森は静かで穏やかだった。鳥の声と遠くで木々を鳴らす獣の足音が聞こえはするが、ユエの知る領境の森の鬱蒼とした気配とはうってかわった明るさのようなもので満ちている。
「……大丈夫か」
「はい」
さりとて、妊婦と連れ立って歩くのに適切な散歩道であるかと問われると非常に疑問である。そもそも非戦闘員と行動を共にすること自体が遥か彼方昔の記憶であるので、ユエは足取りと道のりの選択にこれまでにないほど気を遣っている。
「それほどか弱くはありませんのよ、私」
「気を使って使いすぎるってことはないだろう」
おかしそうにいうネムにむっつりと釘をさし、山道を進む。
「それにナディに比べればか弱い」
「相手が悪すぎますわね。……お従兄様ほど森歩きに慣れていないことは認めますわ」
可憐な微笑みとともに手を伸ばされたのはエスコートを求めてたようだった。敗北宣言、というよりは不用意に距離を縮める口実にされてしまったようだ。手を取れば見知らぬ、柔らかい手である。
「呪のもの、いませんね」
「不死族に喰われていたからじゃないのか?」
「そうかも」
「長くは続かないだろうよ」
そもそもあれは自然発生するものである。 放っておけばまた増えていくだろうというのがこうして早々にネムを連れて森を行くことになっていることの一因でもある。
「……ユエ様は運命数の法則はご存知ですか?」
ネムが手持ち無沙汰そうに尋ねて、ユエは小さく顎を引いた。
「愛し合う者同士の間に生まれた子供には創造主の祝福がある、とかいうやつか」
子供のおまじないのようなものだろう、と吐き捨てると、女は軽やかな笑い声を立てた。その声音は会話の相手を好意的に思っていることを示す温かさをしていて、それはひどくむず痒い温度である。
「そうとも言い切れないのですよ」
今はこうして歩みを助けるために引いている手を白くかよわい指先に整えられた爪が見た目どおりに柔らかいことを知っているような気がした。それは白昼夢に見た情報のように曖昧で信用ならない感触である。
「ある領国の統計では自由恋愛の結果生まれた子供の魔呪的素質は双方の親よりも優れる確率が高いとか」
「眉唾だな。比較対象があんのか」
「そうですね、貴族同士の政略結婚においてはほぼ双方の親の平均であった、といいますね」
「……」
信憑性に欠ける話である。魔呪的素質、なるものが明確に数値化できるものでない以上、信頼できない統計なのである。そのユエの険しい視線をものともせずに、ネムはこう続けた。
「だからユエ様。この子はきっと強くなりますわ?」
「愛し合うものが結ばれた時、の話じゃないのか」
「だってユエ様はお従兄様を愛してくださったのでしょう?」
ユエは眉をひそめた。ネムはそれを笑った。
「少なくともお従兄様はユエ様のことを愛していました」
「ナディは関係ないだろ」
「いいえ?」
ネムは上機嫌である。手を握る手に意図的な力が籠る。
「私とお従兄様は違う胎から生まれたというだけの双子の兄妹ですもの。私が産む子供はお従兄様の子供と同じ。ええ、お従兄様にはできないことを、私はするのだわ」
歌うように言う、儚げというにはどこか居場所を掛け違っているような微笑、その顔かたちは確かにハルニードに似ている。
とはいえハルニードがそんなことを望んでいたとはとても思えず、ユエはとうとう立ち止まった。手を握る力はほんのささやかな可憐なもので、振り払うことは易いだろうに、できなかった。
「ユエ様だって。お従兄様のことを食べてしまいたいと思っていたのでしょう?」
「何故それを?」
「そう言っていらしたので。この子が出来た夜に」
溜め息をついた。それは言い逃れのできない話である。
「私とお従兄様を見間違えたようでしたわね」
「何故止めなかった」
「止める理由がありませんでしたもの」
彼の魔力香に誘われる情動はもっと即物的で、衝動的で、暴力的な、生き残るための意志だったはずだ。その結果として欲を興こすとて、創造神なるものが想定していた愛なるものであるはずがない。
「……あんなものを愛と呼ぶなど烏滸がましい」
ネムは軽やかに笑った。
「私が喰われたいと思ったなら、それも愛と呼んで差し支えないのではなくて?」
ユエは口を噤んだ。今すぐこの女を置いて立ち去ることも、出来ないことではないだろうに。出来はしないのはユエの善性と正直さの故であろうか。あるいは責任感というものか。
「生まれてみればわかることですわ。……楽しみですわね」
いつの間にか旅支度に混ざり込んでいたローザリエからの手紙には二つ、約束してほしいと書かれていた。
ひとつにはネムを大切にしてほしいということ。ふたつ目はもしもの時は生まれた子供とともに帰還すること。
「可能な限りの努力はする。しかし、もしも、どうしても後継者が必要になったときには、どうか、オーラレンの地に帰してほしい。」
それは祈るような懇願であったので、ユエはネムに宿る得体の知れない子供が無事生まれ育つのを見届けることこそが自身の成すべきだと認識した。何もできなかったことへの贖罪とでも言うべきか。