支度 廊下の先、細く開いた扉の向こうからは、温かなみかん色の光がこぼれている。肉や野菜を煮た食欲を誘う香りも漂ってきて、タネトモはふと足を止めた。
軍の幹部たちが食事をとるための小さな一室だが、階下にある大食堂でも同じように食事の支度がなされているに違いない。あたたかな料理の香りは直に廊下を伝って広がり、宿舎にいる者たち皆の元へと届くだろう。
部屋の中には誰かがいるらしく、廊下の壁にこぼれてくる灯りは時折遮られてちらちらと動く。動きと動きの合間に熟慮が入るのか、光の揺らぎは不規則だ。どうも手慣れたスタッフの動きではないと、タネトモは半ば訝しみながら近付いていくと、ドアノブを静かに引き開けた。
食卓の上には、いつもと変わらずほんの数人分だけの食事が用意されようとしている。折敷の上に並べられた椀、艶のある塗り箸。小鉢のひとつを覗き込んで盛り付けを調整しているのは、事もあろうに総大将の弟だった。
「あら。どなたかと思えば、弟君ではありませんか」
暖房の効いた部屋へと足を踏み入れ、タネトモは殊更ににこやかな表情を作ってみせる。向こうも振り向いて、彼女をその視界にとらえた。
「やあ。お疲れ様」
いかにも愛想がよく、人好きのするタネトモの笑顔に、弟は朗らかな顔つきをして応える。
この弟の底が、タネトモには計り切れていない。現に今もタネトモの見事な笑顔につられ何も考えないまま笑ってみせたのか、タネトモの笑顔が作り笑い――あまりにも見事な――のそれだと知りながら、自らも社交辞令のように自然な笑顔をつくってみせたのか、タネトモには判別がつかなかった。
ひとたび戦場へと飛び出せば、恐ろしいまでの才でもって敵軍を殲滅してくるのがこの弟だ。彼の兄やタネトモが立てた案に従って刀を振るい小隊を指揮するのだが、参謀たちが動かす「駒」のひとつであるとは誰にも思えなかった。むしろ彼の能力を頼りに策を立ててさえいるのだから。
総大将ヨリトモが、畏れんばかりに気を遣い心を配り目をかけていることもタネトモは把握している。弟の方でもわずらわしいことを嫌うのか幹部の座についてこそいないものの、一種特別な立ち位置であることに間違いはなかった。
「待っててね、もうすぐで支度できるから」
やわらかい口調で言い残すと、彼はまた配膳の続きに戻っていく。左手に持った大きな焼き物の鉢の、中身は筑前煮だった。
「……なぜあなたがそれを?」
食事の支度を担当するスタッフは潤沢にいるはずだ。わざわざ彼が手を出さなくても良いはずだった。
「うーん」
屈めていた腰を伸ばし、弟は邪気のない表情で言葉を探す素振りを見せる。
「ちょっとでも兄上をねぎらえたらいいなと思ったから、かな」
しばしののち、少しの他意もない様子をしてタネトモに告げた。
「たとえば、好きな食材が多く入ってたら嬉しいでしょ。それに今日のおかずはお米が進みそうだから、ごはんも多め。遠出もしてて、お腹が空いてるだろうし」
続けた言葉は、悪戯が成功したことを告白するかのような、楽しげで誇らしそうな調子に満ちている。言われてみれば、ヨリトモの席の小皿や茶碗は、どことなく他の膳よりも量や食材が調整されているように見受けられた。無論、意識して確かめなければそれと気付かない程度に。
「あ、他の人のを減らしたりしてるわけじゃないよ。いつも結構余裕を持って作ってもらってるから、その分で調整を……」
慌てたように言い添える。そんな心配をしているわけではございませんよ、とタネトモは優しい口調を装って首を振った。
「これまでも、そうして兄上のお膳に工夫を凝らしてきたのですか?」
「この時間までに帰って来られればね。学校のこととかトレーニングとかで、結構間に合わない日も多いんだけど……」
兄のことを思い、少しでも相手の好みに沿うように、相手の心を満たすようにと食卓をととのえる姿。これを、当のヨリトモは知らないのだろう。
「ご一緒なさらないのですか?」
「うん?」
手を止め、タネトモへと顔を向ける。その瞳には、知ってるくせに、と言いたげな色が浮かんでいた。
けれどその眼差しに、苛立ちや悔しさ、やりきれなさといったものは一切含まれていない。からりとして晴れやかな、それは達観したような瞳だった。
こういうところが底知れないのだ、とタネトモは思う。あんなにヨリトモを慕っていて兄のためならばどんな死地にも飛び込むくせに、自分と一緒では兄が落ち着いて食事できないのを知っていてあっさりと身を引く。そのくせこうして、彼の嗜好に合わせて密かな細工を続けている。
タネトモの指先が、華奢な扇の骨をとん、とん、と叩いた。
(……とんだご兄弟ですこと)
あんなにひとの感情の機微を読み取りひとを動かすことに長けているくせに、弟の考えていることが分からないと言い、恐れているのにも関わらず一向に彼を切り捨てられない兄。
兄のためならば自らの命が危機にさらされようとも一切の躊躇をせず、兄に疎まれていることが分かっているくせに戻ってきては慈愛に満ちた瞳でじっと見つめる、たがの外れたような弟。
二人とも、どうかしているのだ。
「俺は下の食堂で、みんなと食べるよ」
兵士たちは皆、大きな食堂を使っている。列を作り、各々好きな量を自分でよそい、好きな席に座って食事を楽しむのだ。いち兵士である彼も、例外ではなかった。
「タネトモはここで食べるでしょ?」
言いつつ、ひょいと片手をさしのべ、箸がずれていたのを直す。その横顔には、肉親へのあたたかな感情が満ちていた。
「兄上の様子、あとで教えてね」
「ええ、きっと」
タネトモはまっすぐに頷く。底知れない兄弟だと、これから先も幾度となく思い続けるに違いない。そんなことを考えた。