Into the Blue これは僕、アイク・イーヴランドがただ書き記したくてはじめたものである。現実に存在している彼の言動を記録に残す事を、誰かは呆れ、誰かは蔑み、誰かは恋だと笑い、大勢の人間は気が狂うと助言してくる事などとうに承知の上だ。
けれど、僕にとってこの手記は決して恋慕や気狂いの類ではない。ただ、いつかこれを本人が読んでくれたらという願いだけは持っている。きっと君は笑って誤魔化して、僕の預かり知らない所で捨てるかもしれないね。それでもいいんだ。君が納得できるのであれば、それでいい。
これは僕が足掻きたくて、残したくて、確かに其処に存在していたものへの郷愁だと考えてくれれば良い。
これはアイク・イーヴランドが記す、闇ノシュウの行動記録である。
1
そもそも、何故僕がこうして書き残そうと思案したのか。これは実に単純な理由だ。シュウが誤魔化す全てを記しておけば、どれが本当で、どれが嘘か判別出来ると思ったからである。
事の起こりは2023年残夏の頃。僕達Luxiemのメンバーだったミスタ・リアスが卒業してからの話。
「ごめんなさい、恋人が居るので」
そう断るようになったシュウの声を聞いて、僕は最初の違和感を抱いた。
僕達は定期的に会う事にしていて、それはリスナーの誰にも言わないようなささいな会合だった。誰かの国で密やかに集まって、場合によっては一日や二日でトンボ帰りもする。私服でただの友人達と、仕事を忘れて遊ぶ日常の中で声を掛けられることも各々それなりにあって、大抵皆断っていた。だから、シュウが断る事自体は可笑しくない。僕が引っかかったのは、謝罪の後に続いた言葉だった。
「しゅーうー、いつから恋人が居るなんて嘘をつくようになったんだよ」
疑問はなにも僕だけが抱いたわけじゃないらしい。体の良い断り文句だとルカも思ったのか、僕より先にナンパしてきた女性と別れたシュウを茶化すルカが彼の背中を叩く。身長はべらぼうに変わるわけじゃないけれど、ルカには立派な筋肉があるせいでシュウは叩かれるたびに身体が揺れていた。
「嘘? んハハ、嘘ついてないよ」
「え?」
「ん?」
独特な笑い声と弾む解。まさかそんな返答が来るとは予想だにしていなかった僕達は、シュウだけが先に進んで数秒前に取り残されたようだった。
「シュウ、お前、いつから恋人が居るんだ? 私達は何も聞いてないぞ!」
「だって聞かれなかったし……」
あまりにも自然体なシュウを見て、ヴォックスは腕を組むと僕を見る。僕はずり落ちそうな眼鏡を中指で上げて、それからシュウの肩を掴んだままクエスチョンマークを浮かべるばかりのルカに代わって問を重ねた。
「シュウのこと、大事な友達だと思ってるから僕達は君から聞かされたかったんだよ。喜ばしい事だしね」
「ああ、そういう……ごめん。あんまり人に惚気けるような話をしたくなかっただけなんだけど」
「お相手は? 君の恋人、見てみたいな」
「見せたくない」
独り占めしたいんだ。
やけに気障な台詞がシュウから降る。眼前でにこやかに笑う表情は見知ったものなのに、吐かれる言葉が誰のものか分からない。うまく続く言葉を紡ぎ出せずにいると、ルカが空気を柔く壊すように明るく祝福を述べた。
「とにかくおめでとう!」
「ありがとう。……夏の終わりから付き合い出したんだ。それだけだよ」
君達にしか言ってないんだ、とはにかむ姿は本当にシュウだろうか。恋にうつつを抜かすタイプだとは到底思っていなかったから、僕は何故か違和感だけを覚えていた。喜ばしいはずなのに、何処かでなにかが引っかかる。この違和感の説明をしろと言われても、言語化が出来ない。心情を描く文豪のカン、といえば聞こえはいいけれど、実のところ別の第六感だ。
それから、僕はここに彼を記す事に決めた。
中略
3.
数日前の僕が聞いたら驚くだろう。いや、もしかしたら予想さえも出来ていなかったから泡を吹いて倒れるかもしれない。何がって? なんと僕は、シュウが恋人と電話している場面に立ち会ってしまったのだ!
