終わりの庭 ディノが祖母からの報せを受けたのは、長袖でも肌寒い朝のことだった。陽の光は柔らかく、すぐそこに春の気配を感じるものの、緑の芽吹きはまだ、予感のみに留まっている。
「そんなの、気にしなくていいのに」
『そうよ、だから連絡したの。あなたも忙しいのは知っているけれど、黙っているよりはと思って』
祖母の声は窓から差し込む陽光のように明るい。それほど深刻ではなさそうな様子に安堵して、ディノが答える。
「うん、一度みんなに相談してみるよ」
挨拶もそこそこに通話を切って、ディノはウエストセクター研修チーム、その生活圏であるリビングを振り返った。チームメイトは三人。うちルーキー二人は、早く行け、という指差しのジェスチャーが息ぴったりに揃っている。そしてディノと共にルーキーを受け持つ同期の友人は、「そういうことだから」と言って、ディノと同じように、他の誰かとの通話を切ったところであるようだった。
「みんな、あの……」
「わかってる、早く行ってやれって。こっちも何かあったら連絡すっから。フェイスが」
「なんで俺」
「なあ、じーちゃん、大丈夫なのかよ」
「あ、うん、お医者さんには安静にしていれば大丈夫って言われたらしいけど……」
共有スペースであるリビングの真ん中で堂々と通話をしていたのだから、祖母との会話はチームメイトたちに筒抜けで当然だ。ディノの祖父が体調を崩し、少したちの悪い風邪との診断で、祖母曰く、本人はディノへの連絡を拒んだらしい。状況を整理しなおして伝える前に、仲間たちは何が起きたのかを察して、祖父の身を案じてくれている。心配と頼もしさで何かの栓が緩みかけたが、ディノは気を取り直して続けた。
「おじいちゃんも落ち込んでるみたい。前みたいに、俺に心配かけたくないって……」
「変に気ぃ遣って意地張るところ、お前そっくりだよな」
「ちょっと、キース……」
「ってことで、お前の休み調整はブラッドに押し付けておいた」
咎めるフェイスを無視し、ディノと目を合わせないまま、キースは手にした携帯端末を軽く揺らしながらぶっきらぼうに言い放った。メンターリーダーであるブラッドに急な休みを申告したからといって、ディノの仕事やパトロールの持ち回りが具体的にどうなるとも思えない。以前帰省したときと同様に、結局は仲間たちに皺寄せがいくことになる。キースはブラッドの名前を出すことで、暗にそれを気にするなと言ってくれていた。
「キース……ありがとう」
「素直じゃねーやつ」
「ねえ、ディノ。いつ出発するの? すぐ発つなら、このリニアならまだ余裕があると思うけど」
フェイスが端末の液晶をこちらに向けて、ディノが見やすいように掲げる。この短時間の間にインターネットでリニアの時刻表を調べてくれていた。確かにフェイスの指す便であれば、今から軽い荷造りをする時間くらいはありそうだった。
「助かるよ、フェイス……ごめんな」
「謝らなくていいよ。本当に、良いのか悪いのかわからない癖なんだから」
自室へ向かうディノの後ろを、フェイスが着いてくる。そもそも今日はチーム全員オフの予定で、もっと言えば、フェイスとは共に出かける約束があった。一応は――などと謙遜した言い方では、背後にいるフェイスの不機嫌な小言が加速しそうだが――恋仲である相手との約束をこちらの都合でキャンセルすることになる。申し訳なさは膨れ上がり、祖父の心配で逸る心と胃を圧迫している。そんなディノの沈みきった表情を、目敏いフェイスが見逃すはずがなかった。
「ねえ、俺がいくら気にしないでって言っても気にするだろうから先に言っておくけどさ」
「……うん」
「俺が、具合が悪いおじいさんよりも俺を優先して……とか言うやつだなんて思ってないよね?」
