Caustics (後編) バーは三方を囲む全てのドアが開け放たれていた。頬を掠める海風は熱気が取り除かれ、その爽やかな空気に安堵する。バーの真ん中には四角形のこぢんまりしたバーカウンターがあり、数人の宿泊客が注文を待っている。バーの角の一つにはデキャンタがいくつか並んでいる。近づいてみると"チリ・ウォッカ"、"フェンネル・ウォッカ"や"シナモン・ウイスキー"などと書かれたタグがかけられていた。かなり興味をそそられる名前だ。後でマーヴに教えてあげよう。
「ご注文は?」
「モヒートを2つお願いします」
「かしこまりました」
絶えず吹き抜ける風は窓際にもたれかけた身体を後ろから優しく撫でていく。陽に晒された素足はビーチサンダルの形に焼けていて、脱いでもくっきりと跡が残り滑稽だ。この調子ならタンクトップやサングラスの跡も残っているだろう。振り返りマーヴがいるカバナへ目をやると、薄いカーテンの向こう側に寝そべっている姿がぼんやりと見えた。本を読みながら、時折周囲を眺めている。彼は声をかけても聞こえない場所にいて、カーテンの向こうの表情はぼやけている。それでもマーヴの匂いが、感触が、話し声が、遠くから見つめるだけで思い出せる。まるですぐ隣にいるみたいに。
「モヒートをご注文の方?」
「「はい」」
同じグラスに伸びる二人分の手。
「わ、すみません」
「こちらこそ」
謝りながら隣を見ると、一人の女性が手を引くところだった。
「すみません気がつかなくて。俺より先に注文してましたよね?」
その女性は先にカウンターにいてカクテルを待っていたはずで、順番を間違えたのは俺の方だった。グラスを手渡すとその女性はにこやかに礼を言って受け取った。すると彼女はこちらに向かって躊躇いがちに話し始めた。
「私も2杯注文したんです」
「へ?」
初対面の人に返すにはあまりにも間抜けな声を聞くと、その女性は笑ってカバナの方へ視線を向けた。
「あなたも彼のためにおつかいに来たんでしょう?」
その視線の先には、読書に没頭しモヒートのことなど忘れてさえいそうなマーヴがいる。
「えっ、ああ…そうです」
「やっぱり」
その女性はアレックスと名乗り、聞けばパートナーと二人でオランダから来たらしい。こちらも自己紹介をすると、二人は俺とマーヴの間くらいの年齢で、二人にも年の差があるのだと教えてくれた。そして彼女はパートナーがいるビーチベッドを指差した。
「あそこにいるのが彼女のミラ…ってうわ、あの人完全に暑さにやられてる…」
「はは、本当だ」
「だからカバナにしようって言ったのに」
海を眺める特等席で、ミラと呼ばれるパートナーは茹だる暑さに溶け出しそうだ。その光景に思わず笑いを堪えきれず隣を見ると、彼女は太陽の下で輝くパートナーの姿に眩しげに目を細めている。他人から見ればあまりに甘く情熱的な視線だが、本人にとってみれば眩しいのは太陽だけではないのだから仕方がない。
「世界にはあの人がいれば他に何もいらないって、こういう気持ちのことを言うのかも」
迷いのない視線をパートナーに向けたまま、彼女は独り言のように呟いた。そこにあるのは二人だけの世界。
「ねえ?ってあれ、あんまり刺さってない?」
「え?」
「キョトンとしてるから、私の話には同意してないのかなって」
「あ〜…いや、そういうわけでは…」
世界にはマーヴがいるのが当たり前だった。俺の世界には初めからマーヴがいた。俺は遠回りしてしまう質だから、彼が居なければ人生は完成しないのだと思い知るには長い時間がかかった。
「…その気持ちはよくわかります」
「でしょう?」
だって…と彼女は再びカバナの方へ目を向けた。
「あなた、さっきから彼のことばかり見てるから」
彼女はこちらに視線を移しながら笑った。
「世界には彼しかいないんだね」
「そんなに見てました?」
「隙あらばね。ああ、あの人に近づいちゃいけないんだなって。大きな番犬に襲われちゃうから」
「番犬に例えられたのは初めてだな」
