思い出の味 遠くで誰かが呼ぶ声が聞こえるような気がする。
けれど、目を開けることも出来なければ動くことも返事をすることも出来ない。
自分を呼んでいるのが誰なのかも、分からない……そんな中、暗闇の中に意識が落ちていった。
「……ぅ……ん……」
「あら……? 目が覚めた?」
女性の声が聞こえ、開かないと思っていたはずの目がゆっくりと開いた。
見慣れない天井が広がり、ベッドに自分は寝かされているのか、心配そうに長い茶色の髪を揺らしながら女性が覗き込んでいる。
「良かった、ずっと眠ったままだったらどうしようかと思ったわ」
「ここ、は……?」
「ここは、私と息子の家よ。あなた、森の中で倒れていたの。ここは村から離れているし、夜の森は危険だから、とりあえずここに連れてきたんだけど……」
ルカは身体を起こしながら、森の中で倒れていたと聞いて自分が最後に居たのは果たして森の中だっただろうか……と思い返そうとしたが、どうにも思い出せなかった。
元々事故のせいで記憶力が悪い……そのせいで余計に思い出せないのかもしれない。
「ねぇ、気を失う前のこと……覚えてる?」
「いや……思い出せない……」
「そう……じゃあ、あなたの名前は?」
名前程度ならば覚えているため、「ルカ・バルサーだ」と名乗ると、女性は優しく微笑む。
「良かったわ、名前は覚えていたのね。バルサーさん、良かったらゆっくりしていって。あ、そうだわ、お水飲む? 夕方汲んできておいたの、ちょっと待っててね」
女性は食器棚を開けてはテーブルに置いてある水差しを手に取って水を注ぎ、ルカの元へ戻る。
「あ、ありがとう……何だか、申し訳ないな……何から何まで……」
「ふふ、気にしないで」
家の中をよく見ると、ひび割れた窓や雨漏りしているせいか形の悪いバケツが床に置かれていたりする。
あまり裕福な家庭ではないのだろうと察し、ルカはふと棚に置いてあるクレヨンに目をとめる。
「……息子さんは、まだ幼いのか?」
「え? ああ、そのクレヨンのこと? 息子はもう立派な大人よ。そのクレヨンは、幼い頃に私が誕生日プレゼントとしてあげたの。本当は、街の方まで足を運んで玩具の一つでも買ってあげたかったんだけど……これが精一杯で」
「……そう、だったのか……」
彼女の着ている服も、要らない生地を縫い合わせて空いてしまった穴を塞いでいたり、裾がボロボロだ。
新しい服を買う余裕もないのに、息子のために貯金をしていたのだろう。
(……優しい女性だな)
ふと、彼女から息子の話は聞くけれど、肝心の息子の姿が見当たらない。
彼女の話によれば、もう夜の時間のはず……同じ家に住んでいるのであれば、帰ってきていい時間だ。
「息子さんはまだ仕事なのか? もう夜なんだろう?」
「……あの子は、まだ帰ってこないわ。遠い所に居るの」
「そう……なのか」
どこか寂しそうに遠くを見つめていたけれど、女性はすぐに笑顔を浮かべてルカに向き直る。
「そうだ、バルサーさんお腹空いてない? そろそろお夕飯を作ろうと思っていたの」
「え……頂いて良いのか?」
「ええ、勿論! 一人で食べるより二人で食べる方が美味しいし、せっかくのお客さんなんだもの! と言っても……ベーコンエッグとパンと、ほんの少しの野菜を使ったスープしか、用意できないのだけれど……」
