朝 米原は霧の町である。特に冬の朝方は全てが霧に覆われ、まるで街が湖に沈んだかのようにさえ見えることがある。
秋の半ばにしては冷えこんだ今朝も、霧は重く静かに街に溜まっていた。
いつもの時間、まだ朝暗いうちに目を覚ました木村シゲルは、リビングの窓辺へと向かい、ロールスクリーンを開けた。
シャツにセーター、その上に毛織の羽織を重ねている。広々として、天井の高いリビングはどうしても冷え込むのだ。
シゲルは古傷に染みるような冷たさを堪えながら、ゆっくりとソファに腰を下ろした。
大きな窓の外を見ればアスファルトにたまった霧が窓を濡らしている。もう一月もすれば、この霧は雪に変わることだろう。若い頃から無茶ばかりしてきた老体には、つらい季節だ。
「さて……」
後に起きてくる家族のために、セントラルヒーティングをいれようとして、すでにスイッチが入っていることに気づいた。
そうして、キッチンの方に目をやる。ささやかに点った明かりの下から、仄かに漂ってくる料理の香り。
大きな背を丸めるように古いキッチンに立っているのは、息子のユウイチであった。
ユウイチは黙々と料理を仕上げると、急須の乗った盆を手にして現れた。
「親父、おはよう」
「おはよう。早いな」
湯呑みが置かれ、緑茶が注がれる。静岡の奥地から取り寄せた香りの良い茶葉。朝の目覚めにふさわしいそれを、シゲルは好んでいた。
「ワタルは?」
「まだよく眠っている。昨日の水族館がよほど楽しかったのだろう」
ユウイチがふっと目元を緩める。この半年ほど、険しい顔ばかり見せていた息子。その一瞬の穏やかな表情に、シゲルは少しだけほっとした。
半年前、東京発京都行の夜行超特急列車で繰り広げられた殺し屋同士の大乱闘。
息子のワタルをビルから突き落とした犯人が乗っていると聞いたユウイチは、復讐のために一人その列車に乗り込んだ。
そして息子が事件に巻き込まれたと知ったシゲルもまた、列車に登乗して戦いに身を投じたのだった。
凄腕の殺し屋ばかりが乗り込んだ列車での一夜。その夜にユウイチは負傷しながらもシゲルと共に母と息子の敵を討って生還したのだ。
その後、無事にワタルも回復し、今は東京からシゲルのいる米原に居を移して3人で暮らしている。
茶をゆっくりと楽しむシゲルの隣で、ユウイチがテーブルの下にぱらぱらと落ちていた色鉛筆を拾い上げて、ケースにしまう。
テーブルにはワタルの書きかけの絵が広げたまま、朝の薄明かりに照らし出されていた。
大きな亀と、ピンクや黄色の魚が水色の海の中を悠々と泳いでいる。長い入院とリハビリを経て、やっと家に戻ったワタル。本当に久しぶりに叶った旅行だった。
絵を見るユウイチは自然と微笑み、優しい父の顔をしている。シゲルはそれを見て、再び小さく微笑んだ。
それからしばらくの間、シゲルとユウイチは、言葉を交わすでもなく、茶を飲みながら夜が明けていくのを眺めた。
あの戦いの一夜を生き延びて以来、こうやって静かな時を過ごすことが増えていた。
言葉では通じ合えないものがある。今までがそうだった。だからただ、互いがそこにいることで安心する、それを朝の沈黙の中に共有する。
シゲルが夜明けを見つめる息子に目を向け、微笑んだ。
「だんだん良い父親の顔になってきたな」
「…そうかな」
急に父に誉められて、少し困った顔をするユウイチ。照れ臭そうに目をそらしたが、再び顔を上げてシゲルを見つめた。
「親父がそう言うなら、俺はちゃんと、正しい方に進めているんだろう」
アルコールに溺れ、現実から逃げた挙げ句にワタルを失いかけた。
運命は立ち向かう者を無下にはしないが、背を向ける者には容赦をしない。ユウイチはあの事件以来、アルコールを断ち、家族のために生きようと決心した。
それは決して楽な道ではないが、一人ではない。ワタルとシゲルが共にいる。
ユウイチは茶をゆっくりと飲み干して茶碗を置いた。
「そろそろワタルが起きてくるな。食事を温めて来よう」
言いながら、ソファの背にかけてあったブランケットを広げ、シゲルの膝の上にそっとかける。
「冷えると古傷が痛むだろう。大事にしろよ」
「すまんな」
「俺もできて、わかった。これが痛むたびに、色々思い出す。心の痛みとも一生付き合わなきゃいけないんだろうな」
言いながら右の脇腹をさすり、立ち上がるユウイチ。殺し屋の銃弾で穿たれた傷は、ひきつれた肉と共にそこから消えることはない。
シゲルが立ち上がった息子を見上げ、名を呼んだ。
「ユウイチよ。傷は確かに痛むが、慈しんでくれる者があれば、その痛みはだいぶ和らぐものだ」
「…そうか」
肩越しにふっ、と微笑むユウイチ。その向こうで襖が開き、小さなこどもが姿を現した。
傍らには大きなペンギンのぬいぐるみを抱え、朝の光を浴びて眩しそうに目を細めている。
「…おはよう、ワタル」
「おはよう、お父さん、おじいちゃん」
ユウイチがこどもに歩みより、優しく頭を撫でる。
「さあ、みんなでごはんにしよう。今日は寒いから、温まるものにしたぞ」
「うん。ぼく、おなかすいたよ、おかわりしてもいい?」
「ああ。おじいちゃんの隣で待ってなさい」
「はぁい」
「おいで、ワタル」
先ほどまでユウイチの座っていた場所にワタルが座る。汽車のキャラの柄のパジャマを来たワタルに、シゲルが小さなベストを着せている。
一所懸命にボタンを一つずつ止めているのをユウイチとシゲルは共に見つめ、視線を交わし、小さく微笑みあった。
いつしか霧は晴れ、金色の朝の光がリビングを満たしていた。今日もこの一日が、ただ幸せでありますように、と声に出さずに祈る。