「ほんと?離れていてもあなたが彼を守ってるのがわかるよ」
そう言って彼女はバーからカバナに続く道を指でなぞった。一方マーヴはページを繰る以外の一切の動作をやめ、すべての意識を紙の上に集中させている。
「彼、気づいてないね。ボーイフレンドがこんなに熱い視線を送ってるのに」
「まあ、気づく人じゃないですから…」
「それはなんとなくわかるかも」
俺の苦笑いに同調する彼女は、同じ性質を持つかもしれない自らのパートナーとマーヴを重ねていた。
「俺の世界にはピート以外に欲しいものはないかな」
「彼、ピートっていうのね」
「あれ、紹介してませんでした?」
してないよ、とアレックスは笑った。
「ピートね…可愛いけどやんちゃで活発な人って感じ」
「すべて正解です…」
確かにマーヴは、その可愛さに油断した隙にとんでもないスピードで飛んで行き、時に俺を巻き込む。だけどマーヴになら、もう一度この人生を振り回されたっていいかもしれない。以前には持ち合わせていなかった、どこまでも彼についていける自信が、今の俺にはあるから。
「俺は彼と出会う前の人生を知らないんです。途中彼のすべてを忘れたい時期があったけど、彼が居ない人生にはもう戻れない」
マーヴが隣に居ない朝など、想像するだけでも恐ろしい。自分がどうなってしまうかわからない。
「てことは、今は二人にとって良い時期なんだね」
「そうです。なんであれ、彼以外を見る気もないし」
アレックスは単なる相槌ではなく同意の意味を込めて頷いた。二人共なかなかのご執心ぶりだ。そしてそれを自覚している。
「私も、欲しいのは彼女だけ。あとはモヒートがあればなおよし、かな」
そう言って彼女はカウンターのグラスを手に取った。二人が注文した残りの三杯が知らぬ間に完成していた。
「それじゃあ青年よ、また見かけたら声かけてね」
「もちろん」
「お幸せに」
「おふたりも」
上機嫌でパートナーの元へ向かうアレックスを見送った。のんびりと歩く彼女に気がついたミラは柔らかな表情で彼女を迎え、立ち上がって彼女にキスをした。
「さて、俺も戻るか」
小さく息を吐き、グラスを両手にマーヴがいるカバナへと戻った。
「マーヴ」
一声かけるとマーヴは一瞬遅れて顔を上げた。陽の中に立つ俺に目を細め、本を閉じた。
「お待たせ、俺の王子様」
ベッドの縁に座ってグラスを渡すと、マーヴは腕を伸ばして受け取った。
「ありがとう、ただし僕は王子様じゃないよ」
「うん、ちょっと呼んでみたくなっただけ」
「なら君も僕の王子様だね」
二人共そんなタイプじゃないけどね、と笑いながら彼はモヒートに口をつけた。カバナの形をした真っ白なお城で、この可憐な人はもう一人の王子様の迎えを待っていた。
「お部屋に帰りませんか、王子様」
「部屋に?まだプールも海も入ってないよ、それにモヒートもまだ飲めてない」
「カクテルは部屋に持って帰っていいらしいよ。それに海もプールもなくなるものじゃないし。だから、ね?」
「…王子様を部屋に連れ込むって?」
「そういうこと」
マーヴは少し考えた後、空いた手をこちらに差し出して尋ねた。
「ならミスター・ブラッドショー、僕をここから連れ出してくれ」
俺は返事をする代わりに差し出された手の甲にキスをした。マーヴは汗ばむ指先を離れかけた俺の手に絡ませ、てんとう虫が歩くように優しく自分の指先を遊ばせた。彼の視線は俺の身体を飛び回り、最後は寸劇を楽しむ俺の目に留まった。そしてもう一度尋ねた。
「君の部屋はどこ?」
「案内しますから、ご心配なく」
立ち上がりビーチを振り返ると、二人の女性がこちらに向かって手を振った。
「さて、こちらが私の部屋です」
すっかり自分の住所となった部屋番号を手で示すと、マーヴは呆れたように笑った。
「まだ王子様ごっこ中?」
「…いや、もう終わり」
王子様キャラとかよくわからないし、やめるなら今か。
鍵を開け中に入ると、ベッドメイキングや掃除はすべて済んだ後だった。相変わらずひんやりとした部屋がこの島で一番心地良い。