そう言いながら彼女は卵とベーコン、それからキャベツを数枚キッチンに並べて、ルカもベッドから降りた。
「いや、十分だ。ありがとう。何か手伝うよ」
「あら……いいの? 身体の具合は……」
「ああ、大丈夫さ」
ルカは作業用の手袋をポケットに押し込み、使い古された鍋やフライパンを見て、かなり長い間同じ調理器具を使っているのだな、と実感する。
「ふふ、こうして誰かと一緒に料理をすると……息子が手伝ってくれていた時のこと、思い出すわ」
「そうか、良い息子さんだな。きちんと手伝いをするなんて」
「ええ、とっても優しくて良い子よ。私が仕事に行ってる間にね、洗濯をしてくれているの。あの子、体質的に太陽の光を浴びるのは良くないのに、頑張って干してくれてね……」
それから彼女は、息子のことを語りながら料理を作ってくれた。
母の日には、森で摘んだ花で花束を作ってプレゼントしてくれたこと。
服が破けてしまった時は、自分の服の一部で繋ぎ直してくれたこと。
時折怖い夢を見た時に、泣きながら縋り付いて来た時のこと。
彼女と息子の思い出話を聞いている間、手伝いながらルカがずっと相槌を打ちながら聞いていると、ふと彼女はルカに問いかける。
「バルサーさんのご家族は、どんな方だったの?」
「……私の? ……私は……」
パチッ、パチッ……とベーコンと卵が焼ける音が響く中、ルカは真っ暗な窓の外を少し見つめては、やがて笑いながら鍋のスープを混ぜた。
「……私は、覚えていないんだ。どうしてこの付近に居たのかも、両親の顔も、何もかも……名前でさえ覚えてはいるものの、本当に自分の名前なのか確証もないしな」
「あ……ごめんなさい、私ったら……」
「いや、良いんだ。気にしないでくれ」
彼女は申し訳なさそうに目を伏せながらも、どこか穏やかに笑いながらフライパンに蓋を落とす。
「……でも、きっとバルサーさんの親御さんは、愛情を持ってあなたに接していたでしょうね。そうじゃなきゃ、こんなに礼儀正しい人にはならないもの」
「……愛情、か……」
彼女のように、自分の母や父は……自分を愛してくれていたのだろうか。
そう考えると、どこかチクリと胸が痛むような気がしてきたが、そんな様子を表には出さずにルカは「そうだったら、いいな」と笑う。
「あ、調味料はそこの棚に少しだけ残ってるわ」
「ああ、これか」
そうして二人で食事の準備を済ませていき、やがてベーコンエッグもこんがりと焼き上がった。
「これね、息子の大好物なのよ。夕飯にベーコンエッグを作ってあげると、いつも目を輝かせてお皿を持ってきてくれてたわ。椅子に座って待ってる時も、早く食べたそうにうずうずしててね」
「ハハッ、可愛らしい息子さんだ……」
ベーコンエッグが好き、と聞いて、ルカの頭の中に知らない映像が一瞬だけ流れたような気がした。
『僕の好きな食べ物……? ベーコンエッグだが……それが何だ?』
『……自分でも作れるけど……母さんが作ってくれたのが……一番、好きだった』
ほんの少し頭痛がし始めて、ルカは頭を抑えながら俯く。
(この映像は何だ……? この声は何だ……? 誰と会話している時のものなんだ……?)
