あなたの主夫になりたくて!- 1 -
「え、」
夏の夜、二十二時頃。暑さに茹だりながらスーツケース片手に帰路に着く男は、子供が駆けて行く様を視界の端で捕えた。細道に入っていったようで、一瞬しか見えなかったが...小学生だろうか。親らしき人物は見えなかったし、あの細道は人気が無ければ街灯と呼べるものも少なくて静かだ。この時間帯に子供が彷徨くのはあまり良い事ではない、真面目な男は心配になり後を追った。細道を進んでも自分の家には帰れる、子供に何事も無ければそれで構わない。
細く長い裏路地に入ると、その子供は途中まで行ってしまっていた。暗くてよく見えないが、近隣の家の明かりでぼんやりと不自然なシルエットが浮かんだ。小走りしながらふらふらと横に揺れるその様は今にも転けてしまいそうであるが、それよりも男が注目したのは子供の体格が思っていたより小さかった事だ。想像より小さな子供が、籠のような物を頭上に掲げて走っていたのだ。こんな幼子が何故夜道を...、男は慌てて駆け寄った。
「んしょ、よいしょ。...わあっ」
「っ...、」
ふらついた足がもつれて前方に倒れていく。小さな体が地面とぶつかる寸前に右腕を伸ばしシャツの背面を掴んだ。そのまま左手で腹部を抱えると男はほっと息を吐く。咄嗟に投げ出したスーツケースや子供の荷物はその辺に転がってしまったが派手に散乱している様子はなさそうだ。
「大丈夫か」
「は、はいっ!ありがとうございます...」
怪我は無いか、念の為顔を覗く。見詰め返す目は驚きと不安に揺れており紅葉のような両の手を重ねてきゅっと握っていた。子供の足を地に下ろしてやり、目線を合わせようと男もその場にしゃがんだ。
「こんな夜更けに何をしていたんだ。親は?」
問われた子供は、まだ転んだショックが長引いているのか黙ったままだ。落ち着くまで暫くそのままにしていると、ハッと我に返り少々甲高い声が響いた。
「たっ、助けてくださってありがとうございました!俺は炭治郎といいます。ええっと、親は実家にいます。」
「実家?」
まるで親と離れて暮らしているような口振りだ。男は少し踏み込んでみる事とする。
「お前は親と別の場所で住んでるのか?」
「はい!ついこの間、独り立ちしたところです!今日はたまたま仕事が長引いてしまって...都会ってすごいですね、スーパーが夜遅くまで開いているんですよ!」
「独り立ち。仕事...」
男は混乱した。目の前に居るのが普通の若い人間であれば納得したが、この子の見た目は小学生とも言い難い。まるで幼児だ。丸い頭にふくふくした頬、全身がやや丸みを帯びている。この体で仕事...?頭の中で咄嗟に出た職業はテレビなどで出る子役くらいだった。それ以外に思いつかない。沈黙した男に、子供は落とした荷物を拾いながら話を続けた。
「お兄さんも仕事帰りですか?お疲れさまです!この時期にスーツって暑いですよねえ、熱中症に気を付けてくださいね。...あっ!そのスーツケースお兄さんのですか!?助けてくれた時に落としたんですねすみません!」
現代の幼児は世間話も出来るのか、にこやかに会話をしてきた。男のスーツケースが少し離れた地面に落ちているのに気付くと慌てて来た道を戻る。その気遣いは有難いがまた転けないか心配だ。
男は子供を呼び止めて立ち上がり、再度問い掛ける。
「鞄くらい自分で拾うから構わない。あと、その歳で仕事をするのは、その...感心するが、保護者は居た方がいいんじゃないか。お節介かも知れないが...」
「あ、」
こちらを振り返った子供はぱちりと大きな目を瞬きさせ、何処か合点がいった様子で答えた。
「おれ、もう大人なんですよ!」
- 2 -
「おとな...?」
眉をきりりと上げて得意げな表情をする子供と、言われた事が理解出来ず眉を寄せる男。
「あ、もしかして子供のように見えたでしょうか。見た目はこれですが立派な大人ですよ!」
「そう...なのか」
正直信じられなかった。子供の戯言という方がしっくりくる。う〜んと一つ唸って考えてみたが、
「...すまない、やはり信じられない」
軽く頭痛がして片手で顔を覆った。再びしゃがむと、子供...炭治郎が肩をぽんぽんと撫でている。
