「大人1枚、と……」
入園ゲートのカウンターに向かって身をかがめた斑鳩の言葉尻を拾った受付のスタッフが胸に抱える抱っこ紐の中を覗き込む。3歳未満のお子様は入園無料となっております、と告げた声音はいかにも微笑ましいものを見るようにしていて、斑鳩はひどく落ち着かない気分になった。
「では、大人1枚」
「はい、ありがとうございます」
紙幣を差し出しチケットを受け取る。
「お父さんと動物園、いいね」
抱いている体温は赤子を思わせる重みをしていて、受付のスタッフにも幼児に満たない月齢の子供に見えたことだろう。ぱっちりと無感情に開いた両目がじっと彼女を見ていたので、愛想の良いスタッフはこういった施設の玄関役に相応しく明るい声でそう話しかけた。
「……甥です」
言われたからには訂正が必要であろうかと、斑鳩はぼそりと弁解した。それも正確には正しい情報ではないが、父とされてしまうよりは少しは安らかなように思える。
「あっ、そうなんですね!おじさんとだって。嬉しいねぇ!」
いってらっしゃい、と朗らかに手を振る受付嬢に小さく会釈をして、斑鳩は持参の傘を再び開いた。
平日の昼間の動物園を見下ろす濃い曇天はたまりかねたように小雨をこぼれ落としている。なんの変哲もないが黒くて大きな傘は自分の顔や抱っこ紐の中に居るものを隠すには具合がよかった。
じっとこちらを見る幼児の、うろのような双眸は遥か彼方の記憶である。あれは少なくとも3歳未満ではなかったと思う。二本の脚で大地を踏み締めた姿はそれなりにたくましいものだったし、幾らかは斑鳩の言葉を理解して従おうという気概が見えたので。
「……」
もの静かであるのは人見知りのためだろうか、それにしては見つめる眼差しに物怖じがない。母親によく似た子どもだと思った。父親に似ているところが目立たず、すなわち自身との共通点も感じられない。
それに気がついて、斑鳩は唐突に我に返ったのだった。自分は一体なんのために、なにをしに、この子供に会いに来たのだったか。つい先刻まで真実であったはずの光景が悍ましい妄想にひっくり返る。
「……バイク、好きか」
しゃがれた声でつぶやいて、手にしていたプラスチックの玩具を自身と甥っ子の視線の間に示した。ぱっと見開かれた目が幼児らしい興味の輝きを帯びたので、手を伸ばされるままに手渡す。
ぱらぱらと小雨の降る園内は貸切のようだった。時に獣の匂いがきつくなることに眉をひそめながら、それでも順路に沿って檻の中を眺め歩く。誘拐犯としては呑気なものだが、大小様々な生命が闊歩するこの施設であれば人間の中を歩くよりは多少紛れるのではないかと思ったのだ。この月齢の赤ん坊を連れて歩くには実はもう不自然なのかもしれない。薄々気がついてはいたが今さらだ。もとより斑鳩は子供を連れ歩くことそのものを知らない。
甥。のようなもの。あるいは甥を模して捏ね上げられたもの、の、融け残り。泣きもせず、笑いもせず、ただ大人しく斑鳩の胸に抱かれ運ばれているだけのもの。今はうとうとと目を閉じていて、まるで「良い子」の赤子の様相である。
「馬鹿が」
吐き捨てた毒舌はこれの製作者に向けてのものであった。声ばかりは鋭いが、その実同情と憐憫の方を多く含む独り言であった。途端に胸元でびくりと驚いたような気配があって、斑鳩はそれに驚いた。
「……お前のことじゃない」
虚ろな両目と目があったので、弁解するように言う。ほら象さんだぞ、とちょうど目の前に居たのろのろと動き回る巨体を示すと、海月は素直にそちらの方を見やった。好奇心の強い赤ん坊のように。