謎の幸せ時空でデートする勇者と村人前日、イロアスは少し浮ついていた。色白の肌は平生より血色が良く、はにかみと期待を押しつぶす大人しげな表情をしていたもののその瞳は明るく、何より幼馴染に掛けた声色はいつもより甘かった。
しかし何事も上手くいくようには出来ていない。不幸な境遇と釣り合いを持たせるかのように恵まれた才能、世間の評判が変わるにつれてできる幼馴染との距離。目まぐるしい極彩色に咲き誇る彼の人生はいつもイロアスを失意のどん底に突き落とす。
「スレイヴ、明日は予定を空けておいてくれ」
「駄目だ、用事がある」
「……何の用事があるんだ?」
表情が若干強張るのを感じながら、努めて冷静に言葉を返した。
何事にも優先順位がある。スレイヴはそれを間違えてはいけない。己よりパーティーを、イロアスを優先させなければならない。それがスレイヴに求められているものだから。その献身が彼に居場所を与えている。
不穏な色を帯びた声を気にする素振りもなく、スレイヴは目を眇めイロアスを見つめ返した。
「忘れたのか? お前が武具屋に預けてる鎧を取りに行けって言ったんだろう」
「なら朝のうちに済ませておけばいい。その後は俺に付き合ってくれ」
「それも無理だ。先約がある」
「誰とだ?」
休暇を伝えられたのは朝の話で、今は夜。予定が埋まっていたところで不自然な話ではないだろうに。明らかに責める声色を前にしてスレイヴはほんの少し身動いだ。だが、何も責められる謂れがないことに気づくとすぐにむっとした表情で口を開く。
ナイトと。そう続いた言葉のせいで、イロアスの計画は始まる前から最悪だった。
──
「買い出しに人手が必要なら最初からそう言えばよかっただろ」
「二人で行きたかったんだ。あの場でそう言えばナイトも着いてきただろうからな」
「別にいいだろ。ナイトがいたら駄目なのか?」
結果としてイロアスの計画は予定通りに進んでいる。
ナイトと剣を打ち合う予定を取り付けたのだと嬉しげに話すスレイヴの前でナイトを呼び止め、明日スレイヴは自分と予定があるのだと説明すると彼はどこか安堵したような、それでいて若干の落胆を滲ませた表情で約束の延期を申し出た。その反応から察するに、大方『剣の打ち合い』自体は乗る気でなかったのだろう。そのことに気づき心に余裕が生まれたが、スレイヴとの間に険悪な空気が流れたことに変わりはない。
「ナイトの休日まで潰す必要はないだろ。剣の打ち合いだって、延期ってだけでやめるとは言わなかった」
「正確な日付まで約束しなかったけどな。……今日だけだったんだぞ。いつもは断るのに、今日は少しだけなら付き合うって話だった」
不貞腐れたスレイヴにいくら「打ち合いの相手なら俺がいるだろ」と口説き落としたところで響かず、余計不機嫌にさせるだけだった。
イロアスも必死だったことなどスレイヴは知らない。日程を調整し、今日に合わせて留まる街を決め、今日に合わせてパーティーの休暇日を定めた。ナイトが今日だけスレイヴの頼みを聞き入れたように、イロアスもまた今日でなければ駄目だった。
気まずい雰囲気を払拭するように明るい声を出す。お互い付き合いの長い分、幼馴染の機嫌を取る方法は心得ている。
「スレイヴ、腹は空いてないか? あっちに串焼きがあるぞ」
「さっき昼飯食べたばっかだろ」
「ならあれは?」
「! ……奢りだからな」
指を差した先にあるアイスに気づくとすぐに着いてくるあたり、この幼馴染はいつも変わらずに可愛い。
定番と変わり種の二種をカップに載せ、持ち手の短いスプーンを刺されたものを受け取る。色の違うアイスをもう一つ受け取り、片方をスレイヴに渡した。
「二つもいいのか?」
