この画面を越えて 技術の進歩というのは凄いもので、日々人類の生活を変え続けている。……まあ、俺がその進歩に感謝しているのはそんな壮大な理由ではないけれど、どこかの誰かの発明が、俺に幸せをもたらしていることは言っておきたい。
ラップトップの電源を入れて、通話画面を開く。発信音が鳴れば、たちまち大陸の端にいる恋人と顔を合わせられる。これこそ、ロボット掃除機やスマートスピーカーよりも俺が望む技術の進歩だ。
「Hi マーヴ」
画面の向こうの恋人に手を振ると、彼は同じようにこちらに手を振り返した。そして俺の背後の景色をぐるりと眺めて、変わりはないか、俺に直接尋ねる前に予想を立てる。
「やあブラッドリー、変わりはないか?」
そうして俺に尋ねる。変わりはないよ。そう答えると安心したように返事をする。そうか、僕も変わりはないよ。
「ああでも、変わったことといえば、マーヴに会いたくてたまらないことかも」
ふと思いついたので言ってみると、マーヴは眉を下げて首を振った。
「"変わりないか"っていうのはそういうことではないよ」
「でも前に話した時よりマーヴのことがうんと恋しいよ」
画面の前で肘をつくと、マーヴもつられて肘をついた。これは変わったことには入らない? だって、話すたびにマーヴに会いたくなる。その気持ちは昨日より今日の方が強い。そしてたぶん、今日より明日の方が強くなる。
「……だったら、僕も変わりはあるよ。前に画面越しに君の顔を見た時よりもっと君に会いたい」
マーヴは俺の理屈を受け入れ、さらに正直にその気持ちを打ち明けた。やっぱり、変わりならあるじゃない。
「僕が聞きたかったのは、風邪を引いたり怪我したりしてないかってことだったんだけど」
「それなら平気、身体の方は変わりないよ」
見ての通りぴんぴんしている。画面には映らない脚の骨だって折れていないし、喉が痛くなるようなこともない。変わりがないのはマーヴも同じらしく、上官に怒られる日々を送っているのも相変わらずで、こんなにも怒られていたら風邪を引く暇もないらしい。俺にはその言葉がどういう意味なのかはわからないけれど、マーヴが元気だと言うのならそれで十分だ。
そして他愛もない話が始まる。日記を書くみたいに、その日あったことを、思い出した順番に話していく。俺は今日は二度寝をしてしまって、だけど遅刻はしなかった。アラームを二つ設定していたから。二度寝を前提とした俺の行動に、マーヴは「気をつけろよ」と笑った。心配ないよ、俺は大人だから、と笑って返す。それから昼はデザートにカボチャのタルトが出て、カボチャが苦手な同僚の分まで食べさせてもらった。訓練はまあ、普通かな。マーヴは詳しく聞きたがるけれど、特にわくわくするようなことは起きなかった。それよりも昼に食べたタルトの味が忘れられなくて、どうにかして明日も食べられないかと考えることで忙しかった。大人だって甘い物には弱い。特に俺は。あとは……なんだっけ。そうそう、帰りはスーパーに寄って、晩飯を探したんだ。そうしたら俺、気づいたらタルトが売ってないかスーパーの隅々まで探してたんだよね。店の中を何周もするから店員に変な目で見られてたと思う。だけど残念ながら売っていなかった。マーヴは"幸い"って言うのかもしれないけど。
「……それから適当に晩飯食って、シャワー浴びて一息ついて、可愛い恋人と通話して、この画面を越えて彼に触れられないかなって、今は考えてる」
マーヴは俺の長い報告にただ一言「そうか」と答えた。
「マーヴは? 今日何したの?」
尋ねるとマーヴは身じろぎした。少しずつ一日を振り返りながら、優しい声で話し始める。
「今日は五時に起きて外を走って、汗をかいてシャワーを浴びて……」
ああもう、俺もそのシャワーに参加したかった。そう呟くとマーヴは呆れて話を止めた。それならランニングから参加すべきだよ、とのお言葉。走るのはいいよ、話を先に進めて。マーヴの意識はまた今朝のハンガーに舞い戻る。それからはテスト機の開発チームとミーティングをして、訓練のメニューも練り直した。昼はデザート抜きにした。午後も午前と同じメンバーでミーティング。
「今日は飛ばなかったの?」
「ああ、飛べなかったんだ。機体のメンテナンスに時間がかかっているらしい」
口調は平気そうだけど、マーヴの心の中はわからない。きっと落胆しただろう。この人は毎日飛ばなきゃ生きていけない。
「それから早めに夕食を済ませて、可愛い恋人の通話に出て、今に至る」マーヴは微笑んだ。「あと……今日一日ずっと考えてたことはね、今頃ブラッドリーはどうしてるかな、ブラッドリーも僕のことを考えてくれてるかなって」
ああ、技術なんてまだまだ進歩できているとは言えないな。だって、どうしてラップトップの画面は硬いのか。どうしてこの画面を突き破って、マーヴに触れられないのか。俺のことを話す時の、世界で一番優しいマーヴの笑顔を、この薄い機械は別世界の出来事のように映し出してしまう。
「俺もマーヴのこと考えてたよ、タルトのことよりもっとたくさん」
