マスカレイド・ナイト革靴とスーツを脱ぎ捨てて、ビジネスバッグを乱暴に床に放る。
下地を塗り、ファンデーションは薄付けに。
ビューラーで睫毛を上げ、アイシャドウは買ったばかりのブラウンとゴールドを使ってみる。カーキブラウンでアイラインを引き、ロングタイプのマスカラを目尻に乗せておしまい。
チークは控えめに。リップは艶のあるプラムカラーで。
ゆったりとしたロングドレスで足元まで隠し、ふわりと羽織ったカーディガンで肩幅を隠す。
背中まで伸びたウィッグを梳かして整えれば完成。
背中合わせのCが刻まれたハンドバッグを手に、ヒールを鳴らしてファウストは玄関を出た。
「いらっしゃい」
かろん、と鳴ったドアベルに店主がにこりと反応する。
路地裏にひっそりと佇むこのバルはこじんまりとしているものの雰囲気が良く、皆が料理と夜のひと時を楽しんでいる。賑わっているが決して騒がしいことはなく、店の雰囲気に客層も合うものなのだろう。会話とBGMのジャズが調和している。
「よろしければ、カウンターにどうぞ」
店主が勧めるままにファウストは小さく頷き、カウンター席の一番奥に腰かけた。脚は斜めに揃え、背筋は伸ばして。少し乱れた髪を耳に掛ける。店内の幾つかの視線が自分に向いていることを、ファウストは自覚している。
「この白と、合う料理を2つ。店主さんのおすすめで」
「かしこまりました」
努めて密やかに抑えた声で注文を取り付け、ファウストはふうと息をついた。
この店に来るのは初めてではないが、この恰好で来るのは初めてだ。
自分とは違う自分で過ごしたいという欲望を、ファウストは女装という方法で時折発散してきた。初めて女性の恰好をした時は緊張と秘めた羞恥でいっぱいいっぱいだったが、今では『もう一人の自分』として楽しむ余裕すらある。生まれながらに背負わされた自分の殻を脱ぎ捨てて得られる解放感は、いっそ快楽に等しくファウストの心を満たす。
やがてグラスがサーブされる。アルコールと一緒に、心に抱えた黒いしこりも飲み下してしまいたかった。
「麗しいご令嬢。今宵の奇跡的な出逢いに、是非乾杯させていただきたい」
白ワインで口を潤していたファウストは、声の主にゆるりと視線を向けた。ほどよくアルコールが回っても紳士は紳士のままらしい。ひと目で上等と分かるスーツに身を包んだ初老の男は、その格好に相応しく品の良い空気を纏っている。
「こらこら、この店でナンパ行為は禁止だと言っているでしょう。奥方がいらっしゃったら告げ口しますよ」
カウンター内から店主の諫めるような穏やかな声が向けられる。ファウストにカウンター席を勧めたのは、こういった時にすぐ対処できるようにとの気配りだったのだろう。奥のテーブル席であったら、わざわざ向かうか声を張るしかない。店内の雰囲気を壊さず、かつ釘は刺す。完璧なまでの先回りに少しむっとしてしまう。
「これは手厳しい!しかし男は美しい宝石を目にしたら声を掛けずにはいられぬのだ」
どうかご勘弁を、と美しい所作で腰を折る紳士にファウストはにこりと笑みを向けて返した。ちらりと店主を見やると涼しい眼差しをファウストに向けている。なんだか悔しくてつん、と目を逸らすとくすりと笑う気配がした。
「今日はお一人でしたね、珍しい」
「いや、実は近く一人娘が結婚するのでな。その祝いの席をぜひここで催したく、相談のつもりで来たのだが」
さり気なく話題を変えた店主に、紳士は相変わらずの居心地の良さについ本題を忘れてしまった、と朗らかな笑い声をあげる。きっと彼は家族ぐるみでの常連なのだろう。ここはそういった客も多い。土地に受け入れられ、住む人々に慕われる空間を創り出すのが上手い店主だ。そのうち雑誌の取材でも来るのではなかろうか。
本題の相談を始めた二人からゆっくりと思考を逸らし、ファウストは壁に並ぶボトルを眺める。どれもこれも、ファウストが好きだと言った銘柄ばかりが並んでいる。
「……今日は一段と綺麗な恰好だな、マドモアゼル?」
かろん、とドアベルが最後の客の退店を告げる。
まだ閉店時間でないにも関わらず店先のプレートをクローズに直した店主は、カウンター内に戻らずに一人残ったファウストの元に歩み寄った。先ほどまで客に向けていた柔和な店主の顔は消え、ただ一心に注がれるシトリンにファウストは姿勢も態度も崩した。
「機嫌悪い?」
「無理難題しか言わない無能な上司のせいで休日出勤が決まった。ネロとのデートの日」
「そりゃ災難だ」
別日に埋め合わせしないとな、とウィッグ越しに頭を撫でる手付きはグラスを磨くように丁寧で優しい。楽しみの邪魔をされて退勤してからずっとむかむかして、発散したくてこの恰好でネロの店に乗り込んだのに。ネロは特に気にした素振りを見せていない。
「怒らないの」
「怒るより、今はどうやってファウストの機嫌を直すかが大事」
怒ってもどうにもならないことをネロは理解しているし、“ファウスト”という殻を脱ぎ捨てた恰好でこの店に来るくらいには相当鬱憤が溜まっていることも分かっている。そのうえで出来るのはファウストのご機嫌を直してやることであり、それが自分の仕事だということも分かっている。
何もかもを分かられた状態でいるのは嬉しいが、自分ばかりが子供のように拗ねているようで腑に落ちない。普段は可愛いくせに、ファウストが乱れている時はおおらかに包み込んでくる。ネロはそういう男で、そういう男に甘えているのはファウスト自身だった。
「どうしてくれる?」
──残業明けの疲労も、鬱憤も、全部忘れるくらいに溺れさせて?
挑発するような笑みを向けられても、ネロは動じた気配を見せない。胸元をまさぐって詰め物はしてないんだな、などと呑気に零しながら、普段と変わらぬ声色で、ファウストがドレスの下に隠した欲望を正しく見透かす。
「泊まるだろ?片付けしたら戻るから、先に二階上がって待っててよ」
抱いてやるから。
耳元で落とされた囁きに、ファウストは満足そうに頷いた。