「大丈夫ですか?お疲れなんですね...」
「いや、すまない。大人なんだよな、俺の頭が追いつかないんだ」
「...そうだ!おれの家に来ませんか、アパートだから狭いですけど」
「えっ」
あれよあれよという間に炭治郎に連れられ、彼の住むアパートへ着き男は部屋に上がり込んでしまった。
炭治郎はササッと冷蔵庫から麦茶を出しグラスに注いでいる。
「どうぞ!」
「ありがとう...」
断る間もなく来てしまった。男は落ち着かずそわそわと辺りを見る。上京して来たばかりだと言った通り、生活するだけの家具は揃っているが飾り気は無い。広さは男が住む部屋と変わらず、アパートならそういうものかと一人納得した。
「お兄さん、ご飯はまだですか?よかったら食べていきませんか!」
「は、いや...それは悪い。見ず知らずの男にそんな事しなくても、」
と言いかけて男はハッとした。当初
危険視していた事__子供に対して不審者が近づく__を己が行っているではないか。目的を達成するどころか自分が不審人物になってどうする。更には家まで知ってしまった、案外自宅から近い場所だった。男は軽く自己嫌悪しながら炭治郎に頭を下げる。
「すまなかった」
「えっ!?どうして謝るんですか!」
男は口下手だった。謝罪の意味が一寸たりとも相手に伝わっていない。
炭治郎はこてんと小首を傾げて男が言いたい事は何かを考えた。説明を求めると何故か生い立ちから話し始めた為うんうんと相槌を打つ。
中身は大人なので頭の中で要点をまとめると...男は炭治郎を幼子だと勘違いしており、夜道を駆ける子供が何かしら犯罪等に巻き込まれないか心配になって着いてきたこと、実際その不審人物に自分がなっているんじゃないかと考えているのだと言う。炭治郎は男の背中をそっと撫でた。きっと真面目な青年なのだろう、自分も振り返れば大変な人生を送ってきたがこの男もそうなのかも知れない。
「心配になって着いてきてくれたんですよね、ありがとうございます。確かにこの見た目ですから、遅くまで外に出ていれば危険な目に遭っていたかも知れませんね。実際に今日は転んでしまったし...。でもあなたのお陰で無事だったので大丈夫です!ね、謝る事なんて一つも無いんですよ」
「し、しかし」
「お腹いっぱいになると気分も変わります。一緒にご飯食べましょう!そうだ、お兄さんのお名前は?」
「え、...名乗ってなかったか。冨岡義勇だ」
「冨岡さんですね!これで俺たちは知り合いです。一緒にご飯を食べたら友達になるんですよ、えへへ」
子供の見た目をした大人に慰められた上にご馳走になってしまった。働き始めてから暫くは自炊していたものの、最近ではまともな食が出来ていなかった男は目の前の食事に手を合わせた。一般的な家庭料理、だが懐かしさと安心を感じる味だった。
「美味かった、ありがとう...」
「お口にあったなら良かったです。でももう遅くなってしまいましたね...冨岡さんのお家はどこですか?」
「構わない、家は多分近くだ。すぐに帰れる」
「あら、ご近所さんでしたか!引越しのご挨拶の時は冨岡さんって名前は見かけなかったような...そう言えばアパートやマンションは全部回れなかったなあ」
「そこまで挨拶に...?俺も賃貸住みだが、もし来ていても仕事で居なかったかもな」
なるほど、と炭治郎が相槌を打つ。
一人で帰れると言うのに着いてきそうな子供(大人)を口下手ながらに説得し、冨岡は今度こそ帰宅した。上着のポケットには無理やり詰められた紙が入っており、炭治郎の携帯番号が書かれていた。どういう訳かまた会いたいらしい。もしや頼りなくて今にも倒れそうに見えていたのだろうか、冨岡もそんなにヤワではないのだが。
一方、冨岡を見送った炭治郎はそわそわと落ち着きのない様子でいた。
都会には若者が多い事もあって綺麗な格好をした人は沢山いる。しかしあの人はスーツがよれていても、束ねた長い髪が乱れていても綺麗だった。思い出すと鼓動が早くなり胸が締め付けられるのだ。
