お酒も恋もこれからです。「香ばしい味わいだね...私はさっきの果物のような味の方が飲みやすいかもしれない。」
グラスに注がれた茶色の液体をひと舐めしてジェラールが感想を述べてくる。
酒の種類には詳しくなくても皇族として育った下地があるので舌は味の違いに敏感なのだろう。
皇帝として即位後、国内の状況が落ち着いて来たこともあってそろそろ他国との交流も重視していこうという流れに上の方ではなったらしい。
傭兵としてアバロン帝国に仕えるヘクターには通常であれば内々の決定などは回って来ないが、紆余曲折を経て帝国の最高かつ唯一の尊い御方の側近としての立場を得てしまった為か当事者から相談が回ってきた次第だ。
これまであまり触れてこなかったが為に不慣れな事案について助力を願いたいと。
飲み方ももちろん重要だが酒の種類についても多少は慣れておいて損は無いはず、とお忍びで夜の酒場にお連れする事もあるが今夜はジェラール皇帝陛下の自室で皇族所有の貴重なボトルの数々とヘクターは対面する事になった。
「飲みにくいなら俺が貰います。利き酒みたいなもんですし全部飲むこたぁない。」
「私がまだ未熟だからかな...父上だったらもっと自然にこなせていたのかのしれない。」
「お父上だって多分貴方くらいの時には失敗も経験もされてますよ。貴方だって今がそういう期間でしょう。」
そう言いながらヘクターはジェラールの手の内にあったグラスを掠め取って一息で空にしてしまう。
ヘクターは全く酔わないという訳ではないが行きつけの酒場ではそれなりに酒精の高いものを好んで飲んでいるようなのでこの程度は軽いのだろう。
それとは別にそのグラスは私が口を付けてしまったものなのに嫌悪感も遠慮も無くそのまま飲んでくれるのだなと軽く酩酊した頭でジェラールは思う。
わかっている、自分がヘクターに思う気持ちが恋であってそれが届く事は一生無く、今が自分が得られる彼との親密な関係の限界である事は。
それでも呼べばこちらを向いてくれるから、相談を持ちかければ仕方ないですねと苦笑いしながらもジェラールのしたかった事を手助けしてくれるからそれに甘えてしまう。
ジェラールの姿を見た途端にふいと目をそらされ続けた期間に比べたら贅沢過ぎる程だ。
冷たいテーブルに顔を付け横を向くと触れられる位置にヘクターがいる。
あの髪に、あの頬に触れて近くで透き通る青い瞳を見られたら幸せだろうななどと詮の無い事を考えながら自然と落ちてくる瞼に逆らえないジェラールはそのまま夢の世界に旅立つのだった。
「...ジェラール様?あー......」
ヘクターがふと脇を見れば机に突っ伏して寝ている唯一無二の主君の姿。
兄譲りの黄金色の鎧を纏い、皇帝の玉座に御座す姿が嘘のようだ。
もちろんただの傭兵であり、なにより少し前まではあからさまに毛嫌いして極力関わり合いになりたくないとまで思い、ジェラールが父兄を亡くし絶望の淵に立たされていたその時ですら暴言を吐いた自分が何故かここに居ることも含めて。
本来自分などがこの場に居るべきでは無いという事は痛い程自覚している。
それでも今のこの状況を、ジェラールが望む限りは、自ら手放す事は出来ないししたくはない。
ジェラールがヘクターをその美しく澄んだ翠の瞳で捉えてくれている間だけでも。
ただ、酒に負けてしまった主は今自分を捉えてはいないので。
「役得だってのはわかってるんですけど…。」
ヘクターは手を伸ばし、机の上に雑に散らばった明るい赤毛の毛先に触れその毛艶を堪能し、その持ち主の耳朶に触れ滑らかな肌を撫でる。
これ以上は進んではいけないとわかっているのに、これ以上を求めたくなる。
昔ならこんな状況になっていればまどろっこしいと自ら壁を壊して進んでいただろうに、ヘクターは自分の変化に歯噛みする。
ただ、今はそれを壊そうとしない自分を褒めてやりたいとも思う。
この柔らかくて綺麗で眩しい人を自分なんかが壊してはならないのだから。
ふと気がついて外を見れば夜も更けている。
ジェラールをこのまま固い机で寝かせるわけにもいかないのですぐ隣にある寝台へ抱き抱えて運ぶ事にする。
既にジェラールは湯浴みもして後は就寝するだけという状態だったのでこのまま寝かせて問題は無いだろう。
ただそんな砕けた格好をして出迎えをされるヘクターの身にもなって欲しいとは思わなくもない。ジェラールが許してくれているのは近い臣下として、烏滸がましいが友人としてでしかないのだからと越えるべきではない一線を嫌という程自覚させられる。
そうした覚悟を持った上でジェラールを抱えて綺麗に整えられた寝台に寝かせ掛布を掛けると体勢が楽になった事もあるのか表情が緩み寝姿を整えるヘクターの元へ擦り寄ってくる。
決めた覚悟がジェラールによってへし折られる日も遠い日では無いんじゃないかとヘクターから漏れる溜息はジェラールが纏う香りと同じ物だった。
「ん……うぅ……眩しい……。」
昨夜は外の星を見ながらという事もあって開け放っていたカーテンもそのままだったようで、直接降り注ぐ朝の光でジェラールは目覚めた。
身体を起こして伸びをすると寝台脇から声がかかる。
「おはようございます、良く眠れました?」
「えっ、わっ!おはよう!」
昨夜一緒に居た時そのままの姿のヘクターが床に座り込み寝台の側面に背を預け頭は寝台に乗せている。
「居てくれたんだ…私が途中で寝てしまって君を帰せなかったからだよね、そんな所で…ごめん。」
一応眠ってはいたのだろうが身体を横たえることも無く大して疲れは取れないだろう。
自分のわがままに付き合わせてヘクターを疲労させてしまってとジェラールは気落ちしてしまう。
「今日の護衛は他の者にお願いするからせめて午前中だけでも休んでくるといい。そのように伝達しておくから…。」
「いえ、大丈夫です。身形を整える時間だけ頂ければ。いつも通りの時間にはこちらにまたお迎えにあがりますので。」
「うう…本当にごめん…昨夜は凄く楽しかったしとてもゆっくり休めてしまった。
ここで寝た記憶も無いし君が運んでくれたんだろう?ありがとうヘクター。」
「気になさらないでください。オレも良い酒を味あわせていただきましたし他にも…
まあとにかくありがとうございました。」
他?とジェラールは首をひねるがヘクターは口の端を軽くあげて笑うのみだ。
父の自室にしまい込まれていた年代物の酒も引っ張りだして来ていたので彼には良かったのかもしれない。
「では一度退室させていただきます。後程、またお迎えにあがりますね。」
「うん、今日もよろしく頼むよヘクター。昨夜も楽しかった、そちらもまたぜひ付き合って欲しい。」
「こちらこそ、いつでもお誘いください。」
最初は今後の勉強の為だとか言っていたはずなのに、ヘクターを捕まえる為の道具にしてしまっている気がする。
ジェラールは結果的に餌にさせてもらってしまった机に並ぶ酒瓶たちに感謝と謝罪の言葉を心の中で伝えるのだった。