恋愛相談は頼れる大人に 食堂の出入り口にかけられているのれんは麻でできていて、さっぱりとした風合いをしている。のれんの裾は扇風機の風が当たる度にそよそよと動き、廊下を歩く寮生の視線をやさしく誘導した。
何か飲み物でも、と、食堂へ足を運んだパズズとハスターの視線の先、振り向いたサモナーはエプロンをつけていた。昼食の後片付けの時間には遅すぎるし、かと言って夕食の支度にはまだ早い。
皆で食事をとる大きなテーブルの周りにも、奥の冷蔵庫やコンロの前にも、サモナー以外誰の姿もなかった。いったい一人きりで何の作業をしていたのだろうと首をひねる二人をよそに、サモナーは明るい表情を浮かべて「おかえりなさい」と出迎えた。
「お仕事、お疲れさま。無事に終わったんだね?」
「貴様、不敬な! 誰に向かってものを言っておるのだ」
ハスターはすぐさま鼻を鳴らす。無論、生物災害対策班としての任務は速やかに遂行された。現場に到着してから事態を収束させるまでにかかった時間よりも、出動道中の時間の方が長かったのはいつものことだ。
畑違いの現場に駆り出されたのならともかく、彼らの専門分野において、ハスターとパズズの二人に鎮められない災害は存在しないのだった。
「お休みの日なのに大変だね」
「まあね。だけど、災害に祝日はないからね」
パズズの言葉に、サモナーは神妙な顔をして頷いた。
「そうだ、どら焼きがあるんだけど。良かったら食べない?」
「どら焼き? 食べる食べる!」
「そのようなもの。吾輩は食わぬ」
弾んだ声を上げたパズズと、つんとそっぽを向くものの部屋へ向かうことはしないハスター。対照的な二人へと交互に視線を注ぎ、サモナーは楽しげに目を細めた。
「そっか。それじゃあ、お茶でも飲む?」
任務から帰ってきたばかりの二人をテーブルへと促し、一度厨房へ引っ込む。
大人数がいちどきに食事をとれるテーブルはかなり大きい。随分古びてはいるものの、隅から隅まで拭き上げられ、きれいさっぱりとしている。
「さっき冷蔵庫に入れたばっかりだから、まだ冷えてないかもしれないけど……」
ガラスのコップの中で、からからと涼やかな音が響いた。ありがとうと答え、パズズは上品な仕草でコップを持ち上げる。氷を浮かべたばかりの麦茶は確かに少しばかりぬるい。けれどじゅうぶんにこうばしい香りを含み、やさしく喉をうるおしていく。
ばさばさと音を立てて黄色の防護服を畳み終えたハスターは、運ばれてきた麦茶をひと息に飲み干した。
「サモナーちゃん。どら焼きって、どこか遊びに行ってきたのかい?」
食器棚を覗き、あれこれと皿を選んでいたサモナーの肩がぴくりと跳ねた。手を止め、ゆっくりと振り向く。
「……あの、買ったどら焼きじゃないんだ」
「どういう意味だ。献上品か?」
「自分で焼いたの」
緊張したようなひと言に、パズズとハスターは揃って目を丸くした。
「焼いた? 自分で作ったの?」
「そんな器用なことができるのか?」
「作ったっていっても、皮の部分だけだよ。餡を炊くのは大変そうだったから、そっちはスーパーで買ってきたつぶあんだけど」
予想以上の反応だったらしい。困ったように笑う様子は、どこか照れくさそうだった。
「偉いねぇサモナーちゃん。皮だけっていったって、手がかかったんじゃない?」
「そんなことない。今日はバイトもないし、暇だったから……」
前々から、寮生の中で当番制となっている食事の支度を苦にしてはいないようだったし、世の中で流行っている飲みものやスイーツなどにも割合興味を示す方だ。それにしても、まさか手製のどら焼きを出されようとは思ってもみなかった。パズズは「すごいねぇ」と繰り返した。
「……だけは」
「トカゲちゃん? 何か言ったかい?」
ひっそりと落とされた低い呟きがうまく聞き取れなくて、ハスターの顔を覗き込む。鋭い牙が白く光った。
「皮だけというのは用意できぬのか!?」
「あっ、あるよ! まだあんこを挟んでないやつだよね!」
言いつつ、食器棚へ飛んでいく。丁寧な手つきで扉を開け、いそいそと皿を取り出した。