自分が暗い道で大きな荷物を抱えて走り、転んでしまったのは迂闊だったがこんな出会いがあるとは。しかも手料理まで食べさせてしまった。俊敏に助けてくれた割には何だか放っておけない人、無事に帰れるだろうかと心配していた。
...心配と言いつつ、これはれっきとした下心だ。彼に知られなかっただろうか。
胸の高鳴りと共に、隠しきれず出てきた"尾"がぱたぱたと揺れていた。
- 3 -
「こんにちは!ご近所さんにこのアパートだと聞いたので。管理人さんに部屋を教えて貰いました」
再会は早かった。開いたドアの前でにこやかに挨拶してくる小さな子供の姿がある。そして休日だからと遅くまで寝ていた為、ボサボサ髪のスウェット姿の男が玄関で立っている。
「管理人...鱗滝さんか」
「はい、優しいおじいさんですね。飴を頂いてしまいました」
頭の後ろに片手を添えて照れ笑いする子供だが、本人はこれでも大人だと言う。
“鱗滝さん”とは冨岡の住むアパートの管理人だ。老爺だがしっかり者で、アパート内で発生したトラブルに素早く対応してくれる。冨岡もよく世話になっているし、トラブルの原因が自業自得なものばかりでよく叱られている。
何故か真っ赤な天狗の面を着けており、本人曰くシャイだからとの事。
恐らく彼も炭治郎を子供と勘違いして孫のように扱っているのだろう。管理人であれば普通、人の部屋を勝手に教えるような事はしないだろうが、炭治郎は見た目は子供で無害であり、相手が冨岡なら特に問題はないと判断したのかも知れない。それもそれで如何なものかと思うが。
「たんじろう...だったか、何か用なのか」
「名前を覚えていて下さったんですね、嬉しいです!今日は日曜だったので居らっしゃるかと思って会いに来ちゃいました。これ、お菓子ですどうぞ!」
小さい手に提げられた紙袋をぐっと押し付けられ、申し訳ないと思いつつ遠慮するのも失礼だ。炭治郎に礼を言い、暑い日中に玄関の外に居させては可哀想だと思い冨岡は彼を部屋の中に入れた。きらきらと輝かせた目でやや興奮気味に辺りを見回す姿はやはり子供だ...。なかなか掃除が出来ず散らかっているから見ないで欲しいと彼を急かし、リビングの方まで誘導すると適当に座らせる。机の上にある物を適当に退かし何か冷たい飲み物を、と冷蔵庫まで足を運んでふと気が付いた。いま家にあるものは水とコーヒーしかない。...まずい、買ってくるべきか。
「......炭治郎、飲めないものはあるか」
「え?飲めないもの、ですか?」
冨岡の言葉は何時も簡潔で回りくどい、要するに言葉足らずである。炭治郎もぽかんと口を開けた。
「...ああ!お構いなく!急に押しかけたのは俺なので気にしないでください!」
「っ、いや、そうかもしれないが客は持て成すべきだろう」
「いえ大丈夫で...ん〜、飲めないものを聞いてきたって事は、何かはあるんですよね。好き嫌いは無いのでそれを頂けますか?」
推理をするように小さな手を顎に当てて冨岡の言いたい事を汲み取ってみせた炭治郎。
子供の見た目をした大人に気を遣われてしまった。自分が情けなく感じたが、表情筋は働かず見た目は淡々とした態度でグラスを取り出し冷えたアイスコーヒーを注ぐ。何となく買ったまま使わず放置していたシュガースティックが視界に入ると消費期限を確認し、それらを添えて差し出す。
「わあ、ありがとうございます!ひんやりしてます」
「これしか無くて...、菓子も普段食べないんだ」
「あっ、いえいえ!お構いなく!そうだ、おれが持ってきたお菓子ですけど...お口に合うでしょうか?」
そうだ、先程土産を渡されたのだ。冨岡は横に置いていた紙袋の中身を取り出し、その箱の表を見る。
「これは...」
「たぬき饅頭です!頭に葉っぱがあるのが拘りで、特に真ん中の焼き色がたぬきっぽい!」
急に元気に語りかけてくる炭治郎に冨岡はぽかんと口を開ける。確かに、丸みのあるたぬきの頭の形をしており、緑の葉を模した小さな砂糖が乗っている。耳や目の部分には焼き色が着いていて、それがたぬき特有の模様に見える。次いでに埋め込まれた黒ごまがアクセントだろうか。確かに可愛らしい、子供が喜びそうな菓子である。
「確かにたぬきだな...、」
「!そうですね、えへへ...あの、たぬきはお好きですか?」