ルカが頭を抑えているせいか、女性は心配そうに「バルサーさん……?」と声をかけ、ルカは慌てて顔を上げる。
「あ、ああ、すまない、何でもないよ」
「そう……?」
「……それより、そのベーコンエッグ……何か隠し味とかあるのかい? 家庭ごとに作り方が少し違ったりするだろう?」
「隠し味……って言うほどのものでもないけれど……そうね……卵を焼く時に、フライパンに少しだけマーガリンを入れて風味をつけてるってぐらいかしら……? あんまり沢山買えるものじゃないから、本当に少しだけなんだけれど……それから、息子が胡椒の味が少し苦手だから、塩と胡椒をかける時に胡椒は控え目にしたりしてるわ」
確かに目玉焼きを焼く時にマーガリンやバターを使う家庭もある。
ルカの脳内では、また知らない映像が流れ始めた。
『……荘園の料理も美味しいから、まぁ好きではあるけど……母さんが作ってくれた料理が恋しくなることは、ある……もう、無理だけど』
顔だけが分からないその映像、けれど思い出さなければならないと感じるぐらい、大事な記憶。
(誰だ……これはいったい……けれど、私にとって……とても大事な人なような……)
考え込んでいると、また違う映像が流れ始めたが、今度はきちんと顔が見えたのだ。
『……本当に、僕で……いい、のか……? 化け物なんかが、恋人で……いいのか……?』
色素の薄い傷んだ髪に、ルビーのように赤い瞳、それから白い肌。
痩せこけた頬と高い鼻には傷跡が残っていて、どこか不安そうにこちらを見つめる目……その人物の顔を思い出せた瞬間、ルカはハッと息を呑んだ。
「……アンドルー……」
そう、アンドルー、その人物こそずっと頭の中の映像に居た人物であり、ルカの恋人。
彼の存在を思い出せた瞬間、どこからかアンドルーの声が聞こえてきた。
『カ……ルカ……ルカ……っ』
心配しているような、不安そうな、そんな声が聞こえた時……ルカは自然と彼の所に帰らねばと感じ、女性に向き直った。
「……すまない、こんなに食事を用意してもらって申し訳ないんだが……帰るべき場所を、思い出してしまった」
「……そう、良かった……思い出せたみたいで。行ってあげて、あの子の所に」
「……貴女は、やはり……彼の……」
その言葉を紡ぐ前に目の前が夢の終わりのように白くなり初め、ただ穏やかに微笑む彼女の姿が見えるだけだった。
◇ ・ ◆ ・ ◇
「ルカっ……ルカ……!」
「ぅ……ん……?」
ゆっくりと目を開けると、医務室の天井と心配そうにルカの顔を覗き込んでいるアンドルーが見え、ルカは小さく「アン、ドルー……?」と呼んだ。
「やっと目が覚めた……お前、ずっと寝てたんだぞ……揺すっても声掛けても、全然起きなくて……!」
「んん……? 今って……朝じゃないのかい……?」
「もう真夜中よ、バルサーさん」
シャッ、とベッドのカーテンを開けながらエミリーが入ってきては、呆れたようにため息をつく。
「原因は『バグ』のせいもあるのかもしれないけど……普段何日も徹夜で作業なんかするから、余計に身体が睡眠時間を確保しようとしたんじゃないかって、ナイチンゲールにも言われたわよ。あれほど徹夜はしないようにっていつも言ってるのに……」
「んん……そうだったのか……すまなかったね、ダイアー先生……」
「謝るなら、クレスさんに謝った方がいいわ。あなたが何をしても起きないって、真っ青になってここに抱えて連れてきてくれたし……試合だって他の人に代わってもらって、あなたが起きるまでずっと傍に居てくれてたのよ」
アンドルーの顔をよく見ると、泣いていたのか目元が腫れている。
例え息があったとしてもまったく起きる気配がないのであれば、心配するのも無理は無い。
ルカはアンドルーの手をそっと握り、優しく微笑みかけながら、心配させてしまったことを謝った。
「すまない、アンドルー……心配掛けさせてしまったね」
「っ、本当だ……僕がどんな思いで……今日を過ごしていたのか……!」
「……うん……ごめんな、アンドルー……」
安心したせいか、アンドルーの目から涙が溢れてしまい、ルカにぎゅぅっ……と抱きつく。
