日曜日の番犬 イエローウエストの夜。多種多様な人工灯に煌々と照らされた通りは一晩中眠ることを知らない。歓楽街としては魅力的だが、昼間と比べ物騒で、どこか後ろ暗く、自分の身を自分で守る術を持たない人間が一人で出歩けるほど治安が良いわけでもなかった。ひとつ裏の通りに入れば剣呑な雰囲気は特に顕著であったが、フェイスは気にした様子もなく、胸の前に大きな箱を抱えて歩いていた。一年のうち、もしかしたら半分は通っている道だ。警戒はしても、怯えはしない。その上、今夜は一人ですらない。
「ごめんね、付き合わせちゃって」
「気にしてないよ。明日はオフだし、むしろ体力が余ってうずうずしてるくらい」
「アハ、ディノらしいね」
歩を緩めて箱を持ち直したフェイスの少し後ろを、フェイスより大きな箱を抱えたディノがそれでも身軽にスキップする勢いで歩いている。箱の中身は、フェイスが懇意にしているクラブオーナーが貸し出してくれた音響機材だった。大きなものは業者に任せたが、いくつかは精密機器も含まれるので直接運ぶための人手が欲しいのだと頼んだところ、ディノは快く引き受けてくれた。『ヒーロー』としての業務終了後、そしてディノの言う通り明日は休日なので、【HELIOS】の制服は身につけていない。一般的な服を着た、背丈のある男が爛々と目を輝かせて歩く様は、この界隈で言えば異常だった。目を引いても絡まれないというのは、見た目のおかげで人種性別問わずエンカウントの多いフェイスにとって非常にありがたいことだ。最初にディノをクラブへと誘ったときも、似たような理由があったことを懐かしく思う。
「……ねえ、俺が初めてあのクラブにディノを連れて行ったときのこと、覚えてる?」
「覚えてる覚えてる、すっごく楽しかった! フェイスのかっこいい一面が見られて嬉しかったなぁ」
もちろんいつでもかっこいいぞ、と要らないフォローを付け足して、ディノはやはり楽しそうに踵を跳ねさせる。機材の梱包の際、緩衝材を多めに詰め込んでおいて正解だった。
「それだけ? 女の子を避けるためとか、結構扱い酷かったなって我ながら反省してるんだけど」
「そんなこと、あのときも謝ってくれただろ? それに俺は気にしてなかった。だから良いんだよ、今だって俺はフェイスの役に立てるだけで嬉しい」
「ちょっと甘やかしすぎじゃない?」
「恋人は甘やかすものだからな」
「な、何それ……」
恥ずかしい台詞を声色ひとつ変えることなく言い放ったディノの方を驚いて振り返るが、本人は朗らかな表情さえ一切崩さず、不思議そうに小首を傾げ、危ないから前を向くようにと促した。言われた通り目線を前方に戻してから、フェイスは深く息を吸って、吐いた。恋人との夜の散歩は、一人歩きよりも心臓に悪いかもしれない。
「……そういうの、どこで覚えるの」
「おじいちゃんの口癖だよ。昔はよくわからなかったけど、今は本当にその通りだなって思ってる」
「そう……」
ディノの祖父の古い教え。大きな納得と、少しの照れと感謝が入り混じった複雑な心境で、フェイスはちょうどたどり着いたクラブの入口、そのドアこそは救いとばかりに手をかけた。
「オーケー、これで全部だ。わざわざ悪いな、フェイス」
「こちらこそ、助かったよ」
オーナーと共に中身を確認したあと、機材は箱ごとクラブのスタッフに引き渡した。身軽になったとひと息ついて、フェイスはオーナーに問いかけた。
「フロア、結構賑わってるね? 俺がステージに立つって、告知あったっけ」
「あー……いや、サプライズのつもりだった」
「ゆっくり来たから、先回りされちゃったか」
「そうかもなあ……」