「特別だ」
代わりに少し小さいサイズにしたことは黙っておく。昼食を終えたばかりだからかスレイヴも気に留めた様子はなかった。
「そっちは何味だ?」
興味津々で手元を覗き込むものだから、そのまま差し出す。案の定一口ずつ掬って食べたあと「チョコといちごだな」と嬉しそうに甘ったるい唇を舌で舐めた。
「それは? バニラの隣の緑色の。勧められたから選んだが」
「っ……豆の味がする」
括りの大きな味の感想に苦笑いがこぼれる。もにゅもにゅと動いた唇の形からあまり好きでは無いのだな、と察するのは十分だった。
「交換するか? チョコもいちごも嫌いじゃなかっただろ」
「いいのか?」
「ああ。それと、」
余程苦手な味だったのか、安堵して無防備になった顔に唇を近づける。湿った唇を舐め取ると、確かに豆と形容するのに相応わしい味がした。子供舌のスレイヴは好みではなさそうだ。
「口直しだ」
きょと、と目を丸めたスレイヴは恥じらうこともなければ嫌悪を示すこともない。ただ溶けかけのアイスの入ったカップを受け取りながら「そうか」とだけ言った。
「…………」
ご満悦の表情でチョコレートアイスを口に運ぶスレイヴの横顔を見ながら、大荒れしそうになる心を必死に諌める。表面上は取り繕えていても、既に心臓は暴れ回っていた。
それだけか? 何とも思わないのか? 今の俺、不自然じゃなかったか?
手に持ったアイスのほとんどがカップの中で混ざり合い白と緑の斑な液体になるまで、スレイヴがアイスをすっかり食べ終えてからもその疑問に答えは出なかった。
「それにしても、何でこんなに人が多いんだ?」
人の間を縫って歩き、時折波に飲まれそうになるスレイヴの肩を掴んで進むこと十分ほど。牛の歩みにスレイヴがようやく疑問を持ったのは、先ほどのアイスを買った店からほんの数十メートル離れてのことだった。
「祭りがあるらしい。ほら、いつも見ない露店も多いだろ?」
「へえ、ここは随分平和なんだな」
「……そんな風に言うものじゃない」
「わかってる。俺もそんなつもりで言ってない」
故郷を失ったのはお互いだ。かつて家が、居場所が、沢山の人と繋がりがあったそこにもう立ち入ることができないのは二人とも同じことだった。一度魔王軍に襲われ制圧された土地は今や魔物の領地となって見舞うことすら許されない。
だからこそ、こうしてまだ魔王に脅かされていない場所の平和な空気を味わってもらいたかったのだ。喜んでほしかった。
「スレイヴ、あっちの雑貨屋に短剣が飾ってある。見てみないか?」
「武具屋で散々見てきた」
「なら俺が見たいから付き合ってくれ」
付き合いの長さから何と言えば着いて来てもらえるのか予想するのは容易かった。一番実用的かつ興味を惹きそうな物で注意を引き、あとは好みそうなものを見せればすぐにスレイヴの興味は雑貨に移る。案の定、年齢より純粋で少し幼い趣味をした彼はドラゴンを模した装飾品に目を奪われている。
「欲しいならそれも買うか?」
「無駄遣いするな。さっきといい、今日はどうしたんだ?」
「たまにはいいだろ。忘れたか? 今日が何の日か」
疑問の浮かぶ表情からしてわかってはいないのかもしれない。いつの日からか、彼にとって今日という日は然程重要ではなくなった。
装飾品を棚に戻して歩き出すスレイヴをやんわりと誘導する。向かいの店がイロアスの本来の目的地だ。先ほどの店より客層はもう少し大人向けで、幼稚さが抜けてシンプルなデザインが多い。小さな魔石が装飾にあしらわれたものを一つ手に取り、スレイヴの指に嵌めてみた。
「こういうのはどうだ?」
「剣を握るのに邪魔だ」
