この身はやわらかな石で出来ているか川の水で傷口を洗う。血が混じって僅かに赤みを帯びた水は地面に吸収され、ここにいる二人しか知らないものになった。痛みで顔を顰め、腕を引こうとしたネロの意思は無視をして掴む力を強くすると、ファウストは再び彼の傷口に水をかけた。
依頼中の怪我を可能な限り避けることはファウストの先生役たる使命のひとつでもある。心底不本意にも理解を示すのならば、それは不可抗力や不測の事態による負傷であって、決して自分から負いに行くものではない。
ネロは命に別状のない範囲と判断したら、その怪我を他人に代わって自らが負うことになんの躊躇もしなくなる。
此度も「寧ろあそこで避けずにいたから、あんたに飛び火しなかっただろ」なんて腕をぱっくりさせてきたものだから、ファウストは虫の居所が非常に悪い。
止血と、傷口を簡易的に塞ぐくらいの魔法は教わったからできる。けれどファウストはネロにその魔法を施さない。多少の怪我はファウストの治癒魔法への甘えだというのなら、絶対に使ってなんかやらない。フィガロの部屋にぶち込んでやるから治されて来い、ついでにちくちく説教されて来い、ざまあみろ、と思っている。
「液体化したマナ石って赤いのかな」
ぽつり。ネロの呟きに応じるように、赤混じりの水滴が一滴落ちる。
「……その発言の意図を聞こう」
まだ機嫌悪い、と湿った視線を感じたが、ファウストはこれにもきっかり無視を決め込んだ。良くなるはずもないし、どうせ学習はしてくれない。また繰り返す未来が夜空に浮かぶ月のように明瞭に見えているから、繰り返す度にファウストは機嫌の悪さをネロにぶつける。
守るのならば、皆の満腹であってほしいのだ。
「俺達魔法使いは死んだら石になる。なら、命を動かしているのは血じゃなくてマナ石って考えることだってできるだろ。人間は皮を開けば肉や内臓、血からできているけど……俺達って何で出来てるんだろう」
肉だと、内臓だと、血だと思っているものは、本当にそうなのかな。
本当は全部、マナ石が変形してるものだったりするのかな。
ネロの問いへの答えを探るべく、魔法使いの身体的構造を研究した魔法使いはいただろうかとファウストは己の知識を掘り返したが、魔法使いは死んだらマナ石になるから解剖が出来ないんだったなと思い至る。
「……」
魔力が最大値に達した時点で身体的成長は止まる。流れる時ごと固定されてしまうから、人間が老いと共に身体的構造に衰えが生じる現象と同じことは魔法使いには起こらない。
果たしてそれは、魔法使いの身体が得体のしれないもので構成されていることの証明になり得るだろうか?
「ネロ」
「なに、……っ」
おい、とファウストの髪をやや乱暴に掴む手にも無視を決め込んで、せっかく綺麗にしたネロの傷口からじゅるりと血を吸い出す。東の魔法使いの先生役という真面目な肩書に似つかわしくないはしたない音を響かせ、上品な口元が血で紅く染まっていくのを、ネロはひくりと顔を顰めて睨みつけた。
「な、にして……んむ」
血でぬるついたそのままにファウストはネロと唇を合わせた。きつく閉じる唇を無理やりにこじ開けて、舌を咥内に潜り込ませる。ぴちゃ、くちゃ、と水音をさんざに起こし、喉仏がこくりと動いたのを確認してようやく解放した頃には、唾液と血でネロの口もべたべただった。べろりと自身の唇を舐めるファウストの舌は、毒々しいほどの赤色に染まっている。
「……最悪」
「ふん。で?」
「なにが」
「鉄の味はしただろう」
「……」
「それが答えだ」
肉がどうして石になるのか。そんなこと、なるものはなるのだから今考えたところで仕方がない。怪我をすれば痛むし、食事をすれば腹は膨れるし、触れれば温度を感じる。分かっている事実はそれだけで、しかしこれで十分なはずだ。
人間と寸分違わず同じものかは分からない。けれど、標本のように時間ごと磔にされたこの身体でも、虹色の冷たい石には存在しない命の生々しさが在るのだから。
「諦めなよ、この身は紛れもなく肉の体だ」
自分の血を含まされた不快感に歪んでいた顔から呆れたように力が抜ける。別に嫌なわけじゃねえよ、と抗議するネロの腕を布で縛り、今度こそ解放した。
「肉の体の治し方は医者の専門だからな。魔法舎に戻ったら、一番にフィガロの部屋にぶち込む」
「これくらい平気だって――」
「きみの意見は聞かない。僕はまだ虫の居所が悪い」
「いい加減直せって」
「誰のせいだと思ってる」
べし、と叩いた白地に赤が滲む。それは、確かな命の色をしている。