「当たり前だろ、でも、埋め合わせはちゃんとさせてほしい」
「当たり前でしょ。……いってらっしゃい」
ディノが手当たり次第に着替えを放り込んでいるボストンバッグを間に挟んで、フェイスからのキスが頬を跳ねていく。それだけで心が少し軽くなるのだから、我ながら単純かもしれない。リビングから、タワー下にタクシーを呼んだとジュニアの大きな声が聞こえる。ディノが見舞いから帰ったらお礼のピザパーティーだと叫び返すと、何故か返事はなかった。
定刻通りのリニアに乗り込んで、バスを乗り継ぎ、ようやく祖父母の自宅付近に到着したのは日暮れ前だった。なだらかな斜面の上に建つ、赤茶色の屋根の家。壁は白基調だが、今は夕日を受けて屋根よりも明るいオレンジ色に見えた。タワーを出る直前と、リニアを降りた際に祖母にはメッセージを送っているが、祖父はまだディノが帰ってきていることを知らない。陽気な祖母と共謀したサプライズというより、ディノへの連絡を拒んだ病床の祖父への中途半端な配慮に近かった。驚くだろうが、喜んでくれることを祈りながら、ディノは玄関の扉に手を掛け、ただいま、と声を上げた。
祖父は階下の物音や話し声で、何が起きたかを察したらしい。ベッドの上で本を読みつつ、難しい表情を浮かべていた。
「おじいちゃん、ただいま」
「……おかえり、ディノ」
「具合はどう?」
「大したことないよ、寝てればすぐに治る」
優しい声色とは裏腹に、まるで祖母を咎めるような祖父の視線を遮って、ディノは一歩前へ出た。
「おばあちゃんを責めないであげて。おじいちゃんの気持ちはわかるけど、俺はどんなことでも連絡してほしいし、心配させてほしいよ」
「む……責めたりは……してないけどなぁ……」
縮こまる祖母とその前に立つディノを見て、祖父は厳しく吊っていた眉を八の字に緩ませた。
「ま、まあ……元はといえば風邪を引いたわしのせいだしな、心配かけて申し訳なかった。ディノも、来てくれて本当に嬉しいよ」
「おじいちゃん……」
風邪が移ってはいけないとディノからのハグを制止して、祖父はただ、と続けた。
「ディノ。おばあさんも、ひとつだけ聞いておくれ」
「……はい」
「厳しいことを言うけれど、前回と今回はタイミングが良かっただけだと思いなさい。……ディノは、ニューミリオンを守る『ヒーロー』だろう?」
朝の空気を取り込むために開け放された窓から、日の光に緑が映え始めた庭が見えている。ディノが懐かしい我が家のありふれた光景を見るともなく見ていると、キッチンから現れた祖母が手際良くダイニングテーブルに茶器をセッティングして、ディノの向かい側に腰掛けた。
結局、昨晩は病人の近くにいるべきではないと祖父の部屋には長居させてもらえず、祖母と二人夕食を摂り、長旅だったのだからと早々に就寝させられてしまった。フェイスやジュニアとはメッセージでやり取りしているし、チーム内外問わず目立った問題はなさそうだったが、祖父に諭された言葉を思えば、やはり自分ひとり長く不在でいるわけにはいかない。今日の夜行便でニューミリオンに戻ろうと思っていることを伝えると、祖母はティーカップの裏側で申し訳なさそうな顔をした。
「ごめんなさいね、慌ただしくさせちゃって……私ったら本当に、余計だったかしら」
「そんなことないよ、これからも……何かあったら遠慮なく連絡してほしい」
何かあったら。そう濁してはみたものの、ディノの目線はダイニングテーブルの木目に集中していた。ちょうど昨日の今頃、タワーで祖母の電話を受けた時。心臓が嫌な揺れ動き方をして、通話ボタンを押すのが怖かった。祖父のためを思いながら、誰よりも一番にこの家に帰りたかったのは自分なのだと、今の祖母に打ち明けることは憚られた。
「……花がね、咲かないの」
