ、なんて言えない。
可愛くない、って言われたのが、なんかショックでした、なんて。
「……なんでもないってば」
どうにかやり過ごしたくて口を出た言葉は素っ気なさの棘まみれで、露呈した自分の子供っぽさに辟易する。老成したつもりでいるのに、どうしてか、この人の前ではとうの昔に置いてきた青い部分が出てきてしまって困る。
そう、とファウストが手を離したので、このまま立ち去ってくれないかと願ったけれど。
「ならもう少し、何でもなさそうに振舞えば」
「いててててててて痛い痛いファウストいたい」
ぎゅう、と容赦なく頬をつねられた。華奢な指のどこにそんな力があるのかと思うくらい、それはそれは容赦なく。ほっぺ取れちゃうとこだった、と涙目で頬をさするネロをファウストは無言でじっとりと見下ろしている。威圧感は無く、どうして話してくれないの、と拗ねるように訴えている。拗ねているのはネロの方なのに。
これはもう、観念するしかなさそうだ。ネロは羞恥をぐ、と何度かに分けて飲み込み、再びぶり返す前にと視線をテーブルに向けてファウストから逸らした。
「………………ない、って」
「ん?」
「…………かわいくない、って、言ったじゃん…………」
ファウストはぱち、と瞬き、じわじわと眦をやわらかく優しく滲ませた。見なくても分かる。ファウストは今、ネロを可愛くて仕方ないという目で見ているに違いなかったし、事実その通りだった。だから見ない。見たら溶けてしまう。
「気にしていたの」
ふふ、と零れ落ちた笑いが形をとったら、きっと甘い綿菓子になるだろう。淡い桃色で、柔らかくて、ひとくち食べたら甘さが口の中にずっと残り続けるような。
「可愛いって言い続けた甲斐があったのかな」
ごめんねと機嫌をとるように喉元を擽られる。飲み込みきれなくなった羞恥に首まで真っ赤に染めたネロは、段々と視界が狭くなってきた。テーブルについた耳越しにど、ど、と心臓が波打つ音が脳に響いて頭まで熱くなってくる。今すぐミスラにアルシムしてほしい。
「……やっぱりさっきのナシで……」
「落ち込ませた分、もっと言ってあげる」
「俺の話聞いてる……?」
「遠慮しなくていいよ。遠慮するネロも可愛いけど」
「いや、それは関係ないんじゃ」
「少しむくれたネロも可愛かった」
「やめて……」
「照れるとそうして顔を隠そうとするのも可愛いし、結局隠せないのも可愛い」
「うぅ…………」
恥ずかしい、嬉しい。いたたまれない、…嬉しい。二百も年下の魔法使いにころころ転がされている自分が情けない、……でもやっぱり嬉しい。
認めざるをえない。ファウストに可愛がられるのが嬉しい、ということに。気付いているようで気付かないふりをしてきて、じりじりと蓋が開きそうで開かないようにしてきた感情の檻が解き放たれて、ネロは降参です、俺の負け、と白旗を揚げた。
とりあえず、明日の朝食が甘めの食事ばかりになることを避けねばならない。