帰り支度 思えばブラッドリーは、僕の知る限りずっといい子だった。
大人の助けが必要なほど幼い頃から、ブラッドリーは他者を助けることに躊躇いがなかった。家の中では着替えを手伝ってもらっていた子が、外では道端でひっくり返った虫を草木がある場所まで戻してやり、公園では転んだ子に駆け寄り、大丈夫かと声をかけた。小さい頃は家族や僕以外には少し内気だった坊やは、転んで落ち込んだその子を控えめな態度で誘い、一緒に遊んで回った。そのうちその子は坊やの友達になり、名前と住所を教え合った。
学校に通い始めてからも、ブラッドリーは何も変わらなかった。忙しいキャロルに代わって保護者面談に出席すると、先生からは驚くほどよく坊やを褒められた。「クラスメイト同士の喧嘩を止めて、仲直りまでさせたんですよ」また、意地悪されている子がいれば常に一緒に行動し、いじめっ子にも怯むことはなかったという。優しくて強い心を持ち、それを家族や僕以外にも分け与えられる子。先生の話を聞きながら、僕は誇らしさで胸がいっぱいだった。僕が坊やを育てたわけでもないのに、すぐにでも彼をハグしたくてたまらなかった。帰宅してキャロルに報告する間、僕の隣で話を聞いていたブラッドリーは嬉しそうに小さな鼻を膨らませていた。褒められるためにしているわけではなかっただろうが、それでも大人2人に口々に讃えられることは、彼にとっても大きな喜びだったろうと思う。
「えらいわね、ハニー」
「君はいい子だ」
そして僕は、その時のブラッドリーの笑顔を今でもよく覚えている。
そう、ブラッドリーはいつでも僕の自慢だった。成績優秀で、快活で、友達以外にも平等に優しく、不正義を見逃さない。きっと僕が彼のそばにいなかった時も、彼は彼のままだったと思う。僕にひどく裏切られても、僕を憎んでも、僕以外の全員にさえ優しければ、それが本当のブラッドリーだ。
「大佐、ここに置いていいですか」
「ああ、ありがとうルースター」
そうして今、ルースターと呼ばれるようになった坊やは僕のオフィスを歩き回っている。ノースアイランドを離れる日。基地に保管しておく記録や報告書を選り分ける僕のそばで、ブラッドリーは持ち出す荷物をまとめる役を買って出た。
手伝いを申し出たのはブラッドリーからだった。「ミッチェル大佐、荷造りは終わりました?」僕は素直に終わっていないと答えた。ブラッドリーは僕の答えを聞いてホッとしたように微笑んだ。その穏やかな表情を見ると、荷造りはもう終わったなんて、余裕ぶった返事をしなくてよかったと心底思った。どうして彼が手伝いを申し出たのかはわからなかったが、彼の手を借りられるのはありがたかった。それぞれの基地に帰るまでのわずかな時間を、ブラッドリーと話しながら過ごせるからだ。
「……サー」ブラッドリーは控えめに僕に呼びかけた。
「どうしてそんな呼び方をするんだ? "マーヴ"と呼べばいいだろう」
僕は思わず笑ってしまった。部屋には僕とブラッドリーの2人きり。僕を"サー"と呼ばないことを無礼だとは思う人間はどこにもいない。ブラッドリーは僕を見たまま黙り込み、ため息をついた。
「上官は普通、基地にいる間にそんなこと言わないんだよ」
「だけどこういうことは上官から言い出さないと」
それはわかるけど、とブラッドリーはぶつぶつ呟く。
「マーヴ」
「ん? どうした」
「別に、呼びたくなっただけ」
小さな声で答え、ブラッドリーは来客用の椅子に腰を下ろした。膝の上で頬杖をつき、デスクの中を整理する僕をじっと見つめる。緩やかな波を作る彼のブラウンヘアが、窓からの風を通してゆらめく。顔の半分が影になり、陽に照らされた方の目とまつ毛が透けて輝いている。
君はいい子だな。そんな言葉が喉まで湧き上がり、舌の上で止まった。優しい坊やの笑顔が、サービスカーキに身を包んだ目の前の彼に重なる。
「ブラッドリー」
「なに」
「これが今生の別れではないけど、少し寂しくなるな」
ようやく彼と目を合わせて話せるようになったと思ったら、もうお別れの時間だ。しかも最後に僕を手伝ってくれるなんて。これではますます離れ難い。
「仕方ないよ、任務も終わってチームも解散だし」
「君はクールだな」
いつの間に成長したのか、この時間を惜しむのは僕ばかりで、ブラッドリーは平気そうに淡々と答えた。そりゃそうか、目の前にいるのはもう昔の彼ではないのだ。無意識にいじっていた書類の端が、くしゃくしゃになって丸まっていた。
「……ほんとに俺のことクールな奴だと思ってる?」
「え?」
「マーヴ、こっち見て」
するとブラッドリーは立ち上がってデスクを回り込み、椅子に収まる僕に向かって屈み込んだ。窓を背にして立つ彼の顔が影になって迫ってくる。
「俺の目を見て」
「み、見てるよ」
「この目を見ても、まだ俺が冷たい奴に見える? 寂しさも感じないような奴に?」
僕を見つめる彼の目の中で、あの頃と変わらない小さな光が揺れた気がした。
「……わ、わからない」
「わからない? 俺はね、マーヴが思うよりもっとずっと寂しい。マーヴが俺のことをブラッドリーって呼び間違うたびに、心がマーヴに近づいていくんだよ」
呼び間違う? 君の名前はブラッドリーじゃないか。
「俺は冷たい奴じゃないけど、ずるい奴なの。ここでマーヴを独り占めしたくて、だから今日あなたを手伝おうかなんて言い出したの」
僕は一体、なんと答えればいいのだろう。僕を手伝いたいという申し出は親切心からじゃなかったのか、なんて言って、彼を責めればいいのだろうか。僕は心優しい頃の君を知っている。だけど君をよく知っているからこそ、その目に浮かぶ色が優しさだけの色でないことも、視線を合わせればわかってしまう。
「俺、マーヴの前ではずっといい子だったよね」
「そ、そうだな」
「ごめんね、俺もういい子じゃないかも」
ブラッドリーは力の抜けた様子で笑った。その天使のような微笑みには不釣り合いな、自分の身体よりも大きな感情が影をのぞかせる。
「お願いマーヴ、帰る前に一つだけ、一つでいいから俺の願いを叶えて。荷造りくらいじゃ足りないのはわかってる。他に何をすればいい? なんでもするから、俺に幸せな思い出をちょうだい」
ブラッドリーは膝をついて僕の手を握った。
「……君の願いを先に聞こうか」
もはや何を言われても構わなかった。"マーヴが思うよりもっとずっと寂しい"? それなら僕だって、"少し寂しくなる"どころではない。
「マーヴの身体を、俺に預けてほしい。ここで、この場で。"好き"って言ってほしい。嘘ならいらない、でもマーヴだって俺のこと好きでしょう? まさか、それを言わずに帰る気じゃないよね」
ここには誰もいない。公私を分けなくたって、誰も僕たちを見ていない。僕たちが何をしたって、どうせ誰にもわからないじゃないか。
ブラッドリーは小さい頃からずっと、変わらずいい子だった。人望があって、思いやりに満ちて、人のために動いて。
「ねえ、いいよって言ってくれる?」
だけど僕の心を見透かし、自らの欲のために僕の身体に触れる今の君はもう、いい子なんかじゃない。
「……ブラッドリー、君は悪い子だ」