「……花……?」
唐突な祖母の言葉に、ディノは目を上げた。祖母はディノの向かって右側、開け放された窓の先を見ていた。
「そう。貴方の誕生日も近いけれど、今年はまだ少し寒いでしょう。一番早い種類でも、いつもよりは遅いのよ」
まだ花のない庭を、ディノももう一度眺めた。祖母の発言の意図が、まったく掴めなかった。
「毎年、おじいさんと一緒に見ているけれど……あと何回見られるかしらね」
「……おばあちゃん」
「朝からこんなお話、って思うでしょう、違うのよ。楽しみにしているの。例えば、貴方がいなくなってしまったとき」
ディノが祖母を振り返ると、祖母は柔らかく微笑んだ。ディノはまる四年以上、この家に帰らなかったことがある。敵に操られ、自身の記憶すら曖昧であった当時のことを祖父母に語ったのはここ一年以内の話だ。その上、原因については今もまだ明確に解決したとは言い難い状況だった。
「もちろん、ブラ……、【HELIOS】から連絡は来てたわ。でもね、信じていたの。おじいさんと二人で、希望を忘れないように。貴方が帰ってきてくれたとき、もうこれ以上の良いことは生きているうちに起こらないかもしれないって思った」
祖母は遠い目になり、それからゆっくり瞬きをして、意を決したように息を吐き出した。
「おじいさんの言う通りね。貴方の使命ほど、尊いものはない。私たちの都合で、貴方や周りの人に迷惑をかけたいとは思わないわ」
「迷惑だなんて思ってないよ。それに、おじいちゃんが言ったことの意味も、よく分かってる。だけど……」
昨晩の祖父の言葉も、今の祖母の言葉も、つまり有事の際には自分たちよりも『ヒーロー』の職務を優先してほしい、ということだ。祖父母の気持ちは痛いほど理解できる。一度死んだも同然の自分が、こうして再び家族との時間を持てている幸福。祖父母もディノと同じくらい、もしかしたらそれ以上に、再会の喜びを感じてくれている。それでも、『ヒーロー』として帰ってきたディノには必然的な役割がある。最悪の場合、愛する家族と、再び別れの覚悟をしなければならなかったとしても。
ふと、ディノの頭に浮かんだのはフェイスの、仲間たちの顔だった。誰にとっても、未来は不確定なものだ。
「ごめんなさい、優しい貴方には酷な話だとわかっているわ。それに、何よりも今、貴方と過ごせる時間を大切にしないとね」
「……おばあちゃんは……寂しくないの?」
ディノの質問は曖昧かつ不明瞭だが、祖母には何が言いたいのか理解できたらしい。しばらくの間のあとで、祖母はゆっくりと答えた。
「……寂しい、と感じるのは人間のさがだけれど、それで不幸せだというわけではないのよ、ディノ」
「寂しいけど、幸せ……?」
それはどういう意味なのか。釈然としていないディノに祖母はそれ以上何も言わず、緑の庭を眺めながら、穏やかな笑みを絶やさなかった。
ディノが実家を出発する頃には、祖父は階下まで見送りに立てるほど快復しているように見えた。ディノをこれ以上心配させまいと多少無理をしていたとしても、自力で歩く体力があるのなら安心できるはずだ。大騒ぎでタワーを出たわりに、結局はとんぼ返りになってしまったことをキースに詫び、フェイスやジュニアに留守番の礼をして、ディノは通常の業務に戻った。
日常の中で、何度も祖母との会話を思い返す。
タワー内ですれ違う同僚、街中で会う『ヒーロー』のファン、生活圏内のチームメイトの顔。誰しもが、いつどうなるかわからない毎日を何食わぬ顔で過ごしていた。先のことをいくら考えても仕方ないと頭では理解している。恐れていては生きていけないからだ。だというのに晴れてくれない心の靄の正体に、ディノはとっくに気が付いていた。
「ねえ」
