Under My Umbrella その電話の声は躊躇いがちで、だけどそこには決意のようなものが滲んでいた、と今となっては思う。後からこんなこと言うのはずるいかな。
あからさまに名残惜しさを伝えるも、やはり彼は西海岸へと帰ってしまった。俺の「好きだ」という単純で真っ直ぐな告白の言葉と共に。返事を聞かないまま彼を見送るのはもちろん不本意だったが、彼にも仕事はあるし、ギリギリまで引き留めたって彼のためにならないことはわかっていた。もしかしたらあと一晩なら、という淡い期待を"もう帰るの?"の一言に込めてしまったのはほとんど無意識だったけれど。"今着いた"のメッセージを受け取るよりも先に彼に駆け寄った休暇の初日から、片時も彼のそばを離れなかった。東海岸で響く彼の声を、一秒でも長く記憶しておきたかったから。
「あーあ、やっぱ一人はやだな…」
一人だからこそ声になる本音。大人気がなかろうが我儘であろうが、実際にはちゃんと彼を帰したのだから褒められたっていいだろう。右手は知らぬ間に"Fanboy"の文字を探していた。好きな人が去った物寂しさを友人に埋めてもらおうとは、少し勝手だろうか。
「まあいいや」
とりあえず外に出よう。行くあては無いが、酒は飲みたい。車のキーに伸びた手を引っ込め、玄関のドアを開けた。雨が降っている。手が届きそうな重苦しい曇り空の色が己の心情にあまりにも似ていて、意味もなく気まずくなるほどだった。傘を手に取り一歩外へ踏み出すと、傘にバタバタと打ちつける雨の音に囲まれ世界が小さくなった気がした。
「ははっ、もうマーヴは帰ったのに」
傘を持つ左手は傍らに立つ誰かを想定して、左側に傘を寄せていた。こんなことで隣に彼がいないことを思い知らされるなんて。やっぱり一人は嫌だ。
休暇中は悪天候が続いた。彼と休暇中にやりたかったことを実行するためには決して晴れている必要はなかったが、雨だね、と呟く彼の声より、晴れ渡る空を見上げる彼の微笑みの方が好きだった。
一人暮らしの人間には傘は一本で十分だ。そして、自分を訪ねてくれる人が増えた俺にとってもその数は幸いだった。一本しかないんだ、と言えば、彼はほんの少し照れ臭そうにこちらに肩を寄せた。その傘は一般的な物よりもやや大きく、空に向けて広げた時、彼はその大きさに笑いを堪えきれずに吹き出した。
『わあ、大きい君にぴったりだね!』
『持ってみる?』
彼が持つと大人用の傘をさした子どもみたいで、俺の微笑みからそれを察した彼は黙って傘を突き返した。ほとんど小さな部屋のような傘の中、二人で行ったのは落ち着いた雰囲気のカフェ、楽しい話し声に満ちたダイナーや酔っ払いが歌うバーだった。道中では花屋の前で花の名前を当て、本屋の前ではディスプレイされた本のタイトルから内容を予想して笑い合った。彼は傘の中でぶつからないよう慎重に歩いていたが、たまに触れる彼の肩は温かかった。それから彼は傘の持ち手を握る俺の手に何度も触れて、彼の方に傾けた傘を俺の方へと直そうとした。その度に同じやり取りを繰り返したが、二人ともその会話にうんざりすることはなかった。
『もっとそっちに向けないと、濡れちゃうよ』
『いいよ、濡れてないよ』
『風邪引いたらどうするんだ』
『肩が濡れたくらいで風邪引かないよ』
『とにかく君もちゃんと傘に入って、ね』
露先から落ちる雨粒が肩を叩いた。真っ白なTシャツにじわりと冷たさが広がる、あの頃の彼の濡れた肩にはなんとも愛しい意味があったのだと、彼の身長を超えてようやく理解した。手を繋ぎたがる坊やに付き合いながら、逆の手で坊やが濡れないように傘を掲げるのはどれだけ大変だっただろう。ブラッドリー坊やは傘を持つのが嫌いな子どもだった。レインコートも役に立たず、濡れた坊やの髪を彼はいつも鼻歌を歌いながら拭いてくれたのだった。
馴染みのバーへ続く歩道へ出た時、スマートフォンがポケットの中で震えた。画面には"Mav"の文字。
「マーヴ?」
『ブラッドリー、今こっちに着いたよ』
甘く響く彼の声。しばらくは電話越しにしか聞けない。
『降り立った途端に雨が降り始めちゃった』
「ほんと?こっちも雨だよ」
『そうなのか』
奇遇だね、と彼は笑う。そして、曇天であってもお揃いなら嬉しいと言う。同じ空の下にいると実感できるから。
『雨に打たれたら君の傘を思い出したんだ、あの大きな傘をね』
「はは、デカかったでしょ? 俺今差してるよ」
『外にいるの?』
「うん、やることなくて」
彼は黙った。逡巡する彼に代わって言葉を継ぐのも気が引けたので、俺も黙っていた。
『あの、今から言うことを変だと思わないくれ』
「思わないよ、どうしたの」
『…隣に君がいなくて寂しいと思ったんだ、雨で自分の身体が濡れた時に』
それのどこが変なのだろう。
『雨で君を思い出すなんて変だろう? だけど本当なんだ。君の大きな傘の下で歩いていた時、その、』
「歩いていた時?」
出来る限り優しく先を促したが、自分にとって良い展開が待っている予感がして、きちんと感情を抑えられた気がしない。
『君に守られている気がしたんだ。もちろん実際雨からは守られたよ、でもそれだけじゃなくて、君が僕を好きだと言った時の、その…愛情、のようなものに…自分が包まれていたような感じがして…。それがすごく心地良くて』
「愛情"のようなもの"じゃなくて、愛情だよ」
『…うん』
上手く言葉に出来ないもどかしさに、彼は自分に対してため息をついていた。
『とにかく、君が僕の隣で傘を差してくれないことが、僕がこっちで一人きりになったことが、すごく嫌なんだ』
「…俺も一人は嫌だよ」
本当に嫌だ。この気持ち、わかってくれた?
『それで、まあ、その…、僕が言いたいのは、』
「待って待って、それマーヴに会って直接聞きたい。だって、いいこと言ってくれるんでしょ?」
『恥ずかしいから電話越しで言わせてくれよ』
「ええ〜…」
『今ここで、思い立った時に言わせてほしいんだ』
だんだんと彼の声が自信を取り戻しつつある。
「…いいよ、その代わり次会った時にももう一度聞かせてくれる?」
『いいよ』
「よし、じゃあどうぞ」
『うん』
彼は一瞬間を置いた。いまだ雨が無遠慮に打ちつける中、電話の向こうで彼が小さく息を吸う音が聞こえた気がした。
『…僕も、君が好きだよ。君が一本の傘を分け合う相手は僕だけであってほしい』
雨の日も悪くない。これから雨が降るたび、彼のこの言葉を、この傘の重さを思い出すだろう。一人でははみ出すことのない肩を、二人並んで濡らす日々がこの手に欲しい。雨音にかき消されることのない、確信に満ちた彼の言葉がもっと欲しい。
ああマーヴ、やっぱり一人は嫌だよ。あなたは俺の隣にいなきゃ。