ルカはそんなアンドルーの頭を宥めるように撫でながら抱き締め返してやり、その様子を見たエミリーはしばらく二人きりにしようとそっとカーテンを閉めて医務室から出て行った。
「……なぁ、アンドルー。腹は減ってないか?」
「……まぁ……あんまり夕飯も食べなかったし……お前が起きて安心したら……腹は減ってきた、かな……」
「ヒヒッ、私も丁度腹が減ってるんだ。キッチンを借りて、君の大好物のものを食べようか。……作り方を覚えてるうちにな」
アンドルーは大好物と聞いて、ベーコンエッグを思い浮かんだが、作り方なんて大して難しくも無いはずだ。
けれど、ルカは忘れないようにメモをしておこう、などと言いながらジーンズのポケットに入れているメモ帳を取り出しては大事そうにメモをとっていて、アンドルーは首を傾げるばかりだった。
医務室からキッチンへと移り、アンドルーは鼻歌を歌いながらベーコンエッグを作るルカの背中を見ていた。
ベーコンの香ばしい香りとマーガリンの甘い香りが混ざり始め、アンドルーは固まる。
忘れもしない、母がベーコンエッグを作ってくれた時の匂いと同じだったのだから。
やがて卵に焦げ目がつき始めたのか、卵の香ばしい匂いもそれに混じり、火を止めたルカは皿にベーコンエッグを移した。
「お待ちどおさま。冷めないうちにどうぞ」
「……ルカ……これって……」
「ん? 君が好きなベーコンエッグだろう?」
ルカはナイフとフォークを食器棚から取り出してはアンドルーに渡し、アンドルーはごくりと唾を飲み込んでは一口サイズにベーコンエッグを切り分ける。
とろりと黄身が蕩けて皿に広がり、カリカリのベーコンと卵の白身に黄身を絡ませて口に運ぶと。
「……!」
幼いアンドルーがベーコンエッグを頬張っているのを、幸せそうに笑いながら見つめている母の姿が、自然と思い浮かんだのだ。
『アンドルー、美味しい?』
『うんっ! ぼく、かあさんがつくってくれたこれ、だーいすき!』
『ふふっ、良かったわ、そう言って貰えて』
母との温かい思い出を鮮明に思い出したアンドルーは、涙を溢れさせながら小さく呟く。
「……母さんの、味だ……」
ルカは何も言わず、涙を流しつつもベーコンエッグを口に運ぶアンドルーを優しく見守るように見つめ、やがて自分もベーコンエッグを口に運んだ。
「ん……美味いな、アンドルー」
「っ……うん……美味しい……」
何度自分で作っても、この味に辿り着くことが出来なかった。
それなのに、どうしてルカは知っているのか……それが気になって、アンドルーはルカに問いかけてみた。
「なぁ、ルカ……これの作り方……どこで知ったんだ……?」
「ん? あぁ……夢の中でベーコンエッグを作ったような……いや、作り方を聞いたような気がするけど……あんまり覚えてないな。でも、メモにはちゃんと書いたから……君が食べたかったら、いつでも作ってあげられるよ」
「……そう、か……そうか……」
アンドルーはどこか懐かしそうに目を細め、母の味がする思い出の料理をまた口に運んだ。
(……母の味、か。私にもそういうものがあったのだろうか)
少し考えたけれど、やはり両親の顔も声も、一緒に過ごした記憶すらも思い出せなくて、ルカは小さく笑う。
(……なんて……考えるのも馬鹿らしい、か。それに……私には)
食事を忘れがちなルカの為に、アンドルーはよく夜食としてサンドイッチやスープを作ってくれたりする。
ルカにとっては、それだって立派な『愛しい恋人が作ってくれた思い出の味』だ。
「……? ルカ、どうかしたか……?」
「ん? いや……君が愛おしいなって思っただけだよ」
「なっ……なん、だよ、急に……?」
頬を赤く染めながら困惑した様子でこちらを見るアンドルーが可愛くて、ルカはクスッと笑っては「何だろうなぁ」とはぐらかしてベーコンエッグを口に運ぶ。
どうしてあの夢を見たのか分からない。
けれど、『バグ』が関与したのであれば……きっとただの夢では無かったのだろう。
息子の話を……アンドルーの話をする時の彼女の表情や声は、夢で一括りに出来ない程……愛おしさに満ち溢れていたのだから。