ハッピーエンド 見慣れた星々を指先で結ぶ。シンの頭上には今夜も、先人たちが読み解いた、壮大で果てしない物語が展開されていた。
シンが息の詰まるような下層の生活を捨て、廃墟とも言えそうなこの隠れ家に転がり込んでそれなりの時が経った。迎え入れてくれたのは、シンと同じく家族を持たず、シンと違って名前すら持たない、黒髪の少年だった。凛々しさを湛えた姿は幼い頃から繰り返し読んでいた絵本に出てくる翼竜そのもので、どうせ持たぬのであればと、シンは少年に竜の名を与えた。
「エアのやつ、おそいなぁ」
その彼の名前を口にして、シンの指先は星を追うのをやめ、力を抜いた腕を横たえた身体の脇におさめた。
「留守番はいいけど、たいくつ。おれをこんなに待たせるなんて……」
とある偶然から得た、エアの稼ぎ口。酒場の主人からスカウトを受け、6フィートマッチと呼ばれる些か乱暴な催しに参加することで報酬を得ている。今日はシンも同行していたが、エアが大の大人を複数人連続で伸すという仕事を終えたあと、何故かひとりで先に帰されてしまった。エアに何を聞いても用事がある、の一点張りでかなり不服だったが、家――ふたりが勝手にそう決めているだけの場所のことだが――をそう長く空けたくないこと、帰りがけにキャラメルマキアートを購入して良いことを告げられ、うまく丸め込まれるようにひと足早く帰宅した。
そのうちすっかり日も暮れて、退屈しのぎに星々を繋いでいたというわけだ。待ちくたびれたため息が、夜空に吸い込まれるか否かという瞬間。聞き覚えのある足音が響いた。
「エア! おそい!」
「ごめん」
ひとしきり罵っても足りないと思っていたというのに、エアは申し訳なさそうに、けれど淡々とした声で謝罪の言葉を口にした。シンがその真摯さに不意を突かれて次の台詞を迷っていることを知ってか知らずか、エアは続けて喋り出した。
「探すのにちょっと、時間がかかって」
「探すって、なにを?」
「シンが前に言ってたこと……ほんとうの家族に、どうしたらなれるかって」
酒場の大人に聞いてみたのだと、エアはズボンのポケットを探りながら語る。そして掴み出したのは、銀色に輝くリングだった。
「なに、これ?」
エアが褐色の手のひらにのせて差し出したそれを、シンは慎重に摘み、星明かりにかざしてみせた。リングが放つ輝きに心惹かれつつ、エアの意図まではわからない。リングから目を離し、すべての疑問に対する回答がほしいとエアの顔を見つめる。エアは大人たちと闘うときよりも一生懸命な顔で、覚えたての技を使うときよりも真剣に、再び語りだした。
「これを指にはめて、神さまに誓って――それで、その……」
「おれの指にはめるの? でも、これだと少し大きいし……神さまになんて、誓いたくも祈りたくもないよ。絶対に神さまじゃなきゃだめ?」
「……わかんない」
少し早口なシンの質問攻めに、エアは口ごもってしまう。ほんとうの家族になるために、自分たち以外の存在の許しが必要になるとは、シンには到底思えなかった。シンが持つどの指に通しても緩く抜けてしまう銀色のリングに、エアの手が添えられた。
「それなら、これはもう少しあとで」
「リング以外にも、何か必要なの?」
「うん……でも、それも今じゃなくていい、から……」
「……?」
どうにも歯切れが悪いエアの気まずい表情、その真意をシンが知ることになるのは、それから数年先のことだった。
「ぶっ……くく、ふふ……ははは!」
「シン……笑いすぎだ」
きらめく街角、シンがコーヒーショップでテイクアウト注文したその日二杯目のキャラメルマキアートからはほんのり湯気が立ち昇っている。溢さないようにと、エアがシンの手からカップを取り上げた。
「はあ、苦しい。あったなぁ、そんなこと」
目尻の涙を拭いながら、シンは己がまだ少し幼い頃の、エアとの会話をじっくり思い出す。ほどよく懐かしく、少しだけ恥ずかしいそのトピックスについて切り出したのはエアの方からだった。もし、クリスマスを祝うコーヒーショップの店内でこの話題を振られていたなら――あまりに面白おかしくて、つまみ出されていても仕方ないほどだった。
「でも、もうこんなリングなんて関係ないだろ? 別に、俺たちは家族なんだし」
シンが胸元に下げたリングを指す。あの頃よりは大人になったし、知識も増えた。エアと過ごした時間さえ積み重なって、下層で暮らしていた幼少期よりも確かに充実している。エアの手からカップを取り戻し、煌びやかな大通りから外れると、イルミネーションや街灯ではなく夜空の星々の光が頭上に浮かび上がる。シンが我が家へと上る非常階段に足をかけたところで、エアからの返事がなくなったことに気が付いた。ふたり幼い頃のあれそれを、シンが笑い飛ばしたことに拗ねているのだろうか。
「拗ねるなよ、エア。馬鹿にしたわけじゃねえって」
「あ、いや……ああ」
エアの変わらない淡々とした声と、何かを含んだような返答に、あの夜の雰囲気が蘇る。
「……わかったよ。でも俺は、神サマになんか何も言ってやりたくない。だからエア、おまえに誓う」
エアはシンに、すべてを与えてくれる。そのエアが、おそらくコーヒーショップを後にしたあたりから物欲しそうな表情で後ろを着いてきていることが、シンにはわかっていた。階段を一段登ったところでエアと向き合う。それでちょうどふたりの身長差がなくなる高さだった。
「はい、どーぞ」
「シン……俺は」
「いいって。まどろっこしーの、俺嫌い」
数秒の空白と、キャラメルマキアートではない熱。特に何かが変わったとは思えないけれど、触れられないモノのかたちをなぞるくらいのことは、できたような気がした。
「あ、エア、照れてる」
言うが早いか、階段を駆け上がる。シンの胸元を銀のリングが弾んで、きらりと光った。
「シン――疲れているのなら、きちんとした休息を取りなさい」
声。誰の。知っている誰か。大切な誰か。違う。
「……シリウス」
目を開けた先の暗がりと煙たさこそが、正しくシンの日常だった。待機を命じられていた身、退屈の末の居眠りを咎めた声色は、心からシンの身を案じたものではないと、身に沁みて理解している。
「いらねぇ……動けってんなら動く」
「ありがとう。助かるよ……おや」
シンの耳元に、かすかに微笑みを浮かべたシリウスの顔が近付く。
「……いい夢だったかな」
低音がシンの脳内に響く。系が切れたような感覚を味わうのは、これが初めてではない。
シンが地上から持ち込んだキャラメルマキアートは、うたた寝の合間に冷め切っていた。喉の奥に流し込んでも、夢の中で感じていた熱は追いきれない。頬を勝手に流れていくひとしずくの理由さえ、シンにはもう、思い出せなかった。