「マーヴ、どこ行くの」
「へ?」
部屋に入ればすぐベッドがあるというのに、そこへ倒れ込んだのは俺だけだった。マーヴは両手に持っていたグラスをベッドサイドに置き、そのまま隣の部屋へ向かおうとした。
「荷物の整理を…」
「そんなの後でいいじゃん」
ベッドの端に座り直し、マーヴを呼び止めた。言い訳が下手だよ。マーヴはベッドに腰掛ける俺の脚の間に立ち、両手を掴まれている。顔はそっぽを向いていて、追いかけるように覗き込んでもするりと逃げていく。
「マーヴ」
「…ベッドは整えてもらったばかりだから上がり込むのは良くないよ、ほら、汗だくだし」
「ならこのままでいいよ」
マーヴはしばらく無言で俺と目を合わせ、小さなため息を吐いて隣に座った。
「立ったままで良かったのに」
「…真正面は恥ずかしい」
「今さら?」
「恥ずかしい気持ちというのはいつでも新鮮に感じるものだよ」
「まあわかるよ」
言いながら俺はベッドに深く座り直し、マーヴの首筋に鼻を近づけた。軽く鼻息が当たると、マーヴの首が逃げた。産毛が逆立っている。
「…君は僕の匂いばかり嗅いでどうするんだ」
マーヴの嗜める声はぎこちない。
「好きなの、マーヴの匂いが」
「絶対良い匂いじゃないだろ」
「これが不思議と良いんだよね」
再び首筋に近づき息を吸う。鼻腔を通るのは日焼け止めのむせるような匂いと、潮風とマーヴの汗、そしてアメニティーのボディソープの匂い。さらにTシャツからも洗剤が香る。限界を知らぬ暑さと色鮮やかな海、赤くなった肌に滲む汗、涼やかな風が揺らすレモングラスに、毎日使うお馴染みの洗剤。そのすべてがマーヴ一人の身体に絡みつく。目を閉じ呼吸を続けると、だんだんと彼の奥深くに迷い込んでいくような感覚がする。そしてその先にあるのは、愛しい甘美な幻想。
「マーヴってなんか…夢そのものみたい」
「はは、よくわからないけど、それにはなんて答えたらいい?」
「んー…好きなように答えて」
されるがままのマーヴは一瞬考え、小さく笑った。その間にも俺は彼の首筋にキスを重ねる。
「それなら…"僕は君だけが見られる夢"、はどう?」
「…想像以上に可愛いこと言うね」
予期せぬ愛らしい言葉に、反射的にマーヴの身体から顔を離した俺は彼と目を合わせた。 するとマーヴの目は、わかりやすいほどはっきりと俺の唇をとらえた。
「可愛すぎたかな?なんて」
マーヴは自分の言葉に照れ臭くなり、笑って誤魔化した。
「ははっ、そこは自信持ってよ」
こちらまで妙に恥ずかしくなり、笑って誤魔化す手を使ってしまう。
回るシーリングファンの影がマーヴの肩をかすめ、タオルを畳んで作ったウサギがベッドの上でぎこちない二人を見つめている。ウサギの視線の先で、マーヴが躊躇いがちに口を開いた。
「一つ君に言い切れることがあるとすれば、」
「なに?」
「その夢はもう二度と醒めることはないってことかな」
「そうなの?」
彼の胸中を明確に、そして詳細に言葉にしてもらうため尋ねると、むしろ俺の方が彼に念を押された。
「僕を愛してくれる限りは、ね」
気恥ずかしさを隠しきれぬマーヴの、ほんの少し掠れた声が全身を撫でるように駆け巡る。
上等だ、俺はマーヴと生涯甘い生活を送る覚悟がある。そしてそれは自信とも呼べる。彼を愛するなんて、わざわざ考える必要もないほど当たり前の行為なのだから。さらに言えば、このように予告なく現れる、俺に対する彼の素直で底知れぬ渇望に身を沈め、彼の望む場所へとどこまでも行ってしまいたいとも思う。
「マーヴ以外の人間に愛してるなんて言う気はないよ」
「そんなこと言って、来年には違う人と旅行してたりして」
「あり得ないって、なんでそんなこと言うの」
マーヴは冗談だよ、と笑う。そこには数秒前まで確かに感じていた痺れるような妖艶さは無い。
隠れる場所もないほど外は明るく、気が散るほど海は綺麗なのに、マーヴの手は俺の身体を求めて彷徨っている。
