春の匂い「春の匂いがする」
ベランダに向けて何とはなしに放ったディノの声を、フェイスはしっかり拾ってくれる。
「春の匂い?」
「うん、わかるかな……何っていうわけじゃないんだけど、ふわっとした空気の匂い」
けれど開け放った窓からリビングに流れる風は、どちらかといえば肌に冷たく感じる。そもそも部屋の空気を入れ替えようとしていたので問題はないが、フェイスに共感してもらうには心許ない返答だった。それでも天気は雲ひとつない快晴で、このあと街へ巡回に赴くのにもう分厚いアウターは必要ないだろうと付け加えてからやっと、フェイスはそうだねと頷いてくれた。
実際のところ、季節の移り変わりの際に感じるこの香りの正体をディノ自身もよくは知らない。春なので何がしかの植物の芽吹きだとか、陽光に照らされた土の匂いだとか――想像には難くないが、ニューミリオンは大部分がコンクリートと鉄筋でできている。ディノがエリオスタワーの上層階で嗅いだ、何とも言えないふとした予感を、的確な言葉で表現することは難しかった。
何気なく、風の音に紛れても構わない程度の呟きとして口から送り出してしまった言葉を、フェイスは聞き漏らすことなく受け止めてくれた。興味や関心は施しと程遠いもので、取り繕わない素直さはフェイスが持つ魅力のひとつだった。
「まあ、何となくわかるよ。よく言うもんね、雨の匂いとか」
「そうそう、そういうの」
夕方までには帰れるだろうから窓は開けっ放しにしていこうかというディノの提案に、賛成票を入れるフェイスの声はいつのまにか隣に並んでいた。こんなに良い天気なのにパトロールなんて、とぼやく横顔に、ディノは苦笑するほかになかった。街の平和を守る仕事にはもちろん責任を持っているが、半分はフェイスと同じ気持ちだった。今日がオフだったなら、キースやジュニアも誘ってミリオンパークでキャッチボールをしたあと、芝生の上でデリバリーのピザを堪能するといった催し物を開いただろう。それくらい平和で、朗らかな午後だった。そしてそれがどれだけ貴重な時間かも、ディノは知っている。
「さて、そろそろ出かけようか、キースとジュニアはどこで――」
ランチしてるんだっけ、というディノの台詞を丸ごと飲み込むように、フェイスの両腕がゆったりとディノの背中に回される。風を受けて少し冷たくなっていた制服のシャツが、フェイスの体温とともに身体に張り付く。温かいのか冷たいのかもよくわからない。
「え……っと、フェイス……?」
柔らかい毛束を胸元に擦り寄せて、しかしフェイスはディノに抱きついたまま何も言わない。感情のまま行動するのなら、その背骨に怪我を負わせてしまいそうなほどの気持ちで返したい。けれどそれは色々な人が、そもそもフェイスが困ってしまう。ディノは不自然なマネキン人形よろしく棒立ちになったまま、太陽が雲の影に隠れ、より冷たくなった風を浴びていた。
「あのお、フェイスさん……?」
「……その呼び方、やめて」
不機嫌な声はクリアだった。顔を上げたフェイスが拗ねたような顔をしたまま身体から離れていき、ディノもいよいよ本当に戯れている時間がないことに気が付いてその背中を追った。
キースとジュニアはてんでんばらばらな方向で各々の昼休憩を過ごしていたらしい。ディノとフェイスが分かれてそれぞれの居場所に合流した方が効率的だった。効率という言葉にも微妙な反応を見せたフェイスだったが、一度頷いたあとは何も言わず、大通りの交差点で信号待ちをしている。
先程のハグの理由や意味を尋ね損なったことを情けなく思いつつ、横目でフェイスの表情を盗み見る。ディノは何も言っていないので、当然その涼しげな顔が何かを聞き返してくれることもなかった。
交差点を渡った先がフェイスと別れるポイントだった。またあとでと声をかけると、フェイスは頷き、自らの白いネクタイを摘み上げ、示すように指を差し、そしてディノに背を向けて歩き出した。
昼食のピザのソースでも飛ばしてしまったかと、慌ててシャツごとネクタイに鼻を寄せる。結果として、ディノの制服のどこも、ピザソースの被害には遭っていなかった。
ただ、甘くむせ返りそうな――彼の匂いが、春の風とともに通り抜けていった。