「え、たぬきを?」
たぬきが好き?考えた事もない、そもそも動物を好きか嫌いかなんて思う機会が無かった。犬は昔噛まれた事がある為苦手ではあるが、テレビや遠目で見る分にはとくに嫌いという感情はない。
「嫌いじゃない」
「...ということは、あまり好んでもいませんか?」
「考えたこともなかったからな」
「あら...」
明らかにしゅんと落ち込んだ様子の炭治郎を見て瞬時にしまった、と思った。大抵この場合は好きだと言って子供を喜ばせるべきなのだろうか、少しの罪悪感というものが胸の内をぞわりと撫でる。炭治郎は子供ではないらしいが。...ややこしくなってきた。
「んんん...それでは、好きになって貰えるようにたぬきの良さをお伝えしていきますね!」
意外に立ち直りの早い子供(大人)だ、きりりと眉をつり上げ決意を表す炭治郎に冨岡は感心する他なかった。
「まずはコーヒーいただきます!」
「ああ...」
「...はぁ〜!今日は暖かかったから冷たいと気持ちいいですね!」
「うん......」
どうやって言葉を返したらいいのだろう。客人がいるにも関わらず、着替えすら行わない自分にそれを求められても困る。いや、そもそもいきなり家に来た方が失礼なのでは...、頭の中でぐるぐる考えている冨岡に炭治郎は声を掛けた。
「あの...いきなりお家に来てご迷惑でしたよね、ごめんなさい」
「え、」
今考えていた事を炭治郎が謝った。もしかして心が読めるのだろうか、それとも分かりやすい程態度に出ていただろうか。冨岡の背中に冷りとした何かが伝う。
「でも俺、冨岡さんと仲良くなりたくて...。お友達になってくれませんか?」
「...は?」
冨岡は耳を疑った。目の前の子供(大人)はトモダチと言ったか。それは人間関係でいう親しい仲の意味で合っているのか。炭治郎の大きな目には、冨岡の奇妙な表情が映っていることだろう。
「あ、あの。やっぱり友達になるのはまだ早いですか?」
「...なぜ俺と友達になるんだ」
「え?えぇと、えへ...綺麗な人だなって思って、気になって」
まるい頬を染めてコイツは何を言っているのだろう、とうとう冨岡の脳は考えることを停止した。
「転んで怪我しそうになった俺を助けてくれた優しさも素敵ですし、美味しそうにご飯を食べてくれたのも嬉しかったし...とにかく綺麗で素敵な人だと思ったんです」
一度話し出すと止まらない性格だろうか、忙しなく動く口から出る言葉は冨岡を褒め続ける。当の本人は頭に沢山の疑問符だけを浮かべ聞き流していた。
「......と、思わず語ってしまいました。えへへ、ちょっと恥ずかしいなあ」
「...今のはいったい何の話だったんだ」
「えっ?冨岡さんのお話です」
......何だって?
- 4 -
炭治郎の友達になりたい発言から1ヶ月。冨岡の日常は目まぐるしい程忙し......とても豊かになった。
まず、出勤や退勤途中に姿を見かけたら必ず声を掛けてきた。小さな手をばっと広げて短い腕をぶんぶんと振り全力で挨拶してくる様子に眩しささえ感じる。小さな体に反して大きな声は割と近所に響き、同じく会社や学校へ向かう者や散歩中の老人達は炭治郎を微笑ましげに見ている。そしてその視線は当然声を掛けられた側にも向けられ、冨岡は困惑しつつも片手を中途半端に上げて「おはよう...」と返すのだった。
炭治郎の出勤時間と重なれば隣にぴったりくっ付いて歩く。しかし冨岡の歩幅に合わせれば炭治郎が駆け足になり、逆では冨岡が遅刻する為なんともアンバランスである。時間が無い日は冨岡が炭治郎を抱えて早歩き。置いて行けばいいものを、このまる〜い体型がぽつんと居るのを見ると何故か放っておけなくなってしまった。
炭治郎は何時もにこにこと笑って世間話をする。冨岡の適当な相槌でも嬉しいのか色んな話をしていた。中でも冨岡がよく覚えているのは、炭治郎の仕事のことだ。彼の職業は家事代行を営むサービス業らしい。炊事洗濯、掃除に子守り、ペットの散歩など受け付けており、冨岡の住む町は住人が多く需要が高い為繁盛しているとの事。炭治郎は家事を大の得意としており、とある知人に紹介され上京しその会社に就職したそうだ。先日食べた手料理を思い出して冨岡は納得する。
