Traveling, thrilling ③好きになるには、知ることから。
知れば知るほど好きになったから、知ってほしいとも思った。
「ここ?」
「うん」
バスに揺られること約四十分。
無病息災の祈りと祭りの熱気に応えたのか、雨予報は見事に外れて青空が広がっている。
人であふれる駅前から市役所エリアを避けるように、僕達は北部へ降り立った。ひっそりと静かな一帯には苔や緑の土臭さが混じった夏の湿気の香りが漂う。
「入口、映画みたいだな。別世界にでも行けそうな感じがしねぇ?」
「木々の間を抜けたらそこは異世界であった?」
「そうそう」
細い参道を覆うように両側に並んだ木々の間を抜け、門をくぐり、境内へ入る。他に誰もいない境内では僕達の話声と虫の鳴き声ばかりが響いていて、文字通りの貸し切り状態に僕の心は浮き立った。
「これ、モミジだよな。さっきの参道のところもそうだったけど、紅葉の頃は色づいてここ一帯真っ赤になりそう」
「綺麗だと思うよ。実際、その時期は人が殺到する」
「だろうなぁ。……その時じゃなくて良かった?」
「苔むして、葉の色も濃くなって、そこら中緑に包まれる今頃も綺麗だろう?」
ちょうど朝露で濡れたところに日光が差し、透けたように木漏れ日が差し込む。秋の華やかな色づきとはまた異なる、神秘的な気配さえ感じられるこの光景が僕は好きだ。そう答えると、ネロはとろりと表情を緩めた。
「そっか」
「なに」
「ん-ん、なんでも」
こういう時のネロは今聞いても誤魔化すことが多いから、ここで終わらせるのが吉。目的の場所に歩き出した僕の後ろを、ゆったりと砂利を踏みしめる音が追ってくる。
さく、さく、さく。
じゃり、じゃりん。
「好きな画家が、この場所をモデルに描いた絵があるんだ。だから実際に訪れてみたくて」
「聖地巡礼みたいなやつか」
多分、そんな大層なものではない。これだよと示せば、えっこれ?という反応が返ってくると思う。万人の知る常識などではなく、知っている人のうちですら関心を寄せる者は少ないようなことだ。嫌な言い方をすれば、つまらないと思われるようなもの。
そこにネロを連れてきたのには、理由がある。
「これ」
「えっ、これ?」
ほらね。想像通りの反応をしてくれたネロに可笑しくて笑ってしまった。そうだよね、聖地巡礼なんて言えばもっと大がかりなものだと思うよね。
「ここ。もっと言えば、この垣根。因みにこの構図は今ではもう見られない」
「そうなの……?」
スマホで実際の絵を見せてやると、交互に見比べながらも後ろの垣しか分かんねぇ、と早々にギブアップした。既に僕が見たがっていた垣からは関心が離れ、奥に広がる空と山々に視線が向いている。
そう。それでいいんだ。
半袖のポロシャツの、紺地に白いラインが入った裾をくいと引いてネロ、と呼び掛ける。振り向いたネロは身体ごと僕に向き直り、どうしたと続きを促してくる。
「僕は、この旅行……もとい大がかりなデートできみと何をしたいか。きみに何をしてほしいかを考えていた」
「真面目だなぁ。そういうところが好きだよ」
「うん。でもきっと、まだまだ足りない。まず、僕が好きなものや惹かれたものを、ネロに知ってもらいたくて」
僕と同じに好きにならなくていい。だってきみはネロだからね。何でもかんでも同じに好きになってしまったら、それば僕がもう一人いるようなもので、僕はそんなことを望んではいないんだ。僕が欲しいのはネロ・ターナーという男であって、もう一人のファウスト・ラウィーニアではないのだから。
でも、垣根やモミジの木を見るたびに、ふとした瞬間に僕が好きだと言ったものを思い出して、ついでに僕のことも思い浮かべてほしい。
