マリン・モールス・マーメイド コンセプトは海の底。地下二階にある店内はかなり薄暗い。陶器で出来た貝殻の中央に、真珠を模した球体が鎮座するテーブルライトへの既視感を振り切って、フェイスはメロウなBGMの方に意識を集中させた。時折混ざる波の音は本物を録音したもののようだ。雰囲気作りに力を入れているわりに、客の入りはまばらだ。それもそのはず、オープンしたばかりのカフェレストランは海沿いに位置するホテルのテナントで、シーズンにはまだ少し早い。いわゆる良いムードの店の中、フェイスとテーブルを挟んで向かい合うのは、海水浴や写真映えを目当てにするような人物ではなかった。
「シーフードピザ!」
「シーフード……ね」
ディノはその瞳をシェルランプよりも輝かせて、輪切りのイカ、ホイールのように丸まった海老など、大ぶりな具材盛り沢山のピザを愛おしそうに見つめている。海の中で海の生き物を食す残酷さについて問うのは野暮というものだろうか。食い気が百パーセントの恋人に対して残念な気持ちは微塵もないけれど、どこか気が抜けてしまう感覚はあった。
クラブ仲間から話を聞いていたこの新レストランの女性店員は、人魚をモチーフとしたユニフォームで接客している。尾鰭のようなフリルの付いたエプロンの裾を目で追った。レストラン全体を見て、フェイスが想像していたよりはいかがわしくなさそうだ。これならディノを他の誰かと来させても安全だったかもしれない。彼が夢中でピザを頬張る合間に、女性たちに連絡先を聞かれることがないのであれば。
フェイスの思惑などつゆ知らず、ディノは嬉しそうにピザを取り分けている。フェイスが店員を観察していることに気が付いたディノがやっと、店に入ってから初めて、ピザではなくレストランそのものについて言葉を発した。
「本当に、御伽話の海の中みたいだ」
「ああ……人魚のお姫さまの話でしょ? 小さいころ、読んだことがあるよ」
「へえ、例えておいてと思うかもしれないけど、実は俺、あまり詳しくないんだ」
その物語は結末が結末なだけに、子供に読み聞かせる保護者は少ないのかもしれない。どうしてもと兄にせがんだ昔話は隠して、フェイスは大体のあらすじ――悔しいことに結末まで兄の声で覚えている――をディノに話した。
人魚のお姫さまは、叶わぬ恋に落ち、自らの命を差し出した。様々なものを引き換えに得られたものの価値について、幼いフェイスが納得していたかどうかまでは思い出せなかった。
空気と水分の混ざり合った、違和感のある音が聞こえてふと顔を上げる。ディノの瞳が水面のように潤み、その肩は震えていた。
「えっ……ちょっと、なに泣いてるの?」
「だって、うっ……そんな……お姫さま……」
ディノはものも言えずにテーブルナプキンを両目に当て、フェイスはものも言えずに溜息を吐いた。彼が育った家で、そういった結末のストーリーの類がタブーであったことまでを想像してしまいながら、小皿に乗ったシーフードピザをディノの鼻先に突き付けた。
「ほら、ピザが冷めちゃうよ」
「う、うん……ごめんな、フェイス」
「あらすじだけで泣かれるなんて思わなかったし、感受性が豊かすぎてびっくりしたよ。別にいいけど」
ディノは鼻の頭を赤くして、それでもピザを一口食べた瞬間に、悲しいお話のあれやそれは吹き飛んでしまったようだった。啜り泣きから一転、美味しいからフェイスも早く食べてみてと笑顔を溢れさせている。表情のころころ変わるさまを波模様に例えるのなら、振り回されている自分は差し詰め難破船だ。SOSを出した先が目の前のピザというのも口惜しい。半ばやけになりつつ口の中へピザを放り込んだ。
「うん、美味しい。アンチョビが効いてるのかな、ちょっと塩辛いけど生地とよく合ってる」
「フェイス、大好き」
「脈絡なさすぎじゃない?」
愛の告白は、食の感想への返しには不適切極まりない。受け入れないつもりはないが、一応は指摘せざるを得なかった。ディノは何が嬉しいのか二度三度頷いて、そして照れ臭そうに言った。
「伝えたいときに気持ちを伝えられるって、幸せなことだと思って」
「まあ、それもひとつの教訓かな。……俺も好きだよ、ディノ」
自分たちは尾鰭を持たず、泡になったりもしない。けれど起こり得ないことを考えれば、いま目の前にあるものの価値に気が付ける。
コンセプトは海の底。地下二階にある店内はかなり薄暗い。テーブル付近の人魚たちが声を失ってしまっていることには、フェイスは気が付かなかった。