そうして駅まで歩き、冨岡はそのまま電車に乗り、炭治郎は駅から数分の事務所へと向かうのがルーティンとなりつつある。
出会って半月ほど経った頃。冨岡は弁当を持参しないと知れば、次の日冨岡が出勤のため玄関を開けると目の前に赤い天狗の鼻先が。「おはよう、義勇」管理人の鱗滝だった。なぜ部屋の前にいるのか問うと軽く平手打ちを喰らい、「挨拶を返しなさい義勇」と叱られてしまった。このアパートではやたら作法に厳しく男はもれなく平手打ちをされる。だが正論かつ想いの籠った叱責であり退居者は殆どいないのがこのアパートの凄いところである。
慌てて挨拶を返し何故部屋の前に立っていたのか再度問うと、どうやら預かり物を持ってきたらしく、差し出された風呂敷を覗けば弁当箱であった。「あの子はいい子だな、友人は大事にしなさい」と言い残して鱗滝は去っていってしまった。「あの子」......思い当たるのは一人しかいない。
昼休憩、冨岡は結局持ってきた風呂敷を広げた。弁当箱には付箋が貼っていて、「よかったら食べてください。食べられない物は無いと言っていましたが、あればまた教えてくださいね」と書いていた。確かに食べられないものは無いが、そんな話しただろうか...多分したんだろうなとぼんやり考えて、そのままにしておくのも勿体ないので食べる事にした。焼き鮭がメインの和の弁当だ、先日の食事といい彩りが良くバランスも考えて作られているのだろう。「美味い...」ぽつりと零した言葉、思わず顔がほころぶ。同僚達は普段カップ麺か惣菜パンを食べる冨岡が珍しく弁当を持参している様子を見て「あれ冨岡が作ったのか?」「もしかして冨岡さん、もしかすると...!」と噂していた。
3週間も過ぎると冨岡も少し慣れてきて、仕事上がりの炭治郎が駅で待っていても、そのままどちらかの家に二人で行ったりしても違和感が無くなっていった。最初は遠慮ばかりしていた冨岡も、疲労で麻痺している所に炭治郎の優しさと手際の良さが加わると自然と受け入れるようになってしまったのだ。お陰で肌艶が良くなった冨岡を側で見ていた隣のデスクの社員が「やっぱり恋人が出来たのか」と勘違いを起こし事務所で軽く騒動となる。
「冨岡さん、今日のご飯はパスタにしようと思うんですけど、和風と洋風どちらがお好みですか?」
「...特に好みはない」
「そうですかー、じゃあお楽しみという事で!」
「お楽しみ、か」
炭治郎の眩しい笑顔につられて冨岡も目を細めた。別に笑った訳では無いと心で言い訳しながら。
- 5 -
_ふわふわした何かが腕に当っている。
擽ったくて微睡みから抜け出した冨岡は、薄ら目を開けた。自分は寝ていたのか、寝る前は何を...そうだ、今日は日曜日で、炭治郎が部屋に来て一緒に掃除をして、それで_
「寝てしまったのか...」
疲れた体に炭治郎が作った昼飯とクーラーで冷えた室内、心地が良くて1時間ほど眠っていたようだ。夕方にはまだ早いがこのまま寝ていては今晩眠れなくなってしまう、冨岡は気怠い体をゆっくり起こした。
ぽて、ごろん。
腕に何かが引っかかったと思えば、膝元に転がってきた。ずしりと重みのある温かいもの、視線を下に向けると炭治郎が居た。冨岡の足を枕にして眠っており、すぴすぴと小さな鼻息が聞こえる。足元の温もりを感じると再び眠気が襲ってくる、炭治郎も硬い足の上に頭を乗せたままではつらいだろう。
「...炭治郎、おい。たんじろ...っ、」
体を軽く揺さぶれば、炭治郎はくるりと寝返りを打ちうつ伏せとなる。その際に見えたふわふわした何かが視界に入る。
_それは人の体には無いもの。だが冨岡の目の前でゆらり、ゆらりと揺れ存在を主張している。
「......しっぽ、か...?」
目を丸くして凝視する。やはり尻尾だ。有り得ない、人体に尻尾がある訳が無い...冨岡は怪奇を信じない。幽霊や妖怪なんて全くだ。