「同じくらいに、ネロと違うなと思うことや、合わないことも見つけてほしい。違う人間だから合わない点がある、至極当たり前だ。嫌ってほしいわけじゃないし、欠点を見つけてくれと頼んでいるわけじゃないよ。そうだな……僕はこしあん派だけど、ネロは粒あん派みたいな、そういう感じ。……僕はきみと永く一緒にいたいから」
ネロが細かい事務的な処理が少し苦手なことや、情報収集と組み立ては得意なことは知っている。そんな仕事みたいな堅苦しいことではなくて、生きていく上で必須ではないけれど、あると互いの人となりがより鮮明になって、互い越しに見える景色の鮮やかさが少しだけ増すような、ささやかな美的感覚や感受性めいたもの。
「この旅行で、僕の解像度を上げてほしい」
今まで色が塗られていなかったマスを塗り進めるように、僕のことを知ってほしいと思った。綺麗な色ばかりにはならないかもしれない。普段の暮らしでは見えないようなことも、遠出をすれば、ある地域に行けば見えるものが出てくると思った。
「それが、したいことと、してもらいたいこと」
どうやって伝えようかと考えて考えて、スマホのメモ帳にしたためていた原稿をこっそりバスの中で見直していたけれど、その原稿は意味を成さなかった。ただ心のままに出てきた言葉をネロにぶつけて、ふぅと息をついた。息をついて、よくよく考えたら結構重い告白では?とじわじわいたたまれなくなってきた。
裾を掴んだままの手を離そうとすると、その手をネロに握られた。ファウストこっち、と手を優しく引かれて近くにあったベンチに誘導される。垣根も、山を臨む開けた空間のどちらも見える場所だ。
並んで腰かけて、ネロの顔を覗き込んだ。気付いたネロがはにかむように笑うが、すいと視線を逸らして地面を見つめている。両手を組んで握ったり離したりするのは、ネロが頭の中で言葉を組み立てている時の癖だと知っているから、ただ静かに待った。
風が枝葉を揺らす音と、虫の鳴き声だけがする。
雲の塊が隣の山まで流れて形を変えた頃に、僕達の間に流れた沈黙は穏やかなネロの声で破られることとなる。
「……ちょっといっぱい喋ってもいい?」
「どうぞ」
「ありがと。……俺はさ、ファウストの好きなところを沢山見つけたいって思ってるよ。さっき、紅葉も綺麗だろうけど今の時期も好き、って言ったろ?あの時も、あぁ俺ファウストのそういうところ好きだな、って思ったもん。俺だと到底見付けられない所にある良いものをファウストは見つけられるの、凄いなって思うし、その目で見えてる世界はきっと綺麗なんだなって嬉しくなるし。
綺麗なものを見つけられるところとか、真面目なところとか……。好きなところが沢山あれば、もし違うなとか、ちょっと合わないかなと思うところを見つけた時、好きなところがこんなにあるから大丈夫、って思える。言い方悪いけど……好きなところで他を塗りつぶすのが俺なんだよ。誤魔化しているつもりはなくて、白い紙に1つでも小さな点があると、全体を見ようとしてもそこにばかり意識が向いちまうだろ?それで全体が見えなくなるくらいなら、そこに意識が向かなくなるようにしよう、みたいな感じ。……ここまではいい?」
「うん」
「でもファウストは塗りつぶさない、ってスタンスなんだよな。モザイク画みたいに色が集まって、綺麗な色ばかりでないだろうし突拍子もない色が混じっているかもしれないけど、全部が集まってファウストになる。その一つ一つを俺に知ってほしくて、それはファウストが俺とずっと一緒にいる上で大事だから、って考えてくれている理解で、合ってる?」
「うん。これも、僕達で違う点の一つだと思ってる」
僕のことを知ってほしい。でも、そのままにしておかなくたっていいんだ。上から美しい色を塗ってくれるのがネロのスタンスなら、それでいい。僕が描かれたキャンバスをどう使うかは、ネロ次第だ。僕は、ネロから見た『ファウスト・ラウィーニア』という絵を描いてほしいんだろうと思う。