マーヴは笑った。だけどその笑い声は、スピーカー越しのこもった音。目を細めて俺を見ているのに、カメラはマーヴの虹彩をはっきりとは映してくれない。直接会えばもっとよく見えるのに。マーヴの目に映る自分の姿だってわかるかもしれない。ここで今わかるのは、マーヴに触れられないことだけ。
「早く画面越しにもマーヴに触れたり、匂いがわかるようになればいいのに。そんな技術はまだないのかな」
この願望が実現する望みは薄い。
「残念ながら、まだないね。そんなことを望むより、二人で家を探して暮らし始める方がきっと早いよ」
「そりゃそうだけど……それだってまだまだ先の話でしょ? 俺は今すぐマーヴに会いたいんだよ」
「ブラッドリー、僕は遠い未来の話はしてないよ」
マーヴは珍しく俺の話に割って入った。それから俺の顔から少し視線を外した。俺の背後に置かれた時計を確認したのだろう。どうしてわかるのかといえば、それまでマーヴはずっと画面の同じ場所を見ていたから。その場所に映っていたのはたぶん、俺の顔だ。マーヴは詳しく話す前に、西海岸より三時間先を生きる俺の"おやすみの時間"を気にしていたのだと思う。
「へえ、どういうこと?」
だから俺の方から話を促す。幼い子どもじゃないのだから多少遅くまで起きていることくらい平気だし、夜が遅いことを理由にマーヴの話を先延ばしにされるのは嫌だから。今ここで話を聞かなければ、それこそ気になって眠れない。
「あー……その、」マーヴは言葉を探しながら話を続ける。「僕と一緒に暮らさないか?」
「え?」俺は間抜けに聞き返す。通信は問題なく繋がっているのに。
「君のいる東海岸で、君と二人で暮らしたいな、と考えていて……」
マーヴは穏やかな視線を自らの手元に向けた。何か考えている時、緊張している時、マーヴは手をしきりに動かす癖がある。
「以前から少しずつ仕事を調整していたんだ、そっちでも同じ仕事ができないかどうか。……まだ君の返事すら聞いていないのに」
そう言って自嘲気味に笑って、マーヴは再び顔を上げた。
「もちろん、君がダメだと言えば勤務地は変わらないし、このままお互いの場所で付き合い続けることも構わないと思ってる」
俺はさっきまで叶わない願いを溢していたはずなのに。知らない間に動き始めていたマーヴの計画が、俺の元に落ちてきた。予想すらしていなかった時と場所で。
「僕は自分だけで考え込んで先走る質だから、こういうことは前もって見通しをつけておきたくなるんだ」
だから君には黙っていた、とマーヴは呟いた。最後に「ごめんね」と言い添えるマーヴの声は話し始めた時より更に小さくて、だんだんと自信をなくしかけているのがわかった。
「ブラッドリー? 今の話、全部聞いてた?」
「聞いてた、聞いてた」
マーヴは安心したように笑った。それから俺の答えを待つ緊張感が、閉じられたまま波打つ口元に浮き上がる。
「それで……どうかな、僕がそっちで君と暮らすことと、画面越しに相手に触れられる技術が発明されること、どちらが先だと思う?」
意を決して開いた口が再び閉じられる。俺のぼやきより尊いマーヴの問いかけ。
「ふふ、そりゃあマーヴの方がせっかちでしょ?」
マーヴは再び肘をついた。綻ぶ頬を隠すように手を添えて顔を支えている。
「当たり前だろう、僕をなめてもらっちゃ困る」
スピーカー越しにもマーヴの声が弾んでいるのがわかった。たしかにマーヴの行動力は尊敬に値する。だって、仕事まで一緒に東海岸へ連れて来る気だなんて。しかもすべて俺のため。俺だけのため。ある意味、技術の進歩よりよほど先を進んでいる。
「でも大丈夫なの、マーヴの都合でプロジェクトごと移動するなんて」
「大丈夫だよ。設備ならあるし、この計画には僕の存在が不可欠だ。だから僕が仕事をこなせる場所に合わせてくれるよ」
さすがマーヴ。そんな無茶が言える人はマーヴしかいない。
「二人で一緒に暮らせば、その日にあったことも直接目を見て話せるよ」
「わあ、それって最高」
マーヴはうっとりとした俺の声を可笑しがり、「ああ、最高だよ」と俺の話し方を真似した。
「それにマーヴの匂いもわかる」
「……清潔感を保つ方法を学んでおくよ」
そんなのいいのに。むしろ会うたびマーヴからは石鹸の匂いしかしない。汗をかいても酒を飲み過ぎても、俺はマーヴの匂いを感じたい。同じ家に住めば感じられるのかな。どんなことをしても、どんな姿になっても、マーヴが同じ家にいるのなら。
「やっぱり、一緒に暮らすことが一番いい方法だよ」
「理解してくれて嬉しいよ、ブラッドリー」
今お互いが手を伸ばしても、硬い画面にぶつかるだけ。音声はクリアには聞こえないし、漂う匂いの元は毎日使う自分のシャンプーだ。画面を破って相手に触れられたら。だけどその前に、二人で同じ家に住めたら。一つ屋根の下でマーヴに触れて、本物の声を聞いて、抱きしめて匂いを感じられたら。
わざわざたいそうな技術は必要ない。俺は今夜だけで何度考えを変えた? もちろん、一緒に暮らしてからでも離れることはあるだろう。だけど毎日マーヴと同じ部屋で共に過ごし、大陸の反対側へ別れる必要がないのなら、技術の進歩ももう少し先延ばしになっても構わないのかもしれない。