それは甘く それは例えば、移動教室や登下校といった、ごく日常的なタイミングで目撃される。また或いは、放課後に街を歩くような、何気ない時のことだ。
クラスや学年を問わず彼に話しかけてくる相手は多く、ひとたび街へ出れば、制服のデザインや年代すら関係なく彼のもとへ走り寄ってくる相手が何人もいる。
そのたびに俺はどうしようもなく気を揉み、心の狭さを痛感しては、自己嫌悪に陥っていく。
彼の端末はしょっちゅう震えていて――誓って、どこの誰からどんな連絡が来ているのか詮索するつもりは毛頭ない――、画面を光らせているメッセージアプリの通知が視界の端に映ってしまう。どこかの誰かが、彼に気持ちを寄せている証拠。
学園の内外でイベントがあるたびに、長期休暇のたびに、嬉しそうに彼の名前を呼ぶ相手が増えていく。そしてそれはつまり、彼が楽しそうにそれらに応える回数が増えていくということと同義なのだった。
ホームルームが終わるなり、彼の机に飛んでいったのはリョウタだった。今日これからの予定を尋ねている。どんな答えを返すのか、俺も知りたい。もし、予定が空いているのなら。
こっそりと視線を向けた先、彼はすまなさそうな表情を浮かべ、顔の前で両手を合わせた。
「ごめんリョウタ! 今日はね……」
ざわざわした教室の中、必死になって聞き耳を立ててしまう。彼は学外の友達と約束をしているらしい。その相手のプレゼント選びに付き添うことになっているのだと説明をした。
人間ができているリョウタは、くっきりした笑顔を浮かべて頷く。
「そっか、先約があるなら仕方ないよねー。また今度、調理部に遊びに来てね!」
「うん。誘ってくれてありがとう」
リョウタに微笑み返している彼は、いったい誰と連れ立って街を歩くのだろう。俺の知っている人だろうか。きっと電車に乗って、どこかで待ち合わせをして、それから。
そんな風に思い浮かべるだけで、心にさざなみが立っていく。それは一向に収まる気配がなく、度量の狭い俺は揺さぶられるばかりだった。
友達が、自分以外の友達と遊びに行くなんて、よくある普通の出来事のはずだ。それが彼のこととなると、どうしてこんなにも気が落ち着かなくなるのだろう。
荷物をまとめ、足早に教室をあとにする。シロウ、と声が追いかけてきたように思ったのは、きっと俺の願望から生まれた空耳だ。
彼とお喋りに興じるわけでもなければ、ギルドのセーフハウスでミーティングをしたり街で買い食いしたりするわけでもない夕方というのは長かった。早々に寮の自室へ引き上げる。机に向かって本を開いたけれど、気が散って一向に読み進まなかった。内容が頭に入っていないせいで、何ページも戻って読み直したり、同じ行を何度も辿ってしまったりと、惨憺たる有様だった。
「何をやっているんだ俺は」
情けないため息が散った。
ギイ、と遠慮がちな声が響く。太ももによじ登ったエビルが、不安そうな気配をたたえて俺を見上げていた。きっと俺は、怖い顔をしていたのだろう。
「ごめんよ、エビル」
ちっとも没頭できない小説を閉じ、エビルを抱き上げる。
「俺は大丈夫だから」
キイ、とか細い声が返る。小さな手が、俺の指先をそっと握った。
このままここでこうしていても落ち着かない。食堂へ向かうべく立ち上がる。夕食の用意が整うまでにはまだ早い。けれどそれならそれで、何か手伝えることがあるだろう。黙々と何かしらの作業に取り組んでいた方が、気がまぎれるに違いなかった。
夏も近付いてきて、この頃やけに日が長い。もう暮れたはずだろうと思って外を確かめるのに、街路樹の影や建物の輪郭は随分くっきりとしていた。少しだけ翳った空は、うすい紺の端にわずかな紅色を重ねている。
「いつまで明るいんだろう」
なんだかいらいらするような気持ちで、窓の向こうへ視線をやっていた。
廊下を曲がった先で出くわしたのは、他ならぬサモナーの姿だった。門限はきちんと守ったらしい。相手の姿を見て目を見開いたのは、俺も向こうも同じだった。
「シロウ! ちょっと待って!」
これでも俺は学級委員だ。廊下は走らないようにと注意するより先に、すぐそばまで駆け寄ってきた彼に顔を覗き込まれて息が詰まった。
「ち、近……」
「ねえシロウ、なんか今日変じゃない? 体調悪い? それとも何かあった?」
「……質問は、ひとつずつにしてもらいたいな」
まっすぐな視線をして、彼は「分かった」と頷く。それに安堵して、ひと息つく暇もなかった。
「シロウ、俺のこと好き?」
やっぱり彼の器は、俺のそれとは比べ物にならないほどに大きかった。
彼が矢継ぎ早に質問を繰り出してきたのに対して、俺はひとつずつにしてほしいと頼み込んだ。それなら、さっきの質問の中からどれかひとつを選び取るのが定石だ。それがこともあろうにまったく別のところから問いかけを持ってくるなんて。しかもそれは、絶対に嘘では返せない質問だった。
俺の答えを待っている彼は、不安に満ちた表情を浮かべている。曇った眉、瞳の奥まで覗こうとする眼差し、浅い息をこぼすくちびる。
「好き、で、いてくれないの……?」
自惚れないでくれとか、さっきの質問はどこへ行ったんだとか、そんなことを口にできたのならまだ良かったのに。
とてもじゃないけれど、それ以上彼の視線を受け止めてはいられなかった。まぶたをきつく閉ざす。熱い涙がまつげの先でちぎれて、――ようやく俺は、自分が涙ぐんでいたのを知った。
「どうして君はそういう言い方を」
なんとか絞り出そうとした言葉は、無力感に覆われてすぐに途切れる。深呼吸とまばたきを繰り返した。
「俺が君を好きでいたって、君は俺のことを……」
「シロウ、シロウ、全然違うよ」
何度も首を振る彼は、必死の形相を浮かべていた。
「友達と遊ぶのと、俺がシロウを好きなことは全然違う。心配する必要なんか全然ないよ」
いよいよ自分に嫌気がさしていく。彼の視線はあまりにもまっすぐで、これ以上向き合ってはいられなかった。
「分かったよ、分かったからもうやめてくれ」
「嫌だよ。シロウ、こういうの得意なはずでしょ」
彼も気が昂っているらしく、口早に言ってから言葉を付け足す。
「こういうのっていうのはつまり、自分の気持ちや意見をちゃんと言葉にして相手に伝えるってこと。どうして今はそれをしてくれないの。俺に言いたいことがあるなら、ちゃんと教えてよ。話してくれないと分からない」
「君は、どうして……」
これ以上情けない表情を晒したくはない。震える手をのろのろと持ち上げる。嫉妬にまみれた顔を覆ってしまいたかったのに、その手は彼に掴まれて叶わなかった。
「……シロウ」
指先が絡む。ばかみたいに全身が熱かった。