10戦目★眠れぬうさぎの寝かしつけ――ねぇ、知ってるかい?こころのSOSって、自分以外の人にしか見えないんだよ。
青葉の香りを乗せた新風がピンク色の花冠をそよがせる。
「わぁ、ありがとうスナフキン!」
「役に立てたなら良かった。じゃあ僕は街の方へ降りてくるよ。おみやげ、期待してても良いよ?」
「スナフキンのおみやげはいつも見た事のないものばかりだから楽しみだわ!」
「もしかしてあのキラキラのケーキ?」
「ふふ、さぁ、どうだろうね?」
都会的なこのムーミン谷のスナフキンであるピクはフランクな笑みを浮かべ軽い足取りでムーミン達の元から去っていった。
「良かったわね、ムーミン。スナフキンがここを通らなかったら大変な事になってたわ」
「ぼくたちが知らない事なんでも知ってるし、どんな事もでも助けてくれるし、見た事のない形の車だって乗れちゃうなんて、やっぱりスナフキンはすごいや!」
ピクの手により一件落着と落ち着いたのだろう、安堵の表情からピクの言っていた街からのおみやげに心躍らせる二人は子供らしくはしゃぎその様子は見る者の心を穏やかにさせるだろう。――傍目に眺めていた旅人一人、懐疑的な眼差しを向けている男を覗いては。
「やぁムーミン、ノンノン」
「あっ、おじさんこんにちは!」
ムーミンの無邪気なおじさん呼びにその男――安原は苦々しく口角をひくっと震わせる。
ムーミンにとっては違うムーミン谷のスナフキンなのだから区別化を図る為に仕方が無いが、どうやら幼いムーミンから見ると安原はおじさんの区分に入るらしい。
せめてお兄さんにしてくれないだろうか……そんな事を思いながら安原は無邪気なムーミンに尋ねる。
「ピ――スナフキンは谷でもあんな感じなのかい?」
安原は彼らに馴染んだスナフキンらしさを崩さない様、物腰柔らかい口調で二人に尋ねる。
「そうだよ。楽しいお話をいっぱいお話してくれて車にも乗せてくれるんだ!」
「それに最近はとても機嫌が良いみたいなの。なにか良い事があったのかしら?」
スナフキンが楽しそうだと私達も楽しいの!と頬をほころばせ微笑むノンノン。
"ここ数日とても機嫌が良い"テンションが高い"やけに行動的"――安原の中の懐疑的パズルがカチリ、カチリと嵌り埋まっていく。
「……ありがとう。じゃあ、僕もそろそろ僕のムーミン谷に帰るとするよ」
「おじさんの所のぼくにもまたこのムーミン谷に遊びにおいでって伝えてね!」
「ああ、アイツも同じ事を言ってたよ。また君と遊びたいってね」
「またいつでもいらっしゃって。スナフキンもおじさんが来ると嬉しそうだから」
「……それはどうだかな」
ノンノンの言葉に思わず苦笑いを浮かべる安原を純粋に疑問に思い、ノンノンは不思議そうに小首を傾げる。
小さく手を振り別れを告げた後、安原も街へ出る方角――ピクが去っていった方へと歩いて行った。
「あのバカ、どこに行った……?」
街へ繰り出す前にあの馬鹿野郎を引き止めなければ――安原の歩幅は無意識に広くなり、しばらく歩いた先のピクの家に辿り着く。
今から出るのか愛車のキーを右手に運転席へ乗り込もうとするピクの薄い肩を掴んだ。
「っ安原?!」
「今日街へ行くのはやめだ」
突然現れた安原に驚き大きな目を見開くピクは安原に手を引かれ愛車から引き離される。
「なんなんだ一体、急に現れて何を言っているんだい?」
「お前、いつから寝てないんだ?」
「藪から棒に……君には関係無いだろう?」
「隠さなくて良いなら簡単に答えられる質問じゃないか?」
のらりとはぐらかそうとするピクの一枚上手を行く安原の真っ当な質問返しに安原同様眉間に皺を立たせたピク。
「……心配しなくても全然元気だし、余計なお世話っていうか……」
「……じゃあ質問を変えてやる。"いつから眠れていないんだ"?」
「……っ………」
核心を突かれた。ついそう顔に出してしまったピクは降参だといいたげにごく僅かに赤くなっている目をそらす。
この男は全てを見抜いている。自分の取り繕いや虚勢をすり抜けてすぐに真相を見つける、妙な察しの良さにバツが悪そうなピクは観念したと言わんばかりにボソリと呟いた。
「………、五日」
嘘をついても意図も容易く見抜かれる。身を持って理解しているピクが告げた真実に安原は一瞬目を見開き、やっぱりそうかと言いたげに小さく息を飲んだ。
五日眠れていないのだ。意識のない時間は多少はあるのだが、眠るというより気絶をして僅かな時間意識を手放しているという方が正しい。
度を通り越した疲労は一気に無自覚となる。今のピクは一種の覚醒状態になっているのだ。
「………はぁあ」
違和感と疑念に合点がいった安原は今期最大級のため息をついた。
「お前バカにも程があるだろう……」
「誰がバカだって?!」