ネロが再び考えこむ素振りを見せたので、僕は困らせてしまっただろうかと今になって少し不安になった。言葉にしたことでネロに変に意識をさせてしまったのなら本末転倒だ。恐る恐る顔色を窺うと、存外すっきりした表情をしているように見える。
大丈夫だろうか、と様子を窺っていると、「よし」とネロが突然立ち上がった。
「ファウスト、昨日の夜に見てた雑誌って持ってきてる?行きたい候補に付箋を貼ってたアレ」
「持ってきているよ」
「よっしゃ。全部行こう、ファウスト!」
「……正気か?結構あるけど」
「至って正気!」
抜けるような青空と濃緑を背にニヤリと笑う姿は、チカリと眩しく僕の目を貫いた。
「珍しいことや新しい出来事をどんどんやらせてやりてぇなって思ってたし、行ったことがない所や行きたい所にどんどん連れていきたいと思ってた。あんたが何を見て、どう感じてきたのか、どう感じるのか。……俺が全部受け入れられるかどうかは、ちょっと約束出来ないけどさ。正直、この垣根のどこがいいのかも全然分からねぇもん。ファウストがいいものだ、って言うならそうなんだなとまでは割り切れないし。
でも、ファウストが好きなものは俺には分からないな、って気持ちと、それを好きだと思うファウストのことは好き、っていうのは、きっと俺の中で両立できるよ。意識してみたことねぇから分かんないけど、多分、恐らく、ほぼ間違いなく」
弱腰な言葉とは裏腹に、ネロの声色はしっかりと確信めいて僕に向けられている。
「だから全部行こう、ファウスト。全部行ってさ、教えてよ。俺が知らなかったファウストのこと」
ネロの両手に引かれるがままに立ち上がると、眩しい笑みを浮かべる顔が目の前にいる。
──杞憂だっただろうか。
ネロの向けてくれる真っ直ぐな愛情は、時折焼いてくれるレモンパイを切り分ける時みたいに、僕の心にさっくりと優しく刺さる。
不安だとか、疑っているとかではない。甘えるように、求めるように、焦るように、気持ちばかりがぐっと前のめりになってしまうことがある。誰かを好きになるというのは、そういう感情の波を上手く乗りこなすことが必要なのだろう。
「……今更だけど、幻滅するかもよ」
天邪鬼になりきれない声色に甘さが滲んだのにはバレたみたい。よく晴れた夏空にふさわしく、からりとネロが笑ってくれた。
「俺がどれだけファウストのこと好きか、思い知れよ」
境内を抜けて、バスに乗ってはまた降りて、あちこちを巡って歩き回った。
枯山水に綺麗だねと言えば、あれ描くのめちゃくちゃ大変そう、なんて答えが返ってきて、二人して全然分からないよと笑い合った。昼食は途中で食べ歩きをして済ませ、けれど付箋を貼った茶屋は少し並んでも入ったし、注文したのは同じパフェだったり。あちこちに散らばる史跡跡を解説してやれば、ネロも段々僕の関心所を掴んできたらしく、あれ詳しそう、と先回りして示すことも出てきた。
行った所は付箋を剥がし、宿に戻る頃には閉鎖中だった数か所以外の付箋は綺麗さっぱり無くなっていた。
──剥がした付箋の数だけ、ネロは、僕のことを。
「やっぱ俺、ファウストのことすげー好きだよ」
もう歩きたくないくらいに疲れてくたくたの身体を部屋に横たえて、満たされたため息をつくように告げたネロへ視線だけを向けた。応えるようにゆるりと僕の方に顔を向けたネロの表情が、言葉に尽くせない程の愛情をひたむきに向けてくるものだから。
どうしようもないくらいに胸が熱くなって、必死に天井を睨みつけた。そうしないと滲んだものが零れ落ちそうだった。
感情の波を上手く乗りこなすというのは、ほとほと難しい。