早寝と夜更かし「マーヴ?今何してる?」
『今?そろそろ着替えて寝ようと思って、立ち上がったところだよ』
スピーカーから聞こえる声はいつ聞いても甘い。夜はまだ始まったばかりのはずだが、マーヴはすでにその一日を終えようとしていた。
「早くない?」
『え、そう?』
一方の俺は、さて今夜は何をして過ごそうかなどと考え目が冴えていた。こちらの時刻は日付が変わって1時間ほど。マーヴの時計の針はまだ12のいくつか手前を指していて、日付も変わっていないはずだ。
「マーヴ、明日休み?」
『休みだよ』
この一言でさえ機械越しでなく直接聞きたい。手のひらに収まる小さな機械で、マーヴの甘い声を正確に再生できるとは思えない。
「ならもうちょっと話そうよ、ね?」
『はは、そうだな。坊やはいつも夜更かしさんだからね』
まるで服の裾を掴み物をねだる子どものような話し声。マーヴはそう例えながら笑い、俺を"坊や"と呼んだ。その笑顔だってこの目で見たいのだけど、なにせマーヴはビデオチャットが下手だ。初めこそきちんとカメラを向けて姿を見せてくれるが、途中から完全にカメラの存在を忘れ、何が映っているのかわからない画面を見せられる状態が続くのだ。
『よしわかった。なら少しこのまま待ってて、着替えるから』
「話しててもいい?」
『いいよ、聞こえてるから』
本音を言えば、着替えだってカメラ越しでもいいから見たい。しかしそれはマーヴには高すぎる要求だ。
「…と言っても、話すことあるかなぁ」
『君が話したいんじゃなかったのか』
軽く笑いながら答えるマーヴの声が少し遠くなった。まさに今着替えているのだろう。
『なら聞くけど、君は今何してるんだ?』
「俺?ベッドでだらだらしてる」
仕事が終わって帰宅するなり服を着替え、ジャージ姿でベッドに倒れ込みそのまま数時間。
『君ももう寝るところなんじゃないか』
「いやまだ寝ないよ。スープ用意して、本もヘッドホンも持って来て、テレビのリモコンも近くに置いてる」
『準備万端みたいだけど、眠くならないか?』
「子どもじゃないんだから」
きっと幼いブラッドリーはベッドに入ると眠くなる体質だったのだろう。マーヴはハッキリそうとは言わないが、なんとなく言いたいことがわかってしまう。
「なら俺も質問。今日は一日どうだった?怪我しなかった?」
『怪我はしてないよ、部下には嗜められたけどね』
「…一体何をしたの」
『秘密』
次会ったら絶対聞き出してやる。なんならマーヴの同僚や部下の連絡先を手に入れた方がいいかもしれない。何をしでかしたら部下に怒られるんだ…?
『まあ、良い一日だったよ。今日の分の仕事もこなして、明日の分の買い出しも済ませて』
「ならよかった」
一部良くないところはあるが、マーヴにしては静かで平和な一日だったはずだ。なかなかおとなしく出来ない人だから。
『君は?どんな一日だった?』
優しく問いかけるマーヴの声は、ベッドで聞くにはぴったりの音色だ。
「まあまあかな」
『悪くないなら十分だね』
「あ、でも、俺とは直接関係ないんだけどさ、」
話が展開されようとする気配に、いつの間にか着替えを終えていたらしいマーヴが話に身を乗り出した。姿は見えていないが俺にはわかる。
「たまたま近くにいた上官がさ、部下を呼び寄せる時に間違えて自分の息子の名前を呼んじゃうところを目撃してさ、しかもニックネームで」
『ははっ、本当に?』
「その人、めちゃくちゃ恥ずかしそうにしながら部下と話してて、部下も吹き出しそうで」
『だろうね』
「なんか俺、それ見ながらマーヴのこと思い出したんだよね」
『僕を?』
キョトンとした声が、冷めたスープを啜る傍で聞こえる。
「マーヴもそっちで同じようなことやってそうだなって」
するとマーヴは一瞬沈黙した。図星か。この沈黙こそ彼が今日の上官と同じことをしている何よりの証拠だ。口を開いたマーヴの躊躇いがちな説明によると、実際これまで何度か部下に"ブラッド"と呼びかけたことがあるらしく、もはや部下たちは誰も驚かずただ優しく訂正してくれるようになったという。そういう情報は俺にも欲しい。
「…やっぱりマーヴの同僚か部下の連絡先は必要だな」
『え?』
再びマーヴはキョトンとしたが、今度は彼をそのままで置いておくことにした。マーヴはそのままでいてくれていいんだよ。連絡先はなんとかツテを使って手に入れるからさ。
俺が何も教えずただ"なんでもないよ"と答えると、スピーカーからゴソゴソと雑音が聞こえた。ベッドの端に腰掛けていたマーヴがどうやらベッドに入ったらしい。まだ時間はそんなに経っていない。このまま寝られると困るのだけど。