「……パズズ。吾輩に何か言いたいことがあるのか」
「ううん、特にはないよ! ……ハスターは人間が好きだねぇ」
甲斐甲斐しく準備をするサモナーには聞こえない程度の声量でやり取りをする。
「共に暮らせば情も湧くわ」
素っ気なく言い放ち、ハスターはつんとしていた。
しっとりとやわらかい皮と、こってりと甘い粒あんの組み合わせがたまらない。手製の皮といえど、そのどら焼きは予想を越えた出来栄えで、パズズは何度もおいしいと繰り返した。
小さめのどら焼きであるのをいいことに、またひとつ、もうひとつと手を伸ばす。
「これって、パンケーキみたいに焼くのかい?」
「うん、そんな感じ。レシピはちょっと違うんだけどね。はちみつとか、みりんとか入ってるんだ」
へええ、と感嘆の声が上がった。さすがパズズは聞き上手だと、サモナーは嬉しくなる。
「さっきアールプはね、これにバターも挟んでた」
うくく、と思い出し笑いをこぼしながらの報告は楽しげだ。
「バターも? あまじょっぱい組み合わせだね」
「そうなんだよ! 急に冷蔵庫からバターを出してきて、てきぱきあんバターにしてて。思わず『天才じゃん』って言っちゃった」
「ふん。あやつのはしゃぐ顔が目に浮かぶ」
唸るように述べるハスターは、いつの間にか皿の上の二枚をきれいに平らげていた。何も言わないまま席を立ったサモナーが、冷蔵庫から新しいどら焼きを出してくる。にこにこしながらハスターの皿へ追加した。
「他の奴らの分は良いのか」
「うん。……持っていく分は、もう分けてあるから」
「院の研究室?」
相手の顔を覗き込むようにしながら、パズズが尋ねる。咄嗟にサモナーの視線があらぬ方向へ向かった。
「ええと……。うん……」
言い淀んだものの、結局は肯定する。なるほどね、と頷くパズズの声は、単なる相槌以上のニュアンスを含んでいた。
「毎日暑いね」
テーブルを挟んで、パズズとハスターの向かいに腰を下ろす。麦茶のグラスを指先でつつきながら、サモナーはのんびりと世間話を振った。
「そうだねぇ、夏だからね」
食堂の窓は大きく、庭の緑がよく見える。日中これでもかと言わんばかりに体を震わせている蝉たちも小休止を迎えているのか、今ばかりは静かだ。桜の木の葉が風にさわさわと揺れる音が、網戸ごしに聞こえていた。
「そういえば、さ。駅の近くで、ビアガーデンっていうのをやってるよね。二人はああいうのに行くの?」
「ビアガーデン? うーん、オレもハスターも、自分からは行かないかな。仕事のあとで誘われたりしたら行くかもしれないけど」
珍しい話題だと思いつつ、パズズは誠実に受け答えをする。別に嫌な話題でも何でもないけれど、なぜいきなりそんなことを尋ねるのだろう。高校生には足を踏み入れることができない場所だから気になるのだろうかと不思議に思う。
「寮のメンバーとは? お酒は飲まないの?」
「うーん……。たまに、って感じかな?」
質問の意図を探るより先に、答えは向こうからやってきた。
「あの……レイヴ先輩って、お酒とか飲んだらどんな感じなのかな」
大きく息を吸い込み、口早に言い切る。サモナーの表情は真剣そのものだった。
「どんなって、ふふ、例えばどんなだい?」
「例えば……いつもみたいに勘が鋭い感じじゃなくなったりとか……」
ちょっとふわふわしちゃうとか、と付け足す声は、今にも消え入りそうだった。やたらと「とか」を繰り返すサモナーは、今やパズズともハスターとも視線が合わない。グラスのふちを睨んでみたり、蛍光灯を見上げたりと、意味もなくあちこちへ顔を向けていた。
「うーん、どうだろうねぇ!」
考え込むポーズをとったパズズの声はやけに弾んでいる。日頃からにこやかな彼の笑みがより一段と深まったことに、ハスターだけが気づいていた。
「レイヴさん、我を忘れるほど飲まないからなぁ。いつもとあんまり変わらない感じだと思うよ」
サモナーはレイヴのことが好きなのだ。初々しい情熱でもってひたむきに慕っている様子なのは、毎日顔を合わせていればすぐに分かった。