そして、とある日の午後、とうとう指摘されてしまう。当たり前のようにやってきたその瞬間に、ディノはとりあえずの返事をするしかなかった。
「……何だ、フェイス? どうかした?」
「分かりやす……」
呆れ声と共に放たれた溜息で、ディノは自分の身がひと回り縮んだような心地がした。ここは乱雑に物が溢れたディノの自室スペースで、同室のキースはジュニアと共にパトロール担当で不在だった。放置されたダンボール箱を上手に避けつつ、フェイスがディノの座るベッドに近付いてくる。
「実家から帰ってきてからずっとそんな顔しておいて、どうかした、も何もないよね。いい加減にしないと、おチビちゃんだって気が付いてるよ」
「う……でも、ほら、おじいちゃんは元気だったって言っただろ?」
「うん。だから、じゃあ何でディノは逆に元気がなくなったんだって話になってる」
マットレスがフェイスの体重分沈み込む。フェイスの淡々とした声にはディノを責める気配こそないものの、同時にもう誤魔化せはせず、逃げ場もないのだと強く訴えていた。
そんな顔、がどんな顔かは鏡を見なければわからないが、元気がないと言われてしまっては言い訳のしようもない。実際問題ディノ自身、普段ほどの元気がないことを自覚しているからだ。
「……デートの埋め合わせの話もないし、明らかにおかしいでしょ」
「あっ……違……わないけど、ご、ごめん、フェイス、忘れてたわけじゃなくて」
「いや、そんなに慌てられるなら、むしろ忘れてくれてた方がスッキリするよね。別にいいけど。……で」
何があったの、とこちらを見つめてくるフェイスの、澄んだ瞳をとらえる。何だか随分と久しぶりにフェイスの顔を直接見たような気がした。それはつまり、ディノが恐ろしいほど自分の考えのみに没頭し、周囲を見ていなかったことの証明に他ならない。申し訳ないやら情けないやら、ここ数日の間心にかかっていた靄の正体を掴むように、フェイスの肩にしがみついた。
「……あのさ」
「うん」
急な肩の重みにも動じず、フェイスはゆったりした動きで、項垂れるディノの背中に両手を回した。
「おじいちゃんとおばあちゃんが……みんなが、もし……もし、フェイスが……そうなったら、俺」
言葉にすることすら耐えられず、ディノが息を詰まらせる。フェイスはもうひとつ「うん」と返して、肩にあったディノの頭を自らの胸元へ抱き込んだ。嗅ぎ慣れた甘い香りがディノの鼻腔を満たす。ぬくもりに安堵して、深く息を吐いた。
「まあ、わかるよ。『ヒーロー』ってそういう仕事だし……でもそれ、キースの前では言わない方がいいかも」
「……うん」
フェイスの言うことは最もだった。ディノ自身、家族や仲間に恐ろしい体験をさせてしまっている。可能性は皆が等しく抱えているもので、回避する術はない。
「……俺は、このままフェイスと一緒にいていいのかな」
「は? ……そういう話になる?」
フェイスの声は呆れより驚きが勝っていた。ディノの方は年甲斐もなく取り乱しているというのに、フェイスの調子はまったく普段通りで、優しい低音が頭上で響いている。
「確かに、お互いだけのことじゃなくなる日が来るなら、いつかはちゃんと話さないといけないなって思ってはいたけど」
フェイスの手が、何か小さな生き物でもあやすようにディノの髪を混ぜては撫でる。心地良さに目を閉じかけたが、フェイスの突然の問いに、再び瞼をぱちりと開くことになった。
「ねえ、ディノ、俺のこと好き?」
フェイスの胸に抱えられていた頭を少し上げて、目と目を合わせる。フェイスは薄らと微笑みつつ、ディノの答えを待っている。自ら輝いているのではと疑うほど綺麗な顔が、ディノの薄暗い思考を奪う。顔だけではない。その温度が、甘い匂いが、存在の純粋さが、今の自分に必要不可欠だと本能が告げている。ディノが深く考える間もなく、口からふたつの音が出ていた。