「…マーヴ、してもいいの?」
「ん、いいよ」
文字通り遠慮を捨てた俺はキスでマーヴの口を塞いだ。己の手は彼の太ももを這い、ボタンをとめたシャツの裾から忍び込む。火照った肌が呼吸に合わせて上下する。マーヴの吐息が漏れるたび、俺の頭を掴む彼の手に力がこもっていく。もうすでにどこか天国に近い場所へと飛んでしまいそうだ。俺は今まさに幻想への入口に立っている。マーヴのさらに奥深くへと迷い込むために。彼の身体をベッドへあがらせるため脚に手を伸ばすと、突然マーヴが声をあげて跳び退いた。
「す、ストップ!やっぱりやめておこう…!」
「マーヴ?」
すぐさま両手を離すと、マーヴは気まずそうに視線を泳がせている。
「やめる、やめるけど、大丈夫?どうしたの?」
「いや…その、大したことじゃ…」
「大したことある時の言い方だよ」
責めるつもりはないが、隠し通せるとは思わないでほしい。ぐるぐると泳いでいた視線を俺に留めると、マーヴは意を決して口を開いた。
「脚が…痒くて…」
「へ?」
見ると確かにふくらはぎが他の箇所より赤くなっている。マーヴが水着を捲ると同じように赤い太ももが現れた。日光の刺激で湿疹ができてしまったのだ。特に太ももには掻いた跡があって痛々しい。そっと触れると熱を持っていて、マーヴが一瞬息を止めた。
「すごいことになってんじゃん!?」
「だから触れるのも今は…」
言いながらマーヴは無意識に手のひらで太ももを擦っている。こんなになるまでどうして俺は気がつかなかったんだろう。
「触ると痒い?」
「痒いなんてもんじゃない、他のことに意識が向かないんだ」
「ああ…今みたいにね…」
どうしよう。とにかくさっきまでのことは横に置いて、目の前の傷跡になりそうなマーヴの脚に集中しよう。
「ごめんね、ブラッドリー」
「なんでマーヴが謝んの、俺が気づかなかっただけなのに」
「気づく必要なんてないよ」
「いいから、できるだけ触らないでそのままでいて」
こうなったら早くなんとかしないと。辺りを見渡し対処法を探していると、ベッドサイドに置かれたモヒートのグラスが視界に飛び込んだ。考える暇もなく手を伸ばしてグラスを引っ掴み、マーヴに手渡した。
「とりあえずそれで冷やして、冷蔵庫からも何か出すから」
マーヴは言われるがままに水が滴るグラスを太ももに当てた。ええと、次はどうすべきだ?こんな時に限って氷は切らしている。ミニバーを漁り缶の飲料を数本マーヴに差し出すと、彼はモヒートにちびちびと口をつけていた。
「…あ、これ美味しいね」
目が合うと彼は控えめに笑った。
「マーヴ、そんな余裕あるの?」
「酔えば感覚を誤魔化せるかなって…」
雪山の遭難者のような言葉と共に、マーヴはまたグラスに口をつけた。肌が痒い時に酒なんて飲んでいいのか?
「無理しないでよ」
マーヴは返事の代わりに微笑んだ。幸いと言うべきか、脚以外に湿疹は広がっていないようだ。しかしあと少しでも陽に晒されれば、脚と同じ症状が他の部分にも現れることは素人でも予想できる。早々に部屋には使える物が無いと判断し、客室電話の受話器を取りバトラーサービスを呼び出した。
「あの、45号室のブラッドショーですが…」
マーヴの脚について手短に説明すると、部屋の担当のスタッフはすぐに状況を理解し氷を持って来てくれることになった。
「ねえマーヴ、ついでに何か足りないものはないですかって聞いてくれてるんだけど」
「なら…ルームサービスをお願いしてもいいのかな?」
聞くとスタッフは快諾した。
「メニューは適当に選ぶね」
適当に、とは言いながらも先ほどバーで見つけた軽食のメニューをはっきりと思い出していた。本当はその時から空腹だったのだ。
「えっと、ツナとオリーブのピザと、クラブサンドイッチと…あ、モッツァレラスティックとシーザーサラダもください」
振り返りマーヴに身振りで注文の確認をすると、彼は受話器を通さないギリギリの小さな声で頼みすぎだと嗜めた。二人分ならこんなもんじゃないの?
