錫杖の端が地面を打ち、頭部に取り付けられた輪が禍々しい音を立てる。ハルニードの知る呪力とも魔力とも異なる——理の違う害意が膨れ上がり、形を持って襲いかかってきた。
「……ッと!」
地を這って進み任意の箇所で地から這い出てくる影を避けるべく、ハルニードは地面を蹴った。体幹をしなやかに使って飛び跳ねては体を返して魔力の爪で引き裂き、あるいは蹴り飛ばして潰す。
「ちょこまかと……!」
楽しげに吼える害意の発信源はやつれた男に見える。髪のない側頭部からつながる両の耳たぶから下がる飾りがしゃらしゃらと音をたてる。異界の僧侶を模した装束から突き出る両手脚には厳重に包帯が巻かれていて、その手が掴む錫杖が鳴るごとに伸ばされる触手は正確にハルニードを追い詰めてくるのである。
「ほら、捕まえちゃいますよッ!」
「……ッ!」
手数が多い、と見て、ハルニードは鋭く息を吐いた。四肢を地面につけたまま背中に意識をやり、後付けの魔力口へと流れる魔力を想像する。首の下から背中へ、意志を持って流し、噴出させる。
「うわ、気持ち悪ッ!」
海月の口からは率直な感想が飛び出した。うるさいな、とハルニードも笑う。身体の外に溢れた魔力が作るのは慣れた形、すなわち人間の腕である。肩と脚から伸びた四肢を地面を走るために使う分、他の仕事をこなすために生やすものだ。地面から伸び、掴みかかってくる触手を逆につかみ、捻じ曲げ、もしくは引きちぎり、投げ返していく。
「うわ……」
「引くなよ」
「思ったより気持ち悪い」
海月が戦意を失くしたというようにトントンと地面を打った。周囲に充満していた重圧がすっと消える。ハルニードもやれやれと立ち上がる。
「おちびもそう思うでしょ」
突然に同意を求められた少女はあいまいに首をかしげた。花の名前を与えられている人形じみた少女は二人が戯れているのを遠目に見守っていたのだが、ハルニードが意見を求めるように顎をしゃくるもあちらこちらに首を捻った。言葉を探すような、あるいは声の出し方を探すような間があって、やがてようやく思いついたように蜘蛛のようだ、と述べる。
少女の髪は光沢のある白、あるいは新雪のごとき銀色である。
「おちびちゃんの髪はキレイだねぇ」
癖のない、まっすぐに切り揃えられたそれを獣毛のブラシで梳かしながらハルニードはおっとりと言った。なるべくきっちりと二房に分けて、おさげを編んでやる。
デイジーが話すところによると、おさげの端をまとめるのに使ったら小花の飾りをつけたリボンは人の形に押し込められた鯨の学者からの贈り物だそうである。曰く、「先生」もそう言って褒めてくれるのだとか。
「よく似合ってますよ」
海月が頷くと、少しばかり得意そうに薄い唇がほころんだ。デイジーは物静かな子供だが、「先生」のことについて語るときばかりはほんの少し饒舌になった。球体関節で繋がった棒のような手をいっぱいに広げ、あるいは動かして、その人が物知りで優しく、虹の色や海の色や雲が動くことについてなんかを話してくれることを一生懸命に伝えようとする。
「おちびは『先生』のことが好きなんですねぇ」
こくこくと頷くデイジーを見る海月の微笑は優しい。ハルニードに向かって笑うときはどこか斜になって見えるにも関わらずだ。
「……!」
続けて、デイジーはわたしも二人みたいに強い腕が欲しい、と、鼻息荒く決意を述べた。強さとは無縁の命題で造られたはずの人形少女の黒い眼差しはきらきらと光を跳ね返している
「なんで?」
「守られてるばっかりなのが嫌なんだよねぇ」
「ああ、そういう」
海月とハルニードはお互いの姿を見やった。それぞれ素材は異なるが、それぞれの命題に従って形を得た腕である。殺すため、戦うため。本分を全うするため。
「そうだね、強いのつけてもらおっか!」
「!」
「勝手にそんなことしていいんですか?」
魔力の腕で小さな頭を撫でながら調子良く言うハルニードを、呆れたような海月の声が嗜める。その声はしかし、十分に面白がっているようなのだった。