「すき……」
「わかった。じゃあ、別れてあげない」
「んん……?」
フェイスの返答と結論に疑問を残しながらも、ディノはされるがまま撫でられ続けた。ご機嫌な低音が諭すように語った。
「おじいさんもおばあさんも、ちゃんと色々わかってると思うよ。まだまだ元気そうなんだし、また観光にでも連れて行ってあげようよ。あのオーナーに、宿泊費を持たせてもいいくらいだし」
不思議と落ち着くフェイスの声が、ディノの心の靄を払っていく。
「どうせなら、例の式場で俺たちのためのセレモニーもやっちゃおうか?」
「……ニューミリオン中の女の子が泣く姿なんて、見ていられないよ」
ディノが申し訳なさそうに言うと、フェイスの胸が楽しげに跳ねた。フェイスと共にやりたいことを頭に思い浮かべれば、先が分からず真っ暗だった世界が光に照らされ、色付いていくようだった。
「フェイス、ありがとう。変なこと言ってごめんな」
「いいよ、許してあげる。デートの約束、忘れてたこともついでにね」
「本当にごめん……」
罪悪感で満たされた肺をどうにか広げ、絞り出した謝罪の拍子にディノの鼻がきゅうと鳴ったのを、フェイスは犬みたいだともう一度楽しそうに笑った。
陽光は朗らかにニューミリオンの街を照らしている。パトロール中、公園の花壇にちらほらと鮮やかな色が付き始めたのを見て、ディノはもうすっかり全快した祖父や祖母とのメッセージのやり取りの中で、庭の花はどんな状態か問おうとしていたことを思い出した。今年は遅いのだと溢していた祖母の様子が、ずっと気になっていた。
次はいつ、あの懐かしい家へ帰れるだろう。長期の休みか、あるいはフェイスが言っていたように、またこちらへ二人を呼んで観光案内をするのも是非実現したいプランのひとつだ。わくわくするような気持ちで春の陽を仰ぐ。と同時に携帯端末がポケットの中で震えて、ディノへの着信を知らせた。
「ハイ、キース。こっちは順調。ジュニアとパークの外周を手分けしてるよ。大通りのダイナーで―」
『一本外れで爆発があった。フェイスと繋がらねぇ』
これ以上ないほど簡潔に、事実のみを伝えて電話を切ったキースが即座に送ってきたらしい位置情報が、手にしたままの端末の液晶に点滅している。平和というものは、どんなに望んでも、いつだって突然脅かされる。走りながら、ヒーロースーツに着替える。ヘッドセットのマイクに叫んだ。
「フェイス……っ、返事をしてくれ、フェイス」
「駄目だ、ディノ! おれも試したけど……とにかく……向かうしかねーだろ」
ディノの後ろから息を切らし、それでもなんとか追いつこうと走るジュニアが声を張り上げた。ディノがスピードを緩めるとすぐに、金色の髪が肩の下に並んだ。
「あれだ! 火事とかにはなってねーみてぇだけど……」
現場近くはすでに他『ヒーロー』によって規制されていた。確かに火の手などは見当たらず、警官の倍は野次馬が集まっている。人の山を掻き分け、開けた先が爆発の現場らしかった。裏通りの道路が五メートルほど陥没し、水道管から水が溢れ、配線やら建物の基礎が丸見えになっている。
「フェイスは……?」
「ヒーロースーツがあっても、これに吹っ飛ばされてたら……」
「あー、それなんだが」
ディノとジュニアの後ろから、気まずそうな声がかかる。煙草を咥えたキースが、明後日の方向を見ながら立っていた。
「キース、フェイスは? 見つかったのか? まだなら早く探さないと……」
「てか、こんなに人だかりができてていいのかよ。また爆発する可能性だってあるんじゃねぇのか? もっとがっつり避難させねーと危険だろ」
「あー、あー……まず、フェイスは無事で、これは爆発じゃねぇ。だから大丈夫だ」