この日記はシュウが寝静まってから走り書きしている。何から話そう。まとまらない。とりあえず経緯からだろうか。
今日は僕とシュウが相部屋で宿泊していて、四人で集まった時にお酒を飲んだ。もちろん、こういう時にすぐ寝落ちしそうになるのはシュウだ。それは今日も変わらず、シュウは先に部屋へと戻っていった。僕はなかなか酔えず、結局ほろ酔いでルカとヴォックスに別れを告げて解散した後、特に寄り道もせず部屋へ戻ると、なんと喋り声がするではないか。
最初はシュウの寝言かと思ったけれど、歩を進めて声がクリアになっていくと相槌が混ざる。なんだか悪い気がして抜き足差し足で歩いていて良かったかもしれない。それに、ほぼ眠りかけのシュウの意識はよっぽど電話越しの相手に夢中なようで、僕に気づきもしなかった。
「んはは、うん。もう寝るよ。付き合ってくれてありがとう」
シュウのぼんやりとした間延びした声は文字通りふやけている。あいにく相手の声は聞こえなかったけれど、シュウの反応を見るに特段心配なんかもしていないみたいだった。
中略
他人の感情に引きずられやすい事を知っている上で僕に相談するくらいシュウは参っていたのかもしれない。もしくは、誰かに共有して共感してほしかったのかもしれない。僕にはシュウの心象を想像することしか出来ないけれど、彼が僕の事を理解しているように、僕も彼の事を友人としてそれなりに理解しているつもりだ。
それに、僕は恋人同士のケンカに興味があった。それがミスタだと知っている者として、とても。
シュウは淡々と顛末を語ってくれた。会える時間が取れないこと。互いの引越しや仕事の都合でどうにもならないこと。寂しがっているのは自分だけなこと。多分相手は自分を疎ましく感じているかもしれないこと。
「付き合う前にはこんなに執着するなんて自分でも思わなかったんだよね」
そんなことをただ話して、最後にシュウは言った。
「別れを切り出されたら、どうやって延命すればいいかな」
その延命が指し示す先は、恋人という称号をいかに守るかという事だろう。
「守り続けても、相手の気持ちが離れていたら虚しくならない?」
「その時にならなきゃ分からない。ただ、好きになってもらえるよう努力はしたい」
「その努力自体が空回りだとしたら?」
「……なんだか、アイクは僕に諦めろって言ってるみたい」
その通りだ。僕はシュウに諦めてほしい。だって僕は知っている。ミスタが君を好きだったこと。その上で、諦めたことも。
卒業する前、春を迎える頃合いでミスタは君を諦めた。
中略
「ハァイ、名探偵。最近恋人とはどう?」
「酔ってんのか……? いや、……あ、時間的に寝てねぇんだろ!」
「せいかーい。僕は眠りの神に嫌われてるんだ」
「アイク、今……えー……そっちは深夜3時くらい?だぞ」
「起きてる君もなかなかスパイシーだね」
「文豪の頭がとっ散らかってる」
ミスタも夜に眠れない住人だ。今どこに住んでいるか知らないけれど、やっぱり起きていたらしい。僕は楽しくなって、そして頭のネジが数本外れていて、平時なら言わない事をのたまった。
「今でもシュウのこと、好き?」
中略
そんな日の夜、僕は呼ばれた。誰にって? なんと、ルカだ。てっきりシュウに話しかけられるかと思ったのに、「先に眠る」とシャワーをさっさと済ませてさっさと民泊の大部屋へ戻っていったルカが、二番目に戻ってきた僕を捕まえた。
珍しくはないけれど、わざわざ呼ばれるのも珍しい。そのまま話すのかと思えば「明日の朝話す」と勿体ぶってくる。いったいなんなんだ。とりあえず、今日の手記はここで終わりにしておく。
シュウの行動記録というには他人と僕の話が多いって? これは日誌でも日記でもない。ただ記録した手記だ。だから、この書物に書くことも、行方も、全部僕が決める。
それに、人間は本人の言動だけで全てが決まらない。遠因には環境や時節も関わる。せっかく蚊帳の外にいるのだから、僕は僕に書けるものを記すだけだ。
続く。