Sing for me 幸せだと感じる時、聞こえてくるのはいつも彼の歌声だった。
ブラッドリーは歌が上手い。ピアノも弾ける。彼の父親もそうだった。二人揃って音楽の才能があった。だけどそれをブラッドリーに伝えると、彼はこう答えた。「俺が親父と違うのは、俺はマーヴを惹きつけるために歌ってるってこと。俺の歌声はマーヴのためにあるの」だから同じにしないで、と彼は笑った。
繋ぎっぱなしのビデオ通話で、かつて僕たちは会話もせず黙って時間を過ごした。ブラッドリーは料理をして、僕は洗濯物を片付けて。お互い画面なんてあまり見ていなかったと思う。自分が映っているかどうかも気にしていなかった。ただ画面上で繋がってさえいれば、二人の時差も距離も忘れてしまった。時々思い出したように画面を見ると、ブラッドリーはナイフや缶切りを持ったまま、同じタイミングで僕の様子を確認しに来る。そして安心したように微笑み、また画面の前から消える。それを何度か繰り返していると、そのうち彼の歌声が聞こえてくる。
「ねえマーヴ、この歌知ってる?」
「いや、知らない。どうせ最近の曲だろう?」
「うん、そう」ブラッドリーは歌を中断し、くすっと笑う。「マーヴにも聴かせておかないと、流行りの曲なんて一つもわからないでしょ?」
一つも、とブラッドリーは強調した。そんなないよ、と反論でもしようかと思ったが、たしかにラジオで流れているような新しい曲に聞き覚えがあるのは、すべてブラッドリーから教わったからだった。
「流行りの曲を知れたとしても、全部君の声で覚えてしまうんだけど?」
「それの何がダメなの?」
ブラッドリーは冗談ぽく返した。ダメなことはない、と僕が言うことをわかっている言い草。
それから彼はまた続きを歌い始めた。料理が完成することへの喜びと、抑えきれない機嫌の良さが、いつもより上手な歌声に乗って僕の部屋まで届けられる。僕は再び、ブラッドリーの声を聞くことを許されたのだ。彼の嬉しい時の歌声を、時々僕との会話のために途切れる最新の曲を。ご機嫌な歌声は伸びやかで、僕は何度も"この声を近くで聴いてみたい"と願った。
そして僕の願いは叶った。しかしその声はいつも聴いていたのと少し違った。それは酒に酔った声だった。
そこは賑やかなバーだった。僕もブラッドリーも、ようやく会えた喜びからひとしきり浮かれて飲んだ後で、声も気も大きくなっていた。そんな時、僕はバーの壁際に古いアップライトピアノを見つけた。
「見てブラッドリー、ピアノがある」
「ああうん、そうだよ、あれは誰でも弾いていいことになってんの」
誰でも、という単語が僕の耳に都合良く引っかかった。
「だったら君に頼みがある」
この言葉にブラッドリーはどきりとしてピアノに目を向けた。それから彼は僕の気を逸らすように、僕の髪や頬に優しく触れた。
「マーヴ、今日はやめとこうよ」
「いいや、君の歌を聴くまで帰らない」
「マーヴ」
「一曲でいいから歌ってくれないか。僕のために」
ブラッドリーは"僕のために"という言葉に弱い。僕はそれをわかっていて言ったのか、今の記憶では定かではない。どうやら自分は案外あざといらしいので、もしかすると彼の弱さを突いた自覚はあったかもしれない。だけどここでそれを認める必要はないだろう。だって、今思い出したいのはブラッドリーの歌声だ。
「ほんとに一曲だけだからね」
ブラッドリーは振り切るように僕にキスをして、ピアノへと歩み寄った。椅子に腰かけ、ピアノの鍵盤蓋を上げペダルに足をかけると、彼の指は鍵盤の上を踊った。指慣らしの音が聞こえると、客の注目は一斉に彼に集まった。彼は僕を振り返り、こっちへ来て、と眉の動きで訴えた。
その時ブラッドリーが歌ったのは、僕の知っている曲だった。僕だけでなく客の多くもその曲を知っていた。一度演奏を始めると、彼は照れくささなど捨てて幸せそうに歌った。僕を見つめて、時々手元の鍵盤を確認する、そんな彼の目は何よりも優しく綺麗だった。肝心の歌声はといえば、スピーカー越しに聴いていたよりほんの少し下手だったと思う。酔った勢いで音を外し、持ち直したと思えば歌詞を間違え。……いや、ちょっと待った。それは僕の声だったかもしれない。とにかく僕はまた願ったのだ、"彼の声をこれからも近くで聴き続けたい"と。
当然ながら、同じ屋根の下に住むようになってからブラッドリーの歌声を聴くことはぐんと増えた。彼が小さかった頃は、家の中で歌を歌うのは両親の役目だった。時々は僕も歌ってみたりして、音が違うと指摘された。しかし大人になって久しいブラッドリーは、両親に劣らず(むしろ彼らよりずっと)よく歌う子になっていた。