ではこれは何だ、炭治郎には何が生えている?頭は冷静に考える事が出来るのに、脈は早くなり、心音が耳に響く。それともまだ夢を見ている?現実かどうか区別を付ける為に恐る恐る手を伸ばしてみた、少し震える指先がその毛に触れた。目覚める瞬間に腕に当たっていた柔らかいものと同じ感触だ。今度は手のひらで覆ってみる。ざわり、犬猫と同じ触り心地だ、人間の髪より細くて柔らかく且つ優しく皮膚を刺すように擽ったい。
「夢じゃない...たんじろ、お前は...何なんだ...?」
「......ん、...んぅ?」
起こしてしまった。小さな指で目を擦りながら起きる炭治郎は、冨岡がこちらを見ていることに気が付いたようだ。
「とみおかさん...?あれ、あら?寝てしまいました、えへへ」
いつもと変わらない笑い方。冨岡はそちらには目もくれず、起き上がった頭からひょこっと飛び出した何かに驚きを隠せなかった。
「み、耳...?」
「みみ?お耳がどうかし......あっ」
小首を傾げて珍しい顔をする冨岡を見ていた炭治郎も、流石に何を言いたいのか分かったようで。頭の上の『獣のような耳』をバッと手で抑える。しかしもう遅い。
「...見られちゃいましたね、」
ぽつり。
困ったように笑み、おずおずと手を離した。そのまま上体を捻って後ろを確認すると、揺れる尻尾を見つけた。
「あ、尻尾も出てる!まだまだ未熟だなあ」
「...お、まえは。何なんだ」
全く恐ろしさを感じさせない見た目なのに、未知とはこうも声を震わせるのか。
「冨岡さん。騙していた訳じゃないけど...驚かせてすみません。どうか怖がらないで」
どうして炭治郎が悲しい顔をしているのだろう。きっと、それ以上に冨岡の顔が強ばっているからだ。
炭治郎の指が冨岡の手に触れようとした。その手は警戒して引っ込まれるかと思ったが、冨岡は動けずそのまま触れた。出会ってまだ一ヶ月しか経っていないが、炭治郎の優しさは充分伝わっていた。今だって遠慮がちに指だけくっ付けて、同じように震えているではないか。拒絶されるのが怖いのだ。
もし、彼が怪異の類だとしても変わらない筈だ。
「......俺はそういう類は全く信じていなかったが。お前は、その...妖怪、みたいなものか?」
「...そういう感じです。おれ、...俺、本当はたぬきなんです」
俺は竈門 炭治郎。
ここから遠くの、人がほとんど住んでいない山に家族でひっそり暮らしていました。
両親と兄弟がいて八人家族、いや八匹と言うべきでしょうか、俺は兄弟の中で長男です。みんなたぬきの一族で同じように耳としっぽが生えています。人に化けられるようになったら一人前、俺はやっと長い時間化けられるようになったので人里に降りる事を許されました。
ご近所さんは人間のお爺さんやお婆さんで、俺達たぬきの事は知っていましたがとても良くしてくださって、食料や薪などを交換したりお菓子を頂いたりしました。
一人前になる前に、同じように人に化けられるきつね族にある事を教えて貰いました。都会には素晴らしい文化があり、また仕事が沢山あるのだと。今の生活に不満はありませんが、より豊かになるなら俺が出稼ぎに行くのもいいなあと思って、こちらに来たのです。紹介して貰った会社は、俺達のような獣人が働ける特殊な場所らしく、俺は家事が得意なのでサービス業として働かせて貰っているんです。この辺に住んでいる人達は俺たちの正体は知らないけれど、この小さな体を見ても何も言ってこないし、むしろ温かく見守ってくださっていて、すごくありがたいですね。
「...そうだったか。その、炭治郎...」
「冨岡さん...、俺、たぬきの中でとても鼻が利くんですよ。貴方の気持ちは多少匂いで分かっていました。一緒に通勤する日やお弁当を回した時も嫌がるような匂いはしなかった、とても嬉しかったです。...だから、今驚いたり怯えたことについて何か考える必要はないんです」
そこまで分かるのか、冨岡は口に出しかけた言葉をぐっと呑んだ。別にこちらが申し訳なく思う事は何一つないのだが、知り合いの正体が未知のもので、それで手を離そうとした。炭治郎はいつか話そうとしていたのだろうか。最初からこんな事言えないだろう、冨岡のような人間相手なら尚更だ。
「まだ、友達でいてくれますか?」
「......、」
こくり。
呑んだままの言葉を発せないまま、冨岡はひとつ頷いた。