「マーヴ、次の休暇は何したい?」
彼が夢の中へ連れて行かれる前に、もう少しこちらの世界にいて話してもらうことにした。楽しみなこと、一緒にやってみたいこと、密かに計画していたこと。もしマーヴの頭の中にそんなことがいくつかあるのなら、今教えてほしい。
『そうだなぁ…どこか遠くに出かけてもいいんじゃないかな。行ったことないほど遠くに』
「それ、俺も行くの?」
『えっ、行かないのか?』
「いや行くけど」
『じゃあなんで聞いたんだ』
「ごめん、ちょっと言ってみたかっただけ」
不思議な子だな、とマーヴは小さく呟いた。その言葉は、聞いたこちらがうっとりしてしまうほどの慈愛の響きに満ちていて、これだから変な口を挟むことをやめられないのだと改めて思わされる。マーヴが俺を"不思議な子"と呼ぶのは、俺がマーヴを"懲りない人"と呼ぶのと同じ。相手の変わらない部分を愛おしいと思うこと。
『なら君は?ブラッドリーは次の休暇はどうしたい?』
「俺?」
『ああ、質問者の考えも聞こうじゃないか』
その声には期待の色が滲み出ていて、どうにも可愛くて仕方ない。話に乗り気なマーヴは最高の話し相手だ。
「俺は次は2人とも長めの休みを取って…」
『おお、休む気満々だね』
「そりゃ当然」
実現する見込みはそこまで高くはないが不可能でもない、そんな期待値の計画を話すことにした。夢とも呼ぶべき計画もあるが、それは直接会えた時に話したい。それまで仕事を頑張ろうと約束し合い、そして再会したのち易しい計画から実行に移すのだ。2人の仕事にモチベーションは不可欠だから。特に離れている2人には。
「マーヴも遠くにって言ってたから、外国で羽伸ばしたいかなって」
『うんうん』
マーヴは電話越しに相槌を打つ。途中で話を止めたりはしない。
「定番のビーチリゾートもいいけど、山も悪くないよね。スイスの山岳リゾートもこの前調べてみたんだけど」
俺の検索履歴には、マーヴと行きたい旅先をリストアップするための有名リゾート地の名前が並んでいる。たまにアレなオモチャの名称が挟まれているが、基本は仕事中であろうとなかろうと、頭の中はマーヴと過ごす特別な休暇の妄想でいっぱいだ。
『確かに海以外の場所にも行ってみたいね』
「でしょ?あと都市部の旅行も悪くないかなって。国内だけどニューヨークみたいな定番も経験したいし」
『迷ってるね、ブラッドリー』
マーヴの返事が心なしか先程よりゆったりしている気がするが、こちらの話はまだ終わりそうにない。
「南米も面白そうだよ。それこそ高地のリゾートでさ、ヨーロッパ以外の山岳地なら南米も有名じゃん?ん〜…でもやっぱり海も入りたいな…」
悩むこちらの話に、マーヴの相槌は確実に小さくなっている。
「アジアならバリ島かな…滞在期間を半分に分けて、前半をビーチで後半を山のある地域で過ごす、みたいなのもアリだし」
メモアプリに書き込んだ旅先リストを読み上げ一カ所ずつ説明しながら、妄想を現実化する最適な方法やルートを探る。だがどれだけたくさんの案を持っていようとも、結論はいつも同じだ。
「…色々言ったけど、マーヴはどう思う?1人で決めたくないし、やっぱりマーヴの意見を採用したいよ」
…返事はない。
「マーヴ?おーい、マァ〜ヴ?」
いくら呼びかけてもスマホは沈黙している。何度確認しても通話は繋がったままだし、スピーカーもオンにしたまま。そこでじっと耳をすましてみると、小さな寝息が聞こえる。
「…寝たな?」
マーヴがとうとう寝落ちした。時計の短針はいつの間にか進んでいて、マーヴも向こうで日付を越えた頃だ。仕方ないといえば仕方ない。西海岸のおじさんは早寝だから。
一方のこちらは日付が変わって久しい。しかし意識と目は相変わらず冴えていて、このまま夜を明かす準備はできている。
いまだ明ける気配のない、起きているにはあまりに長い夜。そんな夜を共に過ごしたかった相棒は先に眠ってしまった。その寝息を聞きながら、次に彼に会える日を待ち侘びることになりそうだ。
微かに聞こえるマーヴの寝息は穏やかだが、その寝息が聞こえるのは隣からではない。
上下に揺れるシーツの山、そこから漏れる呼吸音、自分のものではない誰かの香り、床に脱ぎ捨てられ忘れられた真っ白なTシャツやジーンズたち。今はそのすべてが恋しく、そのすべてをこの手で感じたい。また彼を抱きしめる日まで、早寝の恋人を想いながら一体いくつの夜を過ごすのだろう。
「…もう一緒に暮らさない?マーヴ」
返事は直接聞くつもりだ。