「は?」
何なんだよ、おまえが不穏な連絡を寄越したんだろ、というジュニアの暴言をどこか違う世界の言語のように聞きながら、ディノは手の中で微かに震える携帯端末を持ち上げた。
『ハロー、ディノパイセン! 皆の頼れる情報屋、ビうわ』
『もしもしディノ? 俺だよ、フェイスだけど。俺の携帯……というか持ち物ほぼ全部、ダメになっちゃって。キースに聞いてるかもしれないけど、とりあえず一旦タワーに帰ってきてるから』
「フェイス……」
『……待ってるね』
フェイスが無事を知らせるために携帯端末を貸してくれた、頼れる情報屋が一体誰だったのかは不明のまま、終話音がディノの耳に響く。ジュニアの怒鳴り声がいくらか鮮明になって、ようやく我に返った。
「ジュニア、少し落ち着いて。キースも、何があったのか説明してくれるか?」
「うう……あんなでけぇ音したら、フツー爆発だって思うだろ? でも違ったんだよ、来てみたら水浸しの穴ぼこで……サブスタンス反応なし、怪我人なし。フェイスが巻き込まれそうだった車を一台軽く吹っ飛ばしたらしいが、運転手も無事だ」
「だからつまり爆発は誤報で道路は陥没で人助けして死にかけのクソDJはいなかったってことだろーが!」
「人助けしたフェイスは存在するっつーの……」
キースはとうとう、両手で耳を塞いでしまった。
春になり、地下水が流れ込みすぎたことが原因とみられる裏通りの道路陥没事故は、おおむね市によって処理されることになる。瓦礫やら道路の破片の除去にはキースの能力が大層使えるとジュニアが消防隊に吹聴して回ったので、報告のためにタワーへ帰還したのはディノとジュニアの二人だけだったが、ちょうどタワーのエントランス付近でジュニアの足がぴたりと止まった。
「あー……おれ、やっぱ向こう手伝ってくる。市民の誘導くらいならできると思うし」
「えっ……パトロールの後で疲れてないか? 今は一帯が通行止めになってるし、警察の方もいるし、無理しなくても大丈夫だぞ」
「まあ、パトロールも途中だったから。人手もあった方がいいだろ……あっ、でも、ディノは報告終わったら帰っていいからな! クソDJの面倒でも見てやってくれ」
ジュニアが風のように走り去る。微妙な早口を含め、すべては誰に対する気遣いなのか。後から詮索するほど悪趣味ではないつもりだ。
司令室に口頭のみの報告を済ませると、職員からキースよりも詳しく事故発生時の詳細について説明を受けることができた。
先ほどのディノ、ジュニアと同じように、キースと手分けして通りを巡回していたフェイスは、裏通りで何かが激しく軋むような音を聞いた。音を頼りに現場に駆けつけた時には、狭い道路は既に崩れかけていた。亀裂の中に取り残された車を、間一髪、能力で吹き飛ばした――と同時にフェイスは大量の水飛沫を浴びて流されるように広い通りまで放り出された。吹き飛ばされた車のドアが少しだけ凹んでいるのを、ディノはモニターでリプレイされた監視カメラの映像で見てしまった。とはいえ、そのまま穴に落ちて大事に至らなかったことは幸運と言えるだろう。びしょ濡れのフェイス自身は、先ほど身体検査を終えて自室に戻ったらしい。鬱陶しそうに濡れた髪をかき上げる仕草までで、映像は終わっていた。
「ディノ、おかえり」
「ただいま。お手柄だったな。身体、大丈夫か?」
フェイスはすでに全身乾いた状態で、着替えも済ませ、ベッドでくつろいでいた。見るからに代替機であろうブラックの携帯端末が、あまりにも馴染んでいない。
「濡れただけだからね……でも、最悪。泥まみれのぐちゃぐちゃだし、ヘッドホンも何もかも一度技術部行き。というワケで、明日はタワー内で自主トレでーす……真面目にやるかはわかんないけど」