オーナーは返答も上の空で、やけに落ち着かない様子だった。雑談が途切れるたび、フェイスの隣にいるディノの顔を不安そうに、物言いたそうにちらちら見ている。
「……フェイス、出番はもう少し先? 俺、フロアに出て待ってるよ。身体も温めておきたいし」
「え……あ、うん」
オーナーの雰囲気を察したのであろうディノが、カウンターの前を抜けていく。フェイスがその背中を追って、ついでにフロア全体を見渡すと、壁に沿って配置されたソファに座るグループの姿が目に留まった。柄物の開襟シャツにハーフパンツ、金銀のネックレスや時計が遠目にも嫌味に輝いている、いかにもといった格好の男たちだ。クラブには常日頃から様々な客が出入りしているが、見慣れない顔ばかりで、端的に言えば浮いていた。
「ねえ、あの人たちってオーナーの知り合い?」
「……いや、あいつらは」
フェイスの後ろで、オーナーは限りなく嫌そうな声を出した。
「うちの常連客の一人が、奴らから大層な額借りてるらしくてな……返済が滞ってるから、わざわざ本人を探しに来たんだと。この場所も、一体どこから聞いたのか……」
「へえ……その、借金してるっていう客は? 最近ここに来てるの?」
「一ヶ月以上は見てないよ。奴らにも最初にそう言ったんだけどなあ」
フェイスはオーナーとの会話中も、男たちから目を離さずにいた。男たちは時折下品に大口を開けて笑いながら、通りかかった女性にしつこく声をかけては嫌がられている。
「……雰囲気、サイアクだね」
「だろ? 困ってるんだよ……なあフェイス、ヒーローとしてこう、それとなく追い払えたりしないか?」
「ええ……無茶言わないでよ」
「そこを何とか、頼む、この通り」
クラブの迷惑客を追い払うミッションは、厳密には『ヒーロー』の仕事とは言えないはずだ。オーナーもそれを理解していて、ディノの存在を気にしていたのかもしれない。フェイス個人としても、オフタイムに降りかかる面倒事の許容範囲をゆうに超えていた。それでも世話になっているオーナーの必死さや、お気に入りの場所を荒らされている不快感も相俟って、フェイスは大きく息を吐いた。
「はあ……行くだけ行ってみるけど、そんなに期待しないでよね。あいつらも、フロアで女の子に絡む以外は目立ったことしてないし」
「ああ、もちろん……助かるよ」
何度も頭を下げるオーナーを制止して、フェイスは出来る限りこっそりとフロアを移動した。出来る限りというだけで、黄色い声が追いかけてくるのを止められはしなかったが、女性たちはすぐにフェイスがどこへ向かっているかを察したのか、話しかけられるようなこともなかった。
「あのー、スミマセン」
フェイスが声をかけると、グループの中心であろう大柄な男が、嫌味に豪奢なアクセサリー類の纏わり付いた首を上げた。
「あ? んだよ、男かよ」
「どーも。……皆さんの探してる人、多分もうここには来ないですよ。探偵でも雇って探した方が早いと思いますけど」
「っせえなあ、お前に関係ねえだろ」
話を聞く価値もないとばかりに、大柄な男は手を振って追い払おうとした。フェイスに出来ることはここまでだろうか。どれだけ慎重に、穏便に対処するつもりであっても、既に左右と後ろを男たちに固められている。追い払いたいのか囲いたいのか、せめてどちらかにしてほしい。
ふと、フェイスの右側から金髪の男が背中を曲げ、ふらりと屈むように覗き込んできた。不愉快に甘ったるい香りがフェイスの鼻を掠める。香水でも酒の類でもないその匂いは、フェイスの知識が正しければ、穏便に、などと言ってはいられない種類のものだった。
「お兄さんさ、イケメンって言われない?」
男たちはフェイスのことを知らない。自意識過剰かもしれないが、『ヒーロー』の知識に乏しい余所者と見て良さそうだ。さてそれならどうするか、と考える間もなく、金髪の男は話を続けた。