「……そうか。そうだな。けどほら、この魔石は魔除けの効果があるらしい。こっちの首飾りなら同じ石だし、デザインも問題ないだろう」
「なら俺じゃなくお前がつけるべきだろ」
首に当てていた首飾りを奪われ、スレイヴが留め具を外そうする。
「何だこれ、少し硬いな」
「駄目だスレイヴ、そんな力任せにしたらチェーンが切れる」
「売り物を壊す訳ないだろ……!」
慣れてもいないし、あまり器用なほうではないからこういう細かい物の扱いは不得手なはずだ。案の定チェーンの弛みに余裕がなくなるほど引っ張りながら何とか留め具を外せたようだった。
「そのまま動くなよ」
身を屈めて手元を覗き込んでいた首に浅黒く焼けた腕が回る。すぐ目の前に腕と同じ色をした鎖骨が見えて、堪らず漏れた吐息が肌に掛かるのがわかった。
腕の中に抱き込まれる形で待たされること更に数分、ようやく金具を留めたスレイヴが嬉しそうに声を上げる。
「ほら、やっぱりお前は何をつけても似合うな」
「あ、ああ……ありがとう」
「買うのか?」
「いや、」
今日二人で出掛けたのはスレイヴに何か買いたいと思ったからだ。もう食うに困るほど金銭的に苦労をする旅路ではない。気を抜いて贅沢はできないが、特別な日に欲しい物に手を伸ばすくらいはできるようになった。
しかし、物欲のない彼からすればここに手を伸ばしたい物もないらしい。欲しくない品なら貰ったところで喜ばないだろうことも予想がついた。
「そうだな……揃いで買うのはどうだ?」
たった今思いついた口調でそれを言うのには随分と勇気が要った。極端な緊張は渇きに変わり、喉に空気が張り付く感覚に襲われる。
「揃い?」
「今までそういうものを持っていなかっただろ? スレイヴの分は俺が払うから、俺の分はお前が買ってくれ」
「俺には必要ない」
「ならスレイヴの分だけ買おう」
「おい! だから魔除けなんて俺じゃなくて勇者のほうが……」
「今日、何の日か知ってるか?」
言葉を遮るように問い掛けると、スレイヴは少しの沈黙の後ため息を吐いた。
「誕生日だろ、俺の。だからどうしたって言うんだ」
忘れているわけではなかった。ただ、重要ではないと考えてただけだ。そのことに思い至ると同時に心に影が差す。
ほんの数週間の違いであるせいか、スレイヴだってイロアスの誕生日には祝いの一言を誰よりも先にくれる。それは今も昔も変わらない。
「お前が俺の誕生日を祝ってくれるのと同じくらい、俺はお前のことを祝いたい。そのプレゼントに買ってはいけないか?」
日付が変わると誰よりも真っ先に生まれた日を祝福してくれるスレイヴの言葉は、イロアスにとって何にも代えられない祝福だ。それに見合う贈り物をイロアスは用意できないし、したところでスレイヴは喜ばない。それがわかっていても贈りたいと思うのは己のわがままだ。
だから、どうせならもう少しくらい自分の気持ちを押し付けてもいいのではないか。そんな純粋な祝いの気持ちと僅かな下心で揃いの品を欲しがった。
「……す、好きにしろ……」
彼にしては珍しく恥じらいを滲ませた声で得た許可がイロアスの心を晴らす。面映ゆいのを隠しきれないスレイヴが「お前ならこれよりもっといい魔除けが報酬で手に入るだろ」と可愛くないことを言うのも、普段からはだけさせた首元を気にしながら早く帰ろうとするのも、このときばかりは気にならなかった。
こうして、二人の揃いの品はいとも簡単にイロアスの首を飾った。
しかしスレイヴが首元の煩わしさからすぐに首飾りを外したがることも、その上大人げない大人たちのおもちゃにされてしまうことも、魔除けとしての効力を発揮して早々に壊れてしまうことすら、イロアスにとって予想はついても避けようのないことなのだった。