「あはは、それなら俺も付き合おうかな」
入口に立ち尽くして、フェイスの全身を視界に収める。フェイスはベッドの上でリラックスした体勢のまま、体の向きを変えてディノと顔を合わせた。
「……びっくりさせちゃって、ごめんね」
「え……?」
「この前のこと。ちゃんと納得してるわけじゃなさそうな顔と声、してるから」
フェイスは代替の端末をベッドの上に放り出し、代わりに両腕をディノに向けて差し出した。そのちょうど一人分の空間に向かって、ふらふらと近付いていく。
「なんか最近、こんなのばっかりだ」
「アハ、たまにはいいんじゃない」
甘い香りがする。フェイスのベッドが、大人二人ぶんの重みで軋んだ。
「ディノ、俺はもしもの話なんてしたところで、結局はなるようにしかならないって思ってるんだ」
「……フェイスのいいところだ」
「ありがと。だから、もしいつか本当にそういう日が来ても……俺はちょっと、大丈夫な気がしちゃってる」
抱きしめる腕に力がこもるのを、フェイスは苦笑いでディノの背中をさすることで緩ませた。
「強がってるわけじゃないよ。未来のことは誰にもわからないんだし。でも、いざその時になってから、ああ、あの時デートしそびれたなとか、最後にキスしたかったなとか、思いたくないから」
フェイスがディノの肩を押す。縋るように覆い被さっていた上半身を少し起こすと、フェイスは相変わらず微笑んでいた。
「どうせなら明日のぶんも、今ちょうだい」
「……明後日のぶんだって、あげるよ」
フェイスが瞳を閉じるのをぎりぎりまで見届けて、ディノの方は薄らと瞼を開いたままだった。この愛しさを、一秒だって逃したくない。溺れてしまいそうなほど、フェイスを追って深く深く潜り込んでいく。一秒とは言ったけれど、実際のところこの時間が十分間なのか二十分間なのか、ディノにはもう感覚がなかった。
「……ん、う……待っ、ストップ……ディノ」
「足りない……」
「ここで、これ以上はだめ」
舌足らずの掠れた声で制止するフェイスの頬に、渋々了解のしるしの軽いキスをして、隣に寝転ぶ。控えめだけれど、苦しそうな呼吸音が聞こえた。フェイスが止めてくれていなければ、時も場所も状況もわきまえない獣になっていたかもしれない。
「フェイス、ごめ」
「謝らなくていいってば……」
自らの手でディノの口を塞いだフェイスが、呼吸を落ち着かせようと深く息を吸っては吐いてを繰り返している。フェイスの手のひらは何故だかじんわりと、泣きたくなるような温かさだった。
「……足りないって言った?」
「足りないよ、あれじゃ明日のぶんだってあったかどうかわからない」
「アハ、じゃあ、結局は明日に持ち越さないとね」
フェイスの手はそのままディノの頬を撫でていく。生きている限りずっと、この熱に触れていたかった。
「……先のことばかりじゃなくて、ちゃんと、今そばにいる俺のことも見てて」
「……うん」
いつかと同じ、存在と居場所を肯定する言葉。強く頷いて、寝転んだままフェイスの身体を抱き寄せようとしたが、それはディノの携帯端末の通知音に阻まれた。ごめん、とひと言許可を得て液晶を覗く。祖母からの画像付きメッセージだった。庭の隅に咲いた、小さな花の写真が一枚。タイマーを上手く利用したのか、祖父母が庭に置かれたベンチに座り、共に微笑んでいる写真が一枚。フェイスに花の写真を見せて、もう少し暖かくなればこの小さな花が庭一面に広がることを教えると、ディノの実家らしいと笑ってくれた。
いつか――そう、いつか訪れる最後の、その住処には鮮やかな緑の庭があるといい。そこに植えられたたくさんの花を、二人並んで眺める麗らかな春の日を想う。永遠の別れは寂しくても、不幸せではないと言った祖母の言葉を、ようやく理解できたような気がした。