「お兄さんが代わりに払ってくれてもいいんだよ、今お金持ってる?」
「おい、黙れよ、逃げられちまう」
知らないということは、非常に恐ろしい。いくら体格が良くても、四、五人の一般市民に劣るほど鍛錬を怠っているつもりはないので、フェイスはとりあえず言われるがまま様子を見ることにした。上手くいけば、オーナーの願い通り男たちをクラブの外へ連れ出せるかもしれない。何がそんなに嬉しいのか、いやらしい笑みを浮かべたまま、男たちはフェイスとの距離を詰めてくる。
「お兄さんさ、綺麗な顔付きの一括払いが良い? それとも全身バラバラの分割払いが良い? 詳しい話は上……で……」
終始楽しそうな金髪の男は、不穏な台詞を言い終える前に、フェイスの左斜め上に視線を移した。
「フェイス、お友達か?」
「えっ……ディノ?」
場の雰囲気に似つかわしくない、ディノの朗らかな声が空気を壊す。男たちが圧倒されている間に、ディノはフェイスの後ろから一歩前に出て、いたって明るい語調のまま話を続けた。
「フェイスがいつもお世話になってます。俺は【HELIOS】でフェイスのメンターをやってる、ディノ・アルバーニって言うんだ。よろしく」
「ちょっと、ディノ、違うから……」
「え、違うのか? まあ……確かに、フェイスにこんなに匂いのきついお友達なんて、いるわけないか」
笑顔から一転、目を光らせて、ディノは少しだけ低い声を出した。
「合法……なはずないよな。今、持ってたりする? 武器は持ってないみたいだけど、イエローウエストの警備を舐めてると、痛い目見るぞ」
「てめ……ッ」
「おい! やめろバカ、さっさと行くぞ」
金髪の男はディノに向かって飛び出そうとしたが、それを止めた一人を除いて全員が、既にフェイスたちに背中を向けていた。【HELIOS】という単語と僅かな知識はあったらしい。慌ただしく出口へ向かう男たちを見て、フェイスはディノに訊ねた。
「ねえ、いいの? あいつら、やってるでしょ」
「ん? 大丈夫。ついさっき、入口付近に到着したって連絡があった」
拳を丸め、両手首の内側同士を合わせたポーズで、ディノは相変わらず朗らかに言ってみせた。
「いつ呼んだの……というか、いつから見てたの」
「フェイスがあいつらに近寄るあたりから。……あ、もっと早く来いって?」
「そういうわけじゃないけど……」
特に危害を加えられてもいなければ、損をしたわけでもないが、どうにも釈然としない心地で、フェイスは言い淀んだ。ディノは笑みを絶やすことなく、フェイスに耳打ちした。
「フェイス自身が、責任を持って引き受けたことだろうなって思ったから。本当に危ないって判断したら、当然関わらせてもらうけど」
「……ディノも、ヒーローだから?」
「もちろん、それもあるよ」
いつもの笑顔と、その裏の強かさを覗かせて、ディノはフェイスの背中を軽く叩いた。
「さ、今夜のセットリストは決まってるのか? 俺から一曲、リクエストしておいてもいい? メッセージで送るから」
「いいけど……なんか……」
ずるい、という言葉を無理矢理飲み込んで、一人ステージへと向かう。オーナーが今にも貧血を起こしそうな顔でこちらを見ているのが少しおかしい。ディノからのリクエストナンバーが送信されたメッセージボックスを開く。
「……やっぱり、ずるい」
朝まで、二人踊り明かすような。
熱烈なダンスナンバーが何を示唆しているのか、いっそわからないふりをしてやりたい。嘘がつけないくせして、人を転がすのは上手い上司兼恋人をほんの少し憎らしく思っていたというのに、フェイスがステージの上に立って最初に示したのは、了解のサインだった。