痴話「センセ、帰ろー。もうすぐ雨が降るぞ」
夜の海のベンチに横たわっていた石川。頭の後ろで腕を組み、脚を投げ出している。
その頬は赤く腫れて、殴られたのがありありと分かる。そして、相当にふて腐れているのも。
居酒屋をやっている堅二から竜三に電話が入ったのは、一時間ほど前の事だ。
先生が女と悶着起こしたから迎えに来て欲しいと、泣きつかれた。過去に少しだけ付き合った女で、先生はそれをすっかり忘れていたらしく、ぶん殴られたとの事。
竜三は、はぁ、とため息をついて頭をかいた。
石川の女遍歴は相当なものだと聞いている。本人は直接的なことを竜三には言わないが、周りが眉をひそめる程度には派手だったようだ。
「ったく、手間のかかる爺だな」
スマホをポケットに突っ込んで出る。何度めだったかな、と考えるのはやめた。
「なあ、先生。鬼が出たらどうすんの」
「今なら幾らでもやってやるわ」
強情を決め込む石川は、一向に動かない。嵐の前は本当に鬼も出やすいのだ、一人放って何かあったら後味が悪すぎる。
「うるさい、先に帰れ。今夜は帰らん」
「ガキかよ」
帰らんとは、また。心配して迎えに来たのにそれはさすがに、ない。
竜三はいきなりどさりとベンチを跨ぐと、石川の顔の両側に腕を着いて顔を近づけた。
何事か、と石川が目を開けた時には、すでに唇は重なり、厚みのある舌が口に差し込まれた。
優しく、宥めるように動く舌。ぴり、と口の端が痛んだが、一瞬で快楽に溶かされた。
甘く温かな舌に吸われてしばし怒りが散る。竜三が唇を離して呟いた。
「血と酒の味がする」
黒雲の空から覆うように見下ろしている竜三。解れ髪が風に揺れて、こちらの頬をくすぐる。若い肌から降るような、甘いコロンの香、それを石川は深く吸い込んだ。
自分を見下ろすのをぼんやりと見つめていると、脚の間に腰を下ろした竜三が、背中に腕を回してきて抱き起こされた。
「ここ、ケガしてんね」
ポケットから取り出した軟膏を小指で塗られる。鬼退治に持っていく薬をいつでも持っているのだ。
石川もそうだが、竜三も怪我をする事が少なくない。ダンスやら、ケンカやら痴話やらに巻き込まれて。
薬を携帯してるなぞ、穏やかではないと思うが二人揃ってなかなかそういう生き方から逃れられない。
「結構腫れてるな。女にしちゃあ、いいパンチだ」
「殴られて思い出したわ。昔、キックボクシングをやってたな。遠慮なくやりおって」
「すげー強ぇ。ボケを治してもらって良かったじゃん。キックじゃないだけ愛だろ」
竜三がからからと笑い、頬を撫でる。石川はその手をはねのけることも、手を添えることもできないまま言った。
「…お前も殴っていいぞ」
「何で」
「腹がたっているだろう。知らん女との痴話喧嘩の尻拭いに駆り出されて」
竜三は軟膏をしまい、答えた。
「怒ってないといや嘘になるけどさ。好かれて拗れるしんどさ、わからんでもない」
竜三が疲れた顔で言う。夜の店で踊るという、性的シンボルとして見られやすい仕事。踏んだ修羅場も一度や二度ではないのだ。
「好いた惚れたとか、赤い糸とかそんなん、簡単に信じられねぇっていうか」
「赤い糸とは古風な」
「こないだそうやって口説かれたの」
竜三が石川の両手を取り、引く。促されるままに石川は立ち上がった。
「それに俺は愛人だからさ。愛人ってのは他に本命がいる上での存在だ、浮気したって怒る権利なんかないだろ」
竜三が片手を軽く繋いだまま、ダンスのステップでくるりと回る。そうして石川の後ろに回ると、後ろから抱きつき、肩に額をのせて低い声で囁いた。
「俺は、他の奴らとセンセのお気に入りの座を取り合うなんてごめんだ。
センセの隣にならんで立って。生きて、飯食って、戦って、寝て。骨を拾いたい」
ずくり、と言葉に脳髄を穿たれる。石川はその、苦くて甘い告白に背骨を掴まれて、ぞくりと身を震わせた。
「お前、それは随分と重たいぞ」
「情が深いと言ってくれよ」
吹き始めた大風に、竜三の髪がほどけ靡く。まるで鬣のように。肩越しに覗き込んでくる大きな眼は、眼をそらすことを許さない。
竜に絡み付かれているようだ、と石川はかすかに思う。
「センセ、そろそろ行こ。冷えちまったから、家でラーメンでも食おうぜ」
「…うむ」
指先で繋がれているだけの手、自分から掴んでいなければ切れてしまいそうでいて、決して離す気はないと言う。
そんな繋がれ方、赤い糸なんてちゃちなものではないだろう。
「お前とは赤い糸どころか、首引きだな」
「何?四十八手?えっちだな、センセー」
にんまりと竜の顔で笑う男に、とうにがんじがらめにされていたのだな、と石川は悟った。