「はい、ではお願いします…そうです、ありがとうございます」
電話を切ると、マーヴは呆れたような口ぶりで話し始めた。
「そんな量を食べ切れるの?僕は軽食のつもりだったんだけど」
「俺はお腹空っぽだから大丈夫」
「僕はちょっとしか食べられないよ」
「心配いらないって」
マーヴは小さなため息をついた。その手は太ももに乗せられている。
「マーヴ、脚掻いちゃダメ」
気を抜くと無意識に脚を擦ってしまうようで、マーヴはハッとして脚に冷えた缶を置き、両手を挙げた。ベッドの上で脚を伸ばし手を宙に挙げる姿がまるで芸を覚えた子犬のようで、痒みに耐える彼には申し訳ないが、その可愛さに笑い出してしまいそうだった。
「冷やしてる間は少し痒みが和らぐよ」
「そう?良かった、もっと何かあればいいんだけど」
「大丈夫だよ、これくらいの酷い日焼けなら経験あるし」
その経験、俺は知らないけどね。…なんて言葉は今の状況では飲み込むべきだろう。
「売店に何か売ってないかな…小さい店だしな…」
「心配いらないよ、ブラッドリー。ほら、氷を持って来てもらえるんだし」
マーヴは心配すべき時にこそ心配いらないと微笑む人だ。
そこで居ても立ってもいられず、脱ぎ捨てたキャップを被り、サングラスを掴んでパーカーを脇に抱えた。
「マーヴ、ちょっと売店行ってくる」
「え?」
「ホテルの人が来たら対応してくれる?」
「ブラッドリー、僕なら大丈夫だから」
俺は真っ赤な脚のマーヴを見て大丈夫じゃなくなった。
「軽食はバルコニーのテーブルに置いてもらって…日陰で海見ながら食べようよ、ね?」
「…わ、わかった」
マーヴは勢いに押されて何度も頷いた。
「じゃあね、すぐ戻るから」
動き回る俺をベッドから目で追うマーヴの額に一度キスをして、やっぱり足りないともう一度彼に屈み込むと、彼が俺の頬に手を添え唇を重ねた。そして島の景色を凌ぐ美しい目でこちらを見上げた。
「君は本当に、一度決めたら曲げない子だね」
「だってマーヴの緊急事態だし…」
「緊急じゃないよ」
マーヴは笑いながら俺の頬から手を離し、俺の髪をかき混ぜた。
「もう…また俺の髪ぐちゃぐちゃにして…。じゃ、行ってくるから待っててよ」
「ありがとうブラッドリー」
目を細め手を振るマーヴに見送られつつ、パーカーに袖を通しカードキーをポケットに押し込んだ。
ドアを開けると外はカンカン照りで、容赦のない日差しに視界が揺らぐ。胸元を探りサングラスを手に取ると、それはマーヴのものだった。
「まさかこんなことになるなんてなぁ…」
売店へ向かう道中、ビーチをぶらつくアオサギと目が合った。目を逸らし何事もなく散歩を続けるその鳥は、結局家に帰るまでマーヴを抱けないもどかしさも、痛痒い脚を無視してSUPを楽しむマーヴを見守らされる緊張感も、昼間からぬるい泡風呂でシャンパンを開ける楽しみも知らない。だけど、好きで好きでたまらない人と二人きりで過ごす、何もせずとも心が満たされる時間の尊さは知っているのかもしれない。
プールの近くを通りかかると、バーで知り合ったアレックスとパートナーのミラがこちらに向かって手を振っていた。身振りでマーヴはどこかと尋ねるので、こちらも身振りで秘密だと答えた。すると二人は途端に色めき立ち、二杯目であろうカクテルのグラスを掲げて何かをアピールした。ありがとう、でも今マーヴは部屋で昼飯を待っているだけで、色気のある話はありません。
振り返ると見えるのは、橋で繋がる小さな島と立ち並ぶ水上ヴィラ。満ちつつある海は、先を見渡しても海底の白砂が透けている。この海は現実を切り離し、この世界を二人だけのものにしてくれる。深呼吸すれば潮風が鼻を抜け、奥に残る恋人の香気と溶け合う。じりじりと焼けるような陽を浴びて、思うことはただ一つ。
「幸せだ…」