呆れを通り越して怒りすら湧かなくなった安原の重苦しいため息に眉を吊り上げあからさまに怒りを露わにするピク。
過剰な感情の起伏もまた覚醒状態の症状のひとつ。不眠により昂ったハイの感情の波が過ぎるとたちまちローの感情に侵される。
五日というハイとローの境界にいるピクをローの感情に襲われる前に引き止めなければと、その場にどかりと胡座をかいた安原はピクを呼びこむ様に自分の膝をぽんぽんと叩く。
「バカでもなんでもいいからとにかく今は休むんだ」
「っ誰が君の膝枕で寝るものか!!」
「今のバカみたいなテンションの反動で動けなくなる姿をムーミン達に見せたいなら話は別だが?」
「……っ……」
屈辱的だと尚拒絶するピクを眉ひとつ動かさずそう問いかける安原。
普段の小競り合いとは一変、感情を一切ブレさせない、冷静沈着な理論詰めで相手を促す時は絶対に自分の筋を通したい時だ。
こういう時はより一層あのよく回る口と察しの良い勘の良さが憎い。一種の覚醒状態の反動で無自覚にも普段より物事を深く考える事が出来なくなっていたピクは言葉を無くし口を噤む。
安原の言っている事は至極真っ当である事も確かだ。いつでも頼ってくれる、大好きで大切な親友やその友達に自身の弱った姿など見せたくない。ピクは自身の見栄とプライドと天秤をかけ、心底不条理だと言わんばかりのしかめっ面で安原の隣に腰を下ろす。
「こっち」
「わっ?!」
安原の隣で座ったまま休息を取ろうとしたピクを安原は肩を引き寄せ上体を倒し、硬く丈夫な枕がピクの頭を衝撃から守った。
「……生憎僕は柔らかい枕派なんだけど?」
「うるさい。とっとと寝れば枕なんか気にならないだろう?」
「君みたいに寝ようと思えばすぐ寝れる単純な奴じゃないんだよ」
「口を動かす暇があるなら目を閉じてニョロニョロでも数えるんだな」
寝ようと思えばすぐに寝付けるが寝起きが悪い安原とは対照的に、寝ぼけるという概念が無い代わりに寝付きがすこぶる悪いピク。
不安定な精神状態からくる不眠なのか、それとも生まれ持った性質なのか、またはその両方か、ともかくその状況がこの五日の不眠に拍車をかけている事は言うまでもない。
「仕方が無いな、じゃあ子守唄でも歌ってやるよ。はいあめーにぬーれたつーー」
「そんな軽快なおさびし山のうたで眠れる奴がどこにいるんだ?!」
やけに軽薄なテンポのおさびし山のうたは解釈違いだと眠らせる所か逆に眠りを妨げてしまった安原は痺れを切らし若草色の帽子をピクの顔面に被せた。
「ちょっと煙草臭い帽子被せないでくれるかい?!」
「煙草臭いのはお前も同じだろう」
「君の煙草は癖が強いんだよ!」
煙草臭いと言われた安原は眉をぴくりと揺らしいつもの様に苛立ちを顔に出す。
同じ煙草かきに煙草臭いといわれるのはこの上なく心外だと怒る安原に対して膝に頭を預けたピクの硬く張っていた肩の力がふっと抜けていくのを感じた。
帽子に染み付いた安原の煙草の匂い。ピクが好む甘いムスクとは正反対の少し刺激的な癖の強い香り。
――どうして、こんなにも落ち着いてしまうのだろう。
「………、十五分、膝貸してくれないかい?」
「いくらでも貸してやるさ」
やっと観念したのか、それとも他の理由か、兎にも角にも余計な気が抜け柔らかくなりつつあるピクの身体。
眠れぬ子うさぎが安堵した深い眠りにつけるまであと何分か、小さな寝息が聞こえるまで安原は何も言わずただピクの身体を支えるだけ。
――ホント、世話のかかる奴。
そんな世話のかかる奴を放っておけずわざわざ出向いてまで様子を見に来る自分はなんなのだと、安原はそんな自分にすら呆れて小さく息をつく。
「……?」
歩幅の小さいぽてぽてとした小さな足音がひとつ、北の方角から聞こえ、安原は近付いてくる足音に聞き耳を立てる。
足音が近づくにつれ姿を見せた愛らしい丸みを帯びたフォルムとぴこんと立った小さな二つの耳。足音の正体はピクの誰よりも大切な親友のものだった。
「んっ……?」
やっと静かになったピクが小さく呻く。折角寝付きかけたのに今起きてしまえば元も子もない。安原はピクの名を呼ぼうと口を開いたムーミンと目を合わせ、人差し指を唇に立てる。
しぃっ、とムーミンに伝える安原の声無き言葉を受け取ったムーミンは安原の顔からその下で今眠ろうとしているピクへと目線を下げて安原の言葉を理解し、わかったよと言う様にその短い人差し指を口元へかざし安原と同じ動きをする。
おじさんバイバイ、と手を振ったムーミンは足音を立てない様静かに走り去って行く。そんなムーミンに手を振り返していると、膝元から小さな寝息が微かに聞こえ始めた。
――帰る道すがら、ムーミンは思う。
あれはきっと、ぼくとおじさんの二人だけのひみつなのだと。
「おじさん、すごくやさしい目をしてたなぁ」
本日の勝負、勘の良い安原の勝ち。