レイヴの方としてもまんざらではないらしい。からかったり、するりといなしたりしつつも「可愛い後輩」と言ってはばからない。恐らくある種の感情を抱いてはいるのだろうが、他人にその全体像を掴ませたりはしないというのが彼らしいといえば彼らしい。
年少者の不器用な問いに、しかしパズズは真面目に答える。大切な仲間には誠意をもって向き合いたいという、彼の心情の表れだった。
「そっか……」
あてが外れたらしいサモナーは、困ったように呟いた。パズズの胸の中には、微笑ましさが一気に膨らむ。溢れんばかりになったそれは、ちょっとした意地悪な問いをもたらした。
「ふわふわしちゃってるレイヴさんの方がいいのかい?」
サモナーの頬が一気に赤らむ。ぶわり、と音が立ちそうな勢いに、パズズは今日一番の微笑みを浮かべた。
「そういうことじゃ、ないけど……」
「そう? でもせっかくなら、いつもとはちょっと違う先輩も見てみたいよね」
誘導めいた物言いに、サモナーは言い淀んだのちに「ん」と頷く。照れたのか、ますます下を向いてしまった。
「――旨かった」
それまでだんまりを決め込んでいたハスターが、ぶっきらぼうに言い放つ。椅子を蹴るような勢いで立ち上がると、小さくなっているサモナーをちらりと見下ろした。
年季の入った木の階段は、そのあちこちで板の端が浮き上がったりたわんだりしている。体の大きな二人が踏みしめるたび、きいきいと鳴くように軋んだ。
それぞれの部屋へと向かいながら、ハスターは横目で隣を睨む。
「貴様、にやにやしおって」
「えー? 何のことだい」
とぼけた声を上げつつも、パズズの顔はほころんでいる。ハスターは剣呑な舌打ちをした。
「若輩者をあまりからかうでないわ」
「だって初々しいんだもの! レイヴさんのこと、遠回しに調査したがってるんだろうけど、分かりやすすぎるくらい分かっちゃうよあんなのは。サモナーちゃんてほんと可愛いよねぇ」
あ、でもオレの一番はハスターだよ! と流れるように付け加える。当の本人は鬱陶しそうに首を振った。
「何にせよ、けなげな奴だ」
「ほんと、いい子だからさ。初々しくてにやにやしちゃうっていうのもあるけど、シンプルに『応援してあげたい』って思うよ、パズズさんは」
熱っぽい口ぶりで告げる。人が良いパズズの、その気持ちに嘘はない。ハスターもまた、その思いに文句をつけるつもりはないらしく、興味がないそぶりをして鼻を鳴らすのみだった。
ちょうど階段を上がり切ったところだった。廊下の向こう、ふわーあ、と気の抜けたあくびが響く。顔を上げた先、部屋から出てきたのはレイヴだった。
くしゃくしゃに皺の寄ったシャツの襟元に、よじれたネクタイが巻き付いている。いかにも疲労困憊した様子に、二人は揃って眉をひそめた。
「わお。噂をすれば、だ」
「帰ってきておったのか? レポートは進んだのか」
研究室こそ異なるものの、互いの状況はある程度把握している。気遣いも込めての問いかけに、レイヴは黙って吐きそうな表情をしてみせた。
「もう今日はだめだ。昼過ぎに帰ってきて、ひとしきり寝たところだよ俺は」
いかにも寝起きの声で窮地を訴える。思いきり昼寝を貪ったにしては、どろりとよどんだ視線をしていた。
パズズとハスターは、しばし黙って顔を見合わせる。ややあって、えへんえへんと咳払いをした。
「あのねぇ、隙がある先輩も見てみたいって言ってたよ」
「あまりガツガツしておると逃げられるぞ」
二人の自室は共に、レイヴの部屋よりも奥に位置していた。言いたい放題に言葉をぶつけ、レイヴの横をさっさと通り過ぎる。
「食堂にね、おいしいものがあるみたい」
「どら焼きを食うが良い。有難くな」
脈絡なく言葉を続けると、それぞれの部屋の引き戸に手をかけ、がらがらと音を立てる。
「じゃ、お疲れ様」
「根を詰めるのも大概にせよ」
話はそれだけだというように、二人はさっさとそれぞれの部屋へ引き上げる。
「……なんだぁ?」
あとには、まるで分からないといった表情のレイヴだけが残された。