ブラッドリーのライブ会場はたいていシャワールームだ。シャワーの水音の中でも、彼の歌声は部屋の外まで漏れてくる。選曲はその日の気分だが、アップテンポな曲でもバラードでも、彼はとにかく熱唱する。例えば前奏から丁寧に口ずさむこともあれば、好きなフレーズだけを選んで何曲も入れ替わり歌うこともある。僕は微かに聞こえる彼の歌声を頼りに、その曲のタイトルを思い出すのが好きだ。難しい時は記憶力を試されるし、すぐにわかる時はなんだか嬉しい。そんな僕の習慣など知らないブラッドリーは、すっきりした表情で僕の前に現れる。
「ブラッドリー、また髪が濡れたままじゃないか」
「あー、うん」彼はくしゃくしゃと髪を梳く。
「この後買い物に行くんだぞ?」
「うん」
「……僕が乾かしてやろうか」
「マジ? やった」
僕の提案が想定外だったようなふりをして、ブラッドリーはベッドの端に腰かけドライヤーの風を浴びた。その風の音に紛れて、僕はシャワールームから聞こえたのと同じ曲を口ずさんだ。音は外しているが、僕以外には聞こえていないのだから気にする必要はなかった。
その後買い物へ出かけても、耳に届くのは小さな鼻歌。ブラッドリーはスーパーでカートを押しながら、棚に並んだ商品を眺めて歩く。遠くに聞こえる他の客の話し声と変わらないほどの小さな音量で、僕と彼自身にしか聞こえないハミング。そして時々歌が途切れる時には、彼は必ず何かを見つけている。熟した季節のフルーツ、商品棚の一番下段に並ぶ目当ての調味料や、美味しいに違いないキャンディーのアソートセット。それらを見つけたブラッドリーの息が抜けるような短い笑い声も、鼻歌と同じくらい心地良い。楽しげな彼の声に乗せられて、僕までいらないものを買ってしまいそうになる。
「ねえマーヴ」
「どうした」
「このBGM、さっき俺が歌ってた曲だよね」
「ん? ああ……本当だ」
「すごい偶然じゃない?」
ブラッドリーは小さく笑い、僕にカートを任せてシリアルの売り場へ向かった。彼の鼻歌は遠ざかり、また僕の元へと戻ってくる。
ああ、こんな生活が死ぬまで続いたなら。そうすれば僕はもう、この人生に何も言うことはない。
僕のこの先の人生に文句はない。死ぬにはまだ早いが、僕はすでにこれから待ち受ける日々の素晴らしさを確信している。なぜなら、これから聴く彼の歌声がそれを保証してくれるはずだから。
新郎がマイクを持ち、シャンパンで赤くした顔を僕に向ける。招待客のテーブルの最前席に僕を座らせ、首元のボタンを外したドレスホワイトで歌うブラッドリー。歌い始めはいつか聴いたバーでの声よりもさらに緊張気味で、アルコールの力に頼りきれていなかった。だけど一生に一度の場面で、マーヴの前で愛を歌うことを躊躇してどうする? 今の彼の晴れやかな表情からはそんな考えさえ読み取れる気がした。なぜなら彼は周囲の招待客には目もくれず、たった一人、僕だけを見つめ続けていたから。"girl"を"man"、"bride"を"groom"に変え、少し語呂が悪くなったその曲は僕ですら古いと感じるが、僕たちの絆が普遍的で価値のあるものだと実感するには十分だ。涙がこぼれる前に目を拭って視界を晴らすと、吹っ切れた様子のブラッドリーは歌詞に合わせて僕を指さし、満面の笑みを浮かべている。だから僕もつられて笑い出す。"永遠の愛"なんていう大仰なものは、歌の中だけに存在するわけではないらしい。
「こんな古い曲、どこで知った?」
「内緒!」
ほんの短い間奏で今日何十回目かのキスをしにこちらに駆け寄ったブラッドリーは、僕の質問に明るく答えた。そんなブラッドリーの笑顔が眩しくて、僕は彼の首を掴んで屈ませ、固く目を閉じてもう一度キスをした。そのせいで間奏後の歌い出しには間に合わなかったが、ブラッドリーは見事にその曲を歌い切った。そして彼はマイクを置いて周囲の歓声に手を挙げて反応し、僕の座るテーブルへと真っ直ぐに戻った。
「はあ、緊張した!」
ブラッドリーは目の前でしゃがんで僕の脚に手を置き、眉を下げて大きく息を吐いた。続いて流れる曲の中、招待客が自由に踊り始める。
「明日はもう声が出ないかも」
「一曲しか歌ってないじゃないか」
「もう、それは言わないで! 歌手じゃないんだから、これが限界なの」
それから彼は立ち上がって僕に手を差し出し、ダンスに誘った。踊るだけなら歌わなくていい……なんて思いきや、彼は踊りながらでさえ歌っていた。僕は彼の陽気な動きに合わせて笑うのが精一杯だった。そうでなければ、また涙が溢れてしまいそうだったから。
ブラッドリーは歌が上手い。ピアノも弾ける。それはもはやみんなが知るところだ。だけど彼の歌声が僕のためだけにあるのだということを、僕と彼自身以外には誰も知らないだろう。だから僕は幸せなのだと思う。彼の歌声はすべてを置き去りにして、二人だけの世界を作り出す。
「君の歌声は世界一だな」
「なーに? 今さら気づいたの?」
僕たちが主役の一日も間もなく終わる。もう二度と聴けないこの日だけの歌声を、僕は死ぬまで忘れない。そして明日もブラッドリーの歌声を聴き、この心はまた一歩、